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屠神録 ―白灰の領  作者: 卓哉


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第十九話 殺さないで

 宿の主人が見えなくなってからも、霙(ミゾレ)はしばらく道に立っていた。


 風が冷たかった。上着の前を合わせて、それでも寒かった。寒いのは風のせいではないと、途中で気づいた。


 生きている。


 霰(アラレ)は生きている。


 そう思ったとき、膝から力が抜けた。しゃがみこんで、両手を地面についた。声が出た。自分の口から出ているのに、自分の声だと思えない音だった。


 八日、ずっと思っていた。あの子はもういない。白い着物で歩いていって、あの黒いところに入って、それきりだと。誰も言わないから、聞けなかった。聞かないまま、思っていた。


 違った。


 あそこにいる。母の言ったとおりだった。井戸の人たちも、ばあさまも、みんな正しかった。正しくなかったのは自分だけだった。


 霙は笑った。笑ってから、涙が出てきた。


 地面に落ちた涙が、土に吸われて消えた。それを見ていたら、また笑いそうになった。何がおかしいのか分からなかった。


 顔を上げると、鴉(スス)が立っていた。


 地面の包みを見ていた。宿の主人が置いていった握り飯と、干した魚と、新しい布。それを見下ろして、拾いもせず、蹴りもしなかった。


「鴉さん」


 霙は立ち上がった。膝が汚れていたが、払わなかった。


「聞いていましたよね」


「聞いた」


「生きているんです。四百人、生きているんです」


 鴉は答えなかった。


「わたし、間違えていました。妹は死んだと思っていました。でも生きていて、あそこにいて、来年になれば声が聞こえるって」


 言いながら、霙は自分の声が速くなっているのが分かった。止められなかった。


「だったら、出せます。生きているなら、出せるはずです。死んでしまった人を返してくださいと言うのは無理でも、生きているなら」


「娘」


「はい」


「あれを殺す」


 霙の口が止まった。


「え」


「血が要ると言った」


「はい。言いました。血が要ると」


「あれの血は、あれを殺さないと手に入らない」


 風の音がした。屋根の落ちた小屋のあたりで、板が鳴っている。


「……壁から、出ました」


 霙が言った。


「昨夜、斬ったら血が出たって、そうおっしゃいました。それなら、また斬れば」


「足りない」


「どれくらい要るんですか」


「全部だ」


 霙は鴉の顔を見た。暗くない場所で見るのは久しぶりだった。何も変わっていなかった。この話をしているあいだ、この人の顔はひとつも動いていない。


「殺したら、中の人はどうなるんですか」


「分からない」


「分からない、って」


「死ぬかもしれない」


 霙は一歩下がった。


「四百人が」


「かもしれない、と言った」


「同じことです」


 声が大きくなった。自分でも驚くほど大きかった。


「同じことじゃないですか。分からないままやるなら、同じです。あなたは、分からないまま四百人を」


「そうだ」


 霙は言葉を失った。


 否定されると思っていた。言い訳をされるか、そんなつもりはないと言われるか、どちらかだと思っていた。そうだ、と言われるとは思っていなかった。


 この人は、自分を悪くないと言うつもりがない。悪いと言うつもりもない。ただ、そうだと言った。


「殺さないでください」


 霙は言った。


 言ってから、それが今朝、宿の主人が言った言葉と同じだと気づいた。


「お願いします。殺さないでください。妹がいるんです。あの中に、四百人、誰かの家族がいるんです」


「あんたは、妹を出したいと言った」


「言いました」


「出す道がないなら、どうする」


「探します」


 霙は言った。


「探してもいないじゃないですか。まだ何も探していない。壊すことしか考えていない。もし他に道があったら、どうするんですか」


 鴉は霙を見ていた。


 長かった。息を三つ数えるくらい、何も言わずに立っていた。


「そうだな」


 鴉が言った。


「え」


「道があるかもしれない。調べていない」


 霙は口を開けたまま立っていた。


 この人は、言い返さなかった。認めた。それも、渋々ではなく、当たり前のことのように。


 鴉は地面の包みを拾った。中を開けて、布だけ取り出し、あとは霙のほうへ押した。


「食え」


「……はい」


「西へ行く」


「西」


「あれの血が、地の下を通って外へ出ている場所がある。宿の主人が行くなと言った方角だ」


 鴉は歩き出した。


「中がどうなっているかは、外からは分からない。血が出ている場所なら、少しは分かる」


 霙は包みを抱えて、追いかけた。


 握り飯はまだ温かかった。あの人は、これを朝のうちに握って、道を選んでここまで歩いてきたのだ。


 西の空は、ほかの方角より低く見えた。雲が下がっているのか、地面が下がっているのか、ここからでは分からなかった。


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