第二十四話 越えない男
翌朝、鴉は塔へ向かった。
隠れなかった。道を歩いた。霙が横についていた。
筆と墨を取りに、霙は明け方に家へ寄っていた。母は起きていた。何も言わずに、棚のところを空けてくれた。それだけだった。霙も何も言わずに出てきた。
畑を越えるあたりで、後ろから人がついてきはじめた。最初は三人。次に十人。石の列が見える頃には、道の後ろが埋まっていた。
前にも人がいた。
石の列の手前に、百人ほどが立っている。知らせが回ったのだろう。鍬を持った者、棒を持った者、手ぶらの者。女もいる。年寄りもいる。昨日の見張りの四人は、いちばん前にいた。
その真ん中に、巳戸が立っていた。
鴉は二十歩の手前で止まった。
「お戻りください」
巳戸が言った。
「今日は、昨日までとは違います。ここにいるのは領の者ほとんどです。押し通れば、必ず死人が出ます。あなたが殺さずとも、倒れた者が踏まれます」
「そうか」
「お分かりいただけますか」
「分かる」
鴉は動かなかった。動かないまま、そこにいた。
巳戸が息を吐いた。
「では」
「通る」
巳戸の顔が、初めて崩れた。
困惑ではなかった。疲れた顔だった。長く座っていた者が立ち上がるときの、あの顔だった。
「霙さん」
巳戸が言った。
霙が前に出た。
「はい」
「あの紙を、まだお持ちですか」
霙は懐に手を当てた。
「持っています」
「焼けと申し上げました」
「焼きません」
巳戸はしばらく黙っていた。
「……書き足されましたか」
霙は紙を出した。開いて、巳戸に見えるように持った。
「八つになりました」
風が紙を鳴らした。
巳戸は目を細めた。遠くて字は読めなかっただろう。それでも見ていた。名前の並びを、上から下まで見ていた。
「八つ目は、どなたですか」
「この人です」
霙は鴉のほうを見た。
「まだ生きています。でも、書きました」
百人が静かになった。
巳戸は紙から目を離さなかった。長いこと離さなかった。それから、袖の中で手を動かした。指を折る動きだった。今度は止まらなかった。折って、また折って、途中で止めた。数え切れなかったらしい。
手を袖から出した。指はまだ半端に曲がっていた。
「わたくしが焼きました」
巳戸が言った。
誰かが声を上げた。後ろのほうで、複数が。
「名簿です。ぜんぶです。火事ではありません。庭で焼きました。三度ではありません。数えておりません」
「代官さま」
と、前列の男が言った。巳戸は答えなかった。
「毎年、書く者が出るのです」
巳戸は霙を見ていた。
「二年に一度は出ます。妹を出した者、子を出した者、そういう方が、名を集めて書きはじめる。しばらく書いて、そのうち書かなくなる。書かなくなってから、燃やせばよろしい。そうしてまいりました」
「取り上げたのですか」
霙が聞いた。
「いいえ」
巳戸は首を振った。
「置いてゆかれるのです。皆さま、そのうち置いてゆかれる。仕舞ったまま、出さなくなる。家移りのときに出てくる。焼くのは、そのあとです」
霙は紙を持つ手に力を入れた。
「三十年」
と、鴉が言った。
巳戸の肩が動いた。
「はい」
それだけ答えた。誰の名を最初に書いたのかは言わなかった。誰が書かなくなったのかも言わなかった。
「あなたは、書き足された」
巳戸は霙に言った。
「生きている者の名を、書き足された。そういう方は、初めてです」
巳戸は横へ動いた。
一歩、二歩。石の列のほうへではない。道を空けるほうへ。
「代官さま」
「お通しなさい」
前列がざわめいた。誰も動かなかった。
「お通しなさい」
巳戸はもう一度言った。声を張らなかった。張らないのに、通った。
「わたくしには、もう分かりません。何のために燃やしてきたのか。三十年、毎年燃やして、それで何がどうなったのか。誰か、教えてくださるなら教えていただきたい」
誰も答えなかった。
前列の一人が、横へ寄った。それから隣が寄った。人の壁が、真ん中から左右へ割れていった。誰も納得していない顔だった。それでも動いた。代官がそう言ったから動いた。この領は、そういうふうにできている。
鴉は歩いた。
霙が続いた。紙を握ったままだった。
割れた人のあいだを通るとき、誰も鴉に触れなかった。触れないまま、百の顔が鴉を見送った。憎んでいる顔もあった。泣いている顔もあった。ほとんどは、ただ怖がっている顔だった。
列の途中に、宿の主人がいた。目が合った。主人は何も言わなかった。頭も下げなかった。ただ、見ていた。
石の列まで来て、鴉は跨いだ。
跨いでから、一度だけ振り返った。
巳戸は、まだそこにいた。
道を空けた場所に立っている。石の列の、外側だった。
鴉が見ていることに気づいて、巳戸は小さく頭を下げた。それから背を向けた。
三十年、代官として塔と領のあいだに立ってきた男は、最後まで石を越えなかった。




