第二十六話 妹の声
「会わせてください」
霙は言った。
「お願いします。会わせてください」
「会うことはできません」
頌は静かに答えた。
「姿はありません。この者たちには、形がないのです。溶けているのでもなく、消えたのでもなく、ただ形がない。わたしの中で、そういうものになっております」
「じゃあ」
「話すことはできます」
霙の息が止まった。
「わたしが取り次ぎます。それだけです」
「お願いします」
「霙さん」
名を呼ばれた。誰にも教えていない名だった。
「よくお考えになってから、お願いなさい」
「考えました」
「まだです」
頌は目を閉じた。
「一度話せば、あなたは知ってしまわれる。知る前には戻れません。この領の方は、年に一度、声だけを聞かれます。言葉ではなく、声だけです。それでちょうどよいのだと、わたしは思っております」
「どうしてですか」
「声は、変わりませんので」
霙は分からなかった。
「言葉は変わります。中身が変わりますから。声は、しばらく変わりません」
「聞かせてください」
霙は言った。
「お願いします」
頌はしばらく黙っていた。
それから、鴉のほうを見た。
「あなたは、止めないのですね」
「止める理由がない」
「そうですか」
頌は目を閉じた。
長かった。閉じたまま、何も起きない時間が続いた。壁の音が少し変わった。低いところで鳴っていたものが、ひとつ抜けたような変わり方だった。
頌の指が、床の上で二度動いた。何かを探る動きだった。
頌が目を開けた。
「姉さん?」
霙の膝が落ちた。
頌の口から出ていた。頌の顔で、頌の唇が動いて、そこから子どもの声が出ていた。少し高い、早口の、聞き慣れた声だった。
「姉さん、いるの? 声が聞こえる」
「霰」
霙は這うようにして前へ出た。窪みの縁まで来て、そこで止まった。
「霰、霰なの」
「姉さんだ」
声が笑った。
「変なの。どこにいるの、姉さん。近くにいる感じがする。でも見えない」
「わたしは、いま、あなたのところにいるの。塔の中にいるのよ」
「塔って」
霰の声が少し止まった。
「塔って、なに?」
霙は答えられなかった。
「あのね、姉さん」
霰は続けた。
「わたし、いっぱいいるの。人が。すごくいっぱい。みんな喋ってるの。誰が誰だか分かんないけど、みんないるの。おじいさんもいるし、赤ちゃんもいる。赤ちゃんは泣かないの。変でしょ」
霙の目から涙が落ちた。落ちて、床に染みた。
「怖くない?」
霙は聞いた。
「ぜんぜん」
即答だった。
「寒くないし、お腹も空かない。痛いところもないよ。あのね、目をつぶってるときみたいなの。ずっと。でも眠いんじゃないの。ずっと起きてる」
「苦しくないの」
「苦しくないよ」
「暗くない?」
「暗くないよ。明るくもないけど」
霰の声は、困っている調子ではなかった。聞かれたから答えている、それだけの声だった。
「歩ける?」
「歩くって、なに」
霙は袖で顔を拭った。拭っても、また落ちた。
「霰。いま、帰してあげるから。待ってて。いま、この人に頼んで」
霙は顔を上げた。
鴉が立っていた。霙を見ていない。頌を見ていた。
「出せるか」
鴉が言った。
「出せません」
「一人もか」
「一人もです」
頌の声だった。霰の声と、同じ口から出ていた。
「三百四年、一人も出ておりません。出す道があるのなら、わたしが先に使っております」
鴉は動かなかった。
「入れば、形がなくなります。形がなくなったものを、どうやって外へ出しますか。器がありません」
「入れ物を用意すれば」
「何をお入れになりますか」
頌は静かに聞き返した。
「形のないものを、器に移すのです。移したものが、その方だとどうして分かりますか。わたしにも分かりません。ここにおります者を、わたしは名で呼べません。番号で数えるほかにない」
鴉は答えなかった。
「あんたを殺せば」
「そのときは、みな終わります」
頌は言った。
「四百十一、同時にです」
霙は聞いていた。聞きながら、何かがゆっくり落ちていくのを感じていた。膝から下が冷たくなっていた。
「姉さん?」
また霰の声になった。
「どうしたの。しゃべらないの」
「霰」
「うん」
「あなた、出たい?」
沈黙があった。
壁の音だけがしていた。四百十一の重なりが、ずっと鳴っていた。
「出るって、どこに」
霰が言った。
「外よ。家に。おっかさんがいるのよ。あなたの櫛も、まだ棚にあるの」
「うーん」
霰の声は、困っているというより、意味を測りかねている声だった。
「出たくない」
霙は動かなかった。
「だって、ここ、いいよ」
霰は言った。明るい声だった。何も悪いことを言っていない声だった。
「みんないるもん。姉さんも来ればいいのに」




