第二十一話 旅の人
「一人だけ、いるんです」
と、霙が言った。
「領でいちばんの年寄りです。目が見えないので、あなたのことも分からないと思います。よそ者だと知れば、誰も口をききませんから」
その家は、領の南の外れにあった。孫だという女が出てきて、霙の顔を見て中へ通した。鴉のことは何も聞かなかった。聞かないのがこの領の作法だった。
土間に薬草を干した束が吊るしてある。長く病人のいる家の匂いがするはずだったが、鴉には分からなかった。
老女は奥にいた。
小さかった。夜具の上に座って、背が丸まっている。目は開いていたが、白く濁っていた。首だけが、人の入ってきたほうへ動いた。
「霙かい」
「はい」
「あんたのばあさまは、よく豆をくれた」
霙は何か言おうとして、やめた。ばあさまというのは、霙の祖母のことらしかった。もう二十年前に死んでいる。
「昔の話を、伺いたくて来ました」
「昔」
「お灰さまが、ここへ来られた頃の話です」
老女は口を動かした。歯がない。動かすのに時間がかかった。
「歌なら覚えているよ」
そう言って、老女は歌いはじめた。
節はあったが、音がほとんど外れていた。言葉も途中で崩れる。それでも聞き取れるところはあった。
──神さまは十二おいでになった。
──十二とも、みんな死におしまいになった。
老女はそこで止まった。しばらく黙って、また同じところから始めた。
──神さまは十二おいでになった。
──十二とも、みんな死におしまいになった。
──死んだものは、山と野に横たわって、雨に打たれておいでだった。
鴉は入口の柱に背をつけて立っていた。動かなかった。
──はじめに口に入れたのは、旅の人。
老女の声が少し大きくなった。ここは歌い慣れているらしかった。
──旅の人が、指で取って、口に入れた。
──それから、旅の人は旅をやめなかった。
霙は老女の手を見ていた。膝の上で、拍子を取るように動いている。指の関節が太い。若い頃は何かを織っていた手つきだった。
「旅の人というのは、どなたですか」
「知らないよ」
老女は即座に答えた。
「歌にそう言うだけさ」
そして続けた。
──二人目は、村にいた。
──三人目は、川にいた。
──四人目は、
そこで止まった。
老女は口を動かした。何度か動かして、それから首を振った。
「忘れた」
「四人目は」
「忘れたよ。ずいぶん長いんだ、この歌は。娘の時分に覚えたきりでね」
老女は夜具の縁を撫でた。
「うちの母が歌ってた。母の母も歌ってたそうだよ」
「白いお方の話は、ありますか」
霙が聞いた。
「白いお方」
「お灰さまです」
老女は少し笑った。
「あれは歌の終わりのほうだよ」
そう言って、また歌った。今度は節が違った。
──白いお方が、ここへ来られた。
──歩いてこられた。ひとりで来られた。
──来て、お立ちになって、それきりお動きにならない。
──動かないから、こちらから行くのだよ。
歌はそこで終わったらしかった。老女は口を閉じて、それきり動かさなかった。
しばらく、誰も何も言わなかった。奥の間で孫が何かを刻む音がしていた。
「歌の前のほうを、もう一度」
鴉が言った。
老女の首が動いた。声のしたほうを向く。
「男じゃないね」
「そうだ」
「よそから来なさったね」
「来た」
霙が息を詰めた。老女は何も咎めなかった。
「もう一度、と言いなさったね」
老女はまた歌った。
──はじめに口に入れたのは、旅の人。
──旅の人が、指で取って、口に入れた。
──それから、旅の人は旅をやめなかった。
──やめないから、まだ終わらない。
鴉が柱から背を離した。
「いまのところだ」
「どこだね」
「やめないから、まだ終わらない」
「そう歌うんだよ」
「意味は」
「知らないよ」
老女は本当に知らない顔をしていた。知ろうとしたこともない顔だった。
「歌はそう歌うものさ。意味なんか、あるものかね」
鴉は動かなかった。
老女が手を伸ばした。空をさぐって、鴉のほうへ向けている。鴉は近づいて、その手が届くところに立った。
老女の指が、鴉の腕に触れた。上へ上がって、肩に触れ、それから顔に触れた。頬を、目のあたりを、順に押さえていく。指は乾いていて、軽かった。
「若いね」
「そうか」
「旅の人かね」
「そうだ」
老女は手を下ろした。
「旅の人は、口に入れちゃいけないよ」
霙が鴉を見た。
老女は歌の続きを言っているだけだった。何も分かっていない。言った本人が、いま何を言ったのか分かっていない。
「入れると、どうなる」
鴉が聞いた。
老女はしばらく考えていた。
「忘れた」
そう言って、夜具に横になった。すぐに寝息が聞こえてきた。
外へ出ると、日が傾いていた。
塔の影が、南の外れまで届いていた。ここが影の先端だった。四百二十歩を数えて歩いた、その終わりがこのあたりだった。
「あの歌」
霙が言った。
「子どものころ、聞いたことがあります。うちのおばあさんも歌っていたかもしれません。覚えていませんけど」
鴉は影の先を見ていた。
「みんな歌っていて、誰も意味を知らないんです」
「そうだな」
鴉はそれだけ言った。
影の先端は、日が落ちるにつれて伸びていった。伸びきったところで、あたり全体が影になった。境目がなくなって、どこまでが塔の影だったのか分からなくなった。




