第二十三話 燃え残り
見張りが追いついてきたとき、鴉は霙の襟を掴んで引き起こしていた。
「連れて出る」
鴉が言った。
四人は前に出てこなかった。石の内側にいる女を、外から見ていた。年上の男が何か言いかけて、やめた。
鴉は霙を引きずるようにして歩いた。霙は抵抗した。腕を振りほどこうとして、掴み直された。三十歩のあいだ、ずっと暴れていた。
石の列を跨いだところで、鴉は手を離した。
霙は地面に膝をついた。
「どうして」
声が掠れていた。
「どうして止めるんですか」
鴉は答えなかった。
「あなたには関わりのないことです。わたしが入るのは、わたしが決めることです。あなたは塔を壊したいだけでしょう。わたしが中にいようがいまいが、関係ないじゃないですか」
見張りの四人は、まだ石の向こうに立っていた。近づいてこない。聞いてもいるだろうが、口も出さなかった。
鴉は歩き出した。
霙は立ち上がって、追いかけた。追いかけながら、まだ喋っていた。
「答えてください。どうして止めたんですか」
小屋まで、鴉は一度も口をきかなかった。
中へ入って、壁を背にして座った。霙は戸口に立ったまま、動かなかった。
鴉が言った。
「あんたは、痛くないのかと聞いた」
霙は息を止めた。
窪地でのことだった。斬られて、それでも地面をかいていた腕のことだった。
「あれは痛くない。何も感じない。それが分かるまでに、たぶん時間はかからなかった」
「……あの」
「あれになる前の話をする」
鴉は膝を立てて、腕をそこに置いた。いつもの座り方だった。
「聖種を一体殺すと、ひとつなくなる」
「なくなる、というのは」
「感じるものだ。ひとつずつ消える」
霙は戸口から動けなかった。
「痛みは、それより前になくなった。斬られても分からない。骨が折れても分からない。折れているかどうかは、動かして確かめる」
霙は思い出した。鎌で腕を斬られて、振り向きもしなかったこと。布を巻いても腕が硬くならなかったこと。あの腕の、古い傷の数。
「次は匂いだ」
「匂い」
「粥の匂いを覚えていない。血の匂いも分からない。花も、雨も、人も、分からない」
鴉は自分の手を見た。見るというより、そこに手があることを確かめているようだった。
「食っても、味は半分しか分からない。塩は分かる。それだけだ」
「だから、夕餉を」
「食う理由がない」
霙は膝が震えているのに気づいた。座りたかったが、座れなかった。
「あと三つある」
鴉が言った。
「触るのと、聞くのと、見るのと。三つだ」
「三つ」
「順番は分からない。次に何がなくなるかは、なくなってから分かる」
風が板を鳴らした。屋根の落ちたところから、星が見えた。
「全部なくなったら」
霙が言った。
「どうなるんですか」
「聞いた話では、聖種になる」
「聖種」
「あれのことだ」
鴉は塔のほうへ顎を向けた。
「三百年、あそこに立って、四百人を腹に入れて、動かないものになる」
霙は口を押さえた。
「本当かどうかは知らない。窪地のあれになるのかもしれない。目のない、地面をかくやつだ。どちらか分からない」
鴉は言い終えて、それきり黙った。
霙は、ようやく座った。土間に、崩れるように座った。
「治らないんですか」
「治らない」
「やめれば」
「やめても戻らない。もう三つ使った」
霙は顔を上げた。
この人は、自分がそうなると知っている。知っていて、四百人を殺そうとしている。四百人を殺せば、また一つ減る。減って、いずれあの窪地のものか、あの塔になる。
それが分かっていて、やめない。
「どうして」
と、霙は言った。
「どうして続けるんですか」
鴉は答えなかった。
長かった。答えないという形の沈黙だった。霙はもう、この沈黙を知っている。この人は答えたくないのではない。答える必要を感じていないのだ。
霙は懐から紙を出した。
皺だらけの紙だった。七つの名前が書いてある。伸ばそうとして伸びなかった、あの紙だった。
筆はない。墨もない。霙は指で、名前の並びの下をなぞった。八つ目が入る場所だった。
「鴉というのは、名前ですか」
「呼ばれているだけだ」
「誰にですか」
「どこかの領の連中だ」
鴉は壁に頭をつけて、目を閉じていた。
「名は訊かれなかった。黒いから、そう呼ばれた」
「黒い」
「煤だ」
霙は紙を見た。
煤。竈の奥や、梁の裏に溜まる、あの黒いもの。火が消えたあとに残るもの。
「そんな呼び方を」
「間違ってはいない」
鴉は目を閉じたままだった。
「燃え尽きてもいない。火でもない。残っているだけだ」
それきり動かなかった。眠ったのかもしれなかった。眠っていないのかもしれなかった。
霙は紙を膝の上に広げて、しばらくそれを見ていた。
筆はなかったが、明日になれば手に入る。母の使いさしのものが、まだ家にある。
八つ目に何と書くかは、決まっていた。




