第十八話 聞こえる日
朝、小屋の外に人の気配があった。
鴉が戸を押すと、宿の主人が立っていた。
一人だった。手に包みを持っている。息が上がっていた。ここまで歩いてくるのに、道を選んで来たのだろう。人に見られないように。裾が濡れている。畑を突っ切ってきたらしかった。
「昨日は、申し訳ありませんでした」
主人は頭を下げた。
「わたしが止めるべきでした。うちの前で、あんなことを」
鴉は答えなかった。
霙が小屋の中から出てきた。主人は霙を見て、少し驚いた顔をしたが、何も言わなかった。この領の人間は、あまり理由を聞かない。
「これを」
包みを差し出す。開くと、握り飯と、干した魚と、布が入っていた。布は新しい。裂いたばかりで、端がまだほつれていない。傷に巻くためのものだろう。
「いらない」
「……そうおっしゃると思いました」
主人は包みを閉じずに、地面に置いた。
「置いていきます。捨てていただいてもかまいません」
それから、しばらく立っていた。帰らなかった。帰るために来たのではない顔だった。
「お伺いしたいことがございます」
主人が言った。
「あなたは、お灰さまを壊すおつもりですか」
鴉は答えなかった。
「壁を斬られたと聞きました。血が出たと」
「出た」
主人の顔が歪んだ。泣きそうな歪み方ではない。もっと単純な、恐怖の形だった。
「やめてください」
声が低かった。
「お願いします。何とぞ、やめてください」
「あんたの息子は去年入った」
「はい」
「一年前だ」
「はい」
主人は両手を握り合わせた。指が白くなるほど握っていた。
「聞こえたんです」
霙が動いた。
「今年の、あの日です。あなたの妹さんが入られた日です」
主人は霙のほうを向いた。
「あの日だけ、石の内側に入れます。年に一度だけ。代官さまが列を作って、皆であそこまで行きます。あの日だけです」
「はい。行きました」
「あなたには、聞こえなかったでしょう」
「……何もありませんでした」
「そうです。去年のあなたにも、一昨年のあなたにも、何も聞こえなかった。うちの者も同じでした。三代、何も聞こえませんでした」
主人は塔のほうを向いた。ここからは見えない。それでも向いた。
「今年、聞こえました」
風が来た。
「息子の声でした」
霙が一歩下がった。下がったことに、自分で気づいていないようだった。
「近くに寄れば聞こえるんです。自分の身内だけです。他所の家の者は聞こえない。だから、皆それを言いません。言っても分からないから。聞こえた者にしか分からないんです」
主人は指で目のあたりを拭った。拭う必要のあるものは出ていなかった。
「何と言っていたかは、分かりません。言葉ではないんです。ただ、あれの声でした。二十六年聞いてきた声です。間違えるものですか」
鴉は動かなかった。
「どのくらい聞こえた」
「……ほんの少しです。列が進むあいだだけ。あそこに立っていられるのは、ひと呼吸ふた呼吸ですから」
主人は自分の足元を見た。
「止まろうとしました。もう少し聞いていたくて。ですが、後ろがつかえます。前の者が進めば、進むしかない。押されて、そのまま出てしまいました」
言いながら、指で袖の端を折り込んでいる。
「押した者を責める気はありません。あの者にも、あの者の一年がございますので」
主人は続けた。
「それだけです。それだけのために、一年待ちます」
言ってから、少し笑った。笑ってから、笑ったことを恥じる顔になった。
「三代、うちにはお呼びがありませんでした。恥でした。お受けいただけない家だと、そう言われてきました」
「恥」
「はい。恥です」
主人は言い切った。
「去年、ようやくお呼びがありました。息子は喜びました。わたしも喜びました。そして今年、聞こえたんです。あれは、あそこにおります。生きております」
霙が何か言おうとした。声にならなかった。
「あなたが壁を斬られたと聞いて、わたしは眠れませんでした」
主人は鴉を見た。
「あの中にいるんです。四百人とおっしゃったそうですね。四百人、みんな、誰かの息子や娘です。あそこで生きているんです」
主人は膝をつきかけて、やめた。地面に置いた包みを見て、それから立ち上がり直した。
「壊さないでください」
鴉は何も言わなかった。
主人はもう一度頭を下げて、来た道を戻っていった。途中で一度だけ振り返った。振り返って、霙に向かって言った。
「来年です」
霙が顔を上げた。
「来年の日に、あなたにも聞こえます。妹さんの声が」
主人は歩いていった。畑を突っ切らず、今度は道を通っていった。もう隠れる必要がなくなったのだろう。
霙は道に立っていた。動かなかった。
鴉は地面の包みを見ていた。それから霙を見た。霙はまだ、主人が消えたほうを見ていた。




