第二十二話 わたしの番
老女の家を出てから、霙はずっと同じことを考えていた。
根からは入れない。人が通る隙間はない。入口はひとつしかなくて、そこから入って出てきた者はいない。
壊せば、中の人が死ぬかもしれない。
道はない。鴉はそう言った。言い方はもっと短かったが、そういうことだった。
小屋の外に座って、膝を抱えて、同じところを何度も回った。日が落ちて、塔の影が領ぜんたいに溶けた。境目がなくなって、あたりが暗くなった。
そして、気づいた。
道はある。
出す道がないだけだ。入る道はある。
考えてみれば、簡単なことだった。四百人があそこにいる。霰もいる。中に入れば会える。会って、それきり出られないとしても、それは今と同じではないか。今だって会えないのだから。
むしろ、いい。
母には悪いと思った。母は戸を開けておくと言った。帰らない娘のために、これから何年も戸を開けておくのだろう。
けれども、母は喜ぶかもしれない、とも思った。
うちから二人お受けいただいた。三代呼ばれなかった家もあるのに、うちは二年続けて。母はそう言うかもしれない。近所の人が餅を持ってきて、母は同じ話を七回するかもしれない。
そう考えると、笑いそうになった。
夜が更けるのを待った。
小屋には鴉がいた。壁を背にして座って、いつものように何もしていない。霙は上着を着て、紙を懐に入れた。七つの名を書いた紙だった。持っていく理由はなかったが、置いていく理由もなかった。
「出かけます」
と、霙は言った。
鴉は答えなかった。目も開けなかった。
霙は歩いた。
道は暗い。それでも塔の方角は分かる。この領で育てば分かる。
途中で家の明かりを二つ通り過ぎた。どちらも戸が閉まっていた。中で人の話す声がした。何を話しているかは分からなかった。ふつうの晩の声だった。
石の列の手前に、火が見えた。
見張りは四人いた。前より増えている。霙が近づくと、二人が立ち上がった。
「どなたですか」
「霙です」
名乗ると、四人の空気が変わった。噂は行き渡っている。
「お帰りください」
「入れてください」
霙は言った。
「石の内側に入れてください。お灰さまのところへ行きます」
四人が顔を見合わせた。
「日ではありません」
「知っています」
「日でなければ、入れません。そう決まっております」
「わたしが入ります」
霙は言った。声が震えないようにした。
「妹の代わりではありません。わたし自身が、お受けいただきに行きます」
いちばん年上の男が前に出た。
「霙さん」
「はい」
「あなたのお宅は、今年もうお受けいただいております」
その言い方が、静かだった。責めてもいなかった。決まりを読み上げるような言い方だった。
「一年に、一軒から一人です。それが順番です。二人お出しになれば、順番が狂います。他の家が押し出されることになる」
「では、来年のわたしの番を、今にしてください」
「そういうものではありません」
霙は動かなかった。
男は続けた。
「お気持ちは分かります。皆そうです。誰でも一度は、そう考えます」
「……誰でも」
「わたしも考えました。二十年前に」
男は火のほうを見た。
「考えて、やめました。順番を待ちました。まだ来ておりません」
男の顔は、穏やかだった。狂っているようには見えなかった。二十年待っている。呼ばれるのを待っている。それがこの人の、当たり前の暮らしだった。
ほかの三人も頷いていた。そういうものだ、という頷き方だった。
霙は走った。
男の脇をすり抜けて、石の列を跨いだ。声が上がった。誰かが追ってくる足音がした。
内側の土は柔らかかった。足が沈んで、走りにくい。それでも走った。
三十歩。
塔の壁が目の前に来た。首を反らしても上が見えない。夜の中で、白いものが立っている。
霙は壁に沿って走った。裂け目は反対側にある。回り込む。息が上がった。壁は思ったより早く曲がっていった。塔は高いだけで、太くはない。足が滑った。転んで、手をついて、また起き上がった。
手のひらに土がついた。払わずに走った。
裂け目があった。
黒い。夜より黒い。人ひとりが横向きに通れるだけの、縦の裂け目。
霙は立ち止まった。
息が切れていた。切れているのが分かるくらいには、まだ頭が動いていた。
耳を澄ませた。
何も聞こえない。
風の音がある。追ってくる足音がある。自分の息の音がある。それだけだった。
霰の声はしなかった。
年に一度の日でなければ聞こえない。宿の主人はそう言った。霙はそれを知っていた。知っていたのに、聞こえると思って走ってきた。
何も聞こえない黒い裂け目が、目の前にあった。
霙は一歩、前に出た。
腕を掴まれた。
振り返る前に、後ろへ引かれた。踏ん張ろうとしたが、足が土に沈んだ。そのまま尻もちをついて、見上げた。
鴉が立っていた。




