第二十話 塔の障り
西へ行くほど、草が減った。
初めは冬枯れかと思った。だが枯れているのではなかった。地面の色が違う。黒く、湿ったふうに見えて、踏むと乾いている。第五の畑を越えたあたりから、その黒が広がりはじめた。
「ここから先は、来たことがありません」
霙が言った。
「誰も来ないんです。子どものころから、そう言われて」
鴉は歩き続けた。
畑の終わりに、崩れた土塁があった。誰かが境を作ろうとした跡だった。低い。跨げる。石の列と同じで、越えられないものではなかった。それでも、その先に踏み跡はない。
黒い地面は、ゆるく下っていた。窪地になっている。その底に、それがあった。
地面から、太いものが出ていた。
白灰色の管だった。人の胴ほどの太さで、地の中から出て、少し伸びて、また地の中へ戻っている。背を丸めた獣のように見えた。長さは十歩ほど。表面は塔の壁と同じで、継ぎ目がない。
同じものが、窪地の底に何本もあった。数えると九本。奥のほうは土に埋もれていて、何本あるか分からなかった。
「これは」
「根だ」
鴉は近づいた。
管の表面に、細い裂けがあった。塞がりきらずに開いている。そこから黒いものが滲んで、下の土へ落ちていた。落ちたところが、いちばん黒い。
鴉はしゃがんで、管に手を当てた。
温かい。動いている。塔の壁と同じだった。
管の脇に回り、両手で押した。次に耳を当てた。音がした。壁のときよりも小さい。何かが流れている音だった。
「中は」
霙が聞いた。
「詰まっている」
鴉は立ち上がった。
「隙間はない。人は通らない」
「じゃあ」
「入口はひとつだ。あんたが最初にそう言った」
霙は管を見ていた。それから塔のほうを見た。ここからでも見える。窪地の縁の向こうに、白いものが立っている。
「入って、連れて出た人は」
「聞いていない」
「誰も、試していないんですか」
「試した者がいたなら、それも聞いていない」
霙はその言い方に、少し遅れて気づいた。試した者がいなかったとは言っていない。
鴉は窪地の底を歩いた。管の数を数えているらしかった。四本目の脇を通ったとき、足を止めた。
黒い地面に、跡があった。
何かを引きずった跡だった。幅がある。窪地の奥、崖のようになっているほうへ続いている。
鴉は刀を抜いた。
「下がれ」
霙は下がらなかった。下がるより先に、それが出てきた。
崖の陰から、四つ足のものが出てきた。
犬だったのだと、霙はすぐに分かった。大きさと、脚の付き方でそう分かる。だが毛がなかった。皮膚が白灰色で、背中のあたりが濡れたように黒い。目のあるべき場所に、目がなかった。窪みだけがあった。
その後ろから、もう一体。
こちらは形が崩れていた。四つ足だが、脚の長さが揃っていない。腹のあたりから、骨のようなものが外へ出て、そのまま固まっている。
三体目が出てきたとき、霙は声を上げそうになった。
立っていた。
二本の脚で立っていた。背は霙より低い。腕がある。手の指が、片方だけ長く伸びて、垂れていた。顔にあたる部分には何もない。窪みだけがある。
布のようなものが、腰に貼りついていた。もとは着物だったのだろう。
「あれ」
霙の声が震えた。
「あれ、人じゃ」
鴉が動いた。
最初の一体が地面を蹴った。速い。鴉は避けなかった。飛びついてきたものの首を、下から上へ斬り上げた。刃が抜けて、犬だったものが横へ落ちた。
落ちて、また起きた。
首が半分繋がっていない。それでも起き上がって、鴉のほうを向いた。目がないのに、向いた。
鴉は二歩踏み込んで、脚を落とした。前脚を二本とも落とした。それでも進もうとした。腹で這って、進もうとしていた。
声を上げない。
斬られても、脚を落とされても、鳴き声ひとつ立てなかった。それが霙にはいちばん恐ろしかった。犬なら鳴くはずだった。
鴉は首を落とした。動かなくなった。
二体目が横から来た。鴉は振り向かずに刀を引いて、通り過ぎたところを背中から刺した。刺したまま押し倒して、抜いて、もう一度刺した。三度目で止まった。
三体目は、走ってこなかった。
立ったまま、鴉のほうを向いている。長い指が垂れている。それが、ゆっくりと手を上げた。
鴉が近づいた。
二歩の距離で、それは動かなかった。手を上げたまま、そこに立っていた。
鴉は斬った。横に一度。それは膝から落ちた。落ちてから、腕だけがまだ動いていた。何かを掴もうとするように、地面をかいていた。
鴉はもう一度斬った。それで止まった。
窪地が静かになった。
鴉は刀の血を振った。黒いものが地面に散った。散ったところが、また黒くなった。
霙は動けなかった。
三体目だったものを見ていた。腰に貼りついた布は、白かった。もとは白かったのだろう。今は黒く汚れている。
鴉が刀を納めた。
「戻る」
「待ってください」
霙は言った。
「あれは、何ですか」
鴉は答えなかった。
「あの、着物を着ていました。人だったんじゃないんですか。塔の障りって、あれのことですか。あれは、どこから」
鴉は歩き出していた。
霙は追いかけた。追いかけながら、後ろを振り返った。三つの黒い塊が、黒い地面の上に転がっている。血の跡と区別がつかなくなっていた。
「鴉さん」
霙は言った。
「あれは、痛くないんでしょうか」
鴉の足が、わずかに遅れた。
止まりはしなかった。振り返りもしなかった。
霙は返事を待った。窪地を出て、黒い地面が終わって、枯れた草が戻ってくるまで待った。
返事はなかった。




