第二十五話 四百十一
裂け目は、思ったより浅かった。
横向きに入って、三歩ほどで壁が離れる。そこから先は通路になっていた。人が二人並べる幅で、ゆるく上へ向かっている。
暗くはなかった。
壁がうっすらと明るい。光っているのではなく、外の光を溜めていたものが滲み出しているような明るさだった。足元は見える。
温かい。
霙は壁に触れないようにして歩いた。触れずにいるのは難しかった。通路が狭くなるところがある。そういうところでは、肩が触れた。触れると、押し返してくる。
床も同じだった。踏むと沈む。少しだけ沈んで、足を上げると戻る。歩くというより、生き物の上を渡っているようだった。
音がしていた。
外で聞くよりも近い。何かが重なっている。低いところで鳴り続けている。
鴉は先を歩いていた。刀は抜いていない。
通路は五十歩ほど続いて、それから開けた。
広い場所だった。
天井は高い。上のほうは暗くて見えない。壁は丸く、床も丸く、真ん中がわずかに窪んでいる。窪みの底に、それがあった。
人がいた。
床から生えていた。
腰から下がない。ないというより、床と繋がっていた。腹のあたりから下が、白灰色の床へ溶け込むように広がって、そこで境目がなくなっている。
上半身は人だった。
痩せてはいない。肌は白灰色で、髪は白い。長く伸びて、床に広がっていた。目を閉じている。
その目が、開いた。
「よく来られました、と申し上げるべきなのでしょうか」
声は静かだった。
「それとも、来てしまわれた、と申し上げるべきなのか。わたしには、まだ決めかねます」
霙は動けなかった。
鴉が二歩前に出た。
「あんたが白灰か」
「ここではそう呼ばれています。前は別の名がありました。もう使っておりません」
目が鴉を見た。それから、上から下まで見た。
「屠人ですね」
鴉は答えなかった。
「そう呼ぶ者もいる」
「わたしどもは、そう呼びます。あなたがたが自分でそう名乗るのを、聞いたことがありません。名乗らないほうがよろしいのでしょう。名乗れば、逃げられますから」
頌はそこで少し首を傾けた。
「何年ぶりでしょう。数えていません。数えることは、やめました」
「あんたは、中の連中を感じているな」
沈黙があった。
霙には、その沈黙の意味が分からなかった。頌の顔が動かなかったからだ。ただ、鴉が何かを当てたのだということは分かった。
「……ええ」
「全部か」
「全部です」
「三百年」
「三百年と、四年になります」
頌は目を閉じた。閉じてから、また開けた。
「四百十一人おります」
霙の膝が震えた。
「四百十一」
鴉が繰り返した。
「そうです。今年の一人を入れて、四百十一です。あなたが外で測られた数は、いくつでしたか」
「四百と幾つかだ。上は雲に入っていて数えていない」
「よくお測りになりました」
頌は少し笑ったようだった。笑ったのかどうか、霙には分からなかった。
「三百年で三百のはずが、なぜ四百なのか。そうお思いでしょう。飢えた年がございました。疫の年もございました。そういう年は、二人、三人と入ります。多い年には七人入りました。幾度もございました。人は、苦しい年ほど多く差し出します」
「余分に差し出したのか」
「差し出されました。わたしは求めておりません」
頌の声は変わらなかった。
「一度も求めたことはありません。差し出されたものを、受けているだけです」
「受けなければいい」
「受けなければ、置いていかれます」
頌は床を見た。自分の腰から下が溶けているあたりを見た。
「置いていかれた者は、外で死にます。受ければ、死にません。どちらがよいのか、わたしには三百年かかっても分かりませんでした」
「断ったことは」
「一度ございます」
鴉が頌を見た。
「初めの頃です。子どもでした。返そうといたしました。返せば村へ戻れると思っておりましたので」
頌は目を伏せた。
「戻りませんでした。翌年、同じ家から別の子が参りました。断れば、断られた家が困るのだと、そのとき知りました」
霙は口を押さえた。
「感じるというのは、どういうことだ」
「そのままの意味です」
頌の指が、床の上でわずかに動いた。
「四百十一人を、別々に感じます。一人ずつです。まとめてではありません。今、二百七十六番目の者が寒がっております。三百五番目の者が、母のことを思い出しております。八十九番目の者は、ずっと数を数えております。三百年、ずっとです」
霙は口を押さえたままだった。
「同時にです。四百十一が、同時に、別々に」
頌の目が、初めて鴉から逸れた。
「眠ることはできません。眠ろうとすると、四百十一人が眠っていないので」
霙は、その場に座り込みそうになった。壁に手をついた。壁は温かかった。押し返してきた。
「わたしたちは、ここにおります」
頌が言った。
霙は聞き逃した。鴉は聞き逃さなかった。
頌自身も、気づいていないようだった。
「なぜ言わない」
鴉が言った。
「領の連中に。誰も知らない」
「申せば、止まります」
「止まればいい」
「止まれば、四百十一人はどうなりますか」
頌は鴉を見た。
「わたしが消えるわけではありません。この者たちが出てくるわけでもありません。ただ、増えなくなるだけです。増えなくなって、そのあと、この領は自分たちが何をしてきたかを知ることになる」
沈黙があった。
「三百年ぶんです」
頌が言った。
「知らせて、それから、どうすればよいのでしょう。わたしには分かりません。分からないものを申し上げるわけには、まいりません」
霙が前に出た。
自分でも、どうして前に出たのか分からなかった。膝が震えていた。それでも二歩進んで、口を開いた。
「霰といいます」
頌の目が霙を見た。
「八つです。今年、入りました。わたしの妹です」
頌はしばらく黙っていた。
それから、言った。
「おります」




