第二十七話 名前
「霰」
霙は膝をついたまま、窪みのほうへ体を寄せた。
「聞いて。おっかさんが待ってるの。あなたの櫛も、夜具も、そのままにしてある。片付けないの。ずっとそのままなの」
「うん」
「帰ろう」
「うん」
返事はよかった。何を言っても、霰は「うん」と言った。それが霙には分からなかった。
「おっかさんのこと、覚えてる?」
「覚えてるよ」
即答だった。霙は少し息をついた。
「どんな人?」
少し間があった。
「髪が長い」
霙は動きを止めた。
母の髪は長くない。霙が生まれる前から、母は髪を短くしている。首の下で切って、そのまま伸ばしたことがない。
「霰」
「あとね、歌をうたうの。仕事しながら」
「……おっかさんは、歌わないよ」
「うたうよ」
霰の声は明るかった。疑っていない声だった。
「毎日うたってる。畑で。それでね、姉さんが二人いるでしょ。上の姉さんが」
霙の背中が冷たくなった。
「霰、姉さんは一人だよ」
「二人いるよ」
「一人。わたしだけ」
「……そうだっけ」
霰は困っていなかった。間違いを指摘されて直す、そういう調子ですらなかった。どちらでもいい、という言い方だった。
「ねえ、姉さん」
「なに」
「いっぱいいるんだよ、ここ。喋ってるの。あのね、みんなの話が入ってくるの。誰が誰だか分かんない。でも困らないよ。分かんなくても困んないの」
霙は口を押さえた。
混ざっている。
母の髪も、歌も、二人の姉も、どれも別の誰かのものだった。この子は、四百十一人の中で、誰かの母を自分の母だと思っている。誰かの姉を自分の姉だと思っている。
入って十日。
十日で、ここまで来る。
なら、一年入っている宿の息子は。四十年の兄は。五十年の娘は。
霙はそこで考えるのをやめた。
「霰」
霙は言った。声が固かった。
「川へ行ったの、覚えてる」
「川」
「石を並べたでしょう。平たいのを選んで、並べて、崩して、また並べて。三回やったのよ。冷たいって言いながら、足を浸けて」
沈黙があった。
「……うん」
「覚えてる?」
「うん、覚えてる」
霙は目を閉じた。
この子は覚えていない。覚えていないのに、うんと言った。何を言われても、うんと言う。
「あなたの名前は」
沈黙があった。
壁の音が鳴っている。ずっと同じ調子で鳴っている。
「んー」
霰が言った。
「なんだっけ」
笑っていた。
「忘れちゃった。変なの」
霙は前のめりになった。手が床についた。床は温かかった。人の腹のような温かさだった。
「霰よ。あなたは霰。霰っていうの。おっかさんがつけたの。冬に生まれたから」
「あられ」
「そう」
「あられ、って、姉さんの名前じゃないの?」
霙は答えられなかった。
「わたしは、霙」
「みぞれ」
「うん」
「似てるね」
霰は笑った。
「みぞれと、あられ。似てる。ねえ、どっちがどっち?」
霙は床を見ていた。
同じことを、あの日も言った。川原で、石を並べながら、似てるね、と言った。あのときは、どっちがどっち、とは言わなかった。
自分の涙が落ちて、床に染みて、それが吸われていくのが見えた。この床は、涙も吸う。
この子は帰らない。
帰れないのではない。帰る場所を、もう持っていない。母の顔を持っていない。姉の数も知らない。自分の名前も持っていない。四百十一人の中で、名前のないものになりかけている。
仮に出せたとして、何が出てくるのか。
霰の形をした、誰かの記憶の寄せ集めが出てくるだけではないのか。
霙は顔を上げた。
鴉が立っていた。何も言わずに立っていた。この人は最初から知っていたのだろうか、と霙は思った。生きているほうが悪いこともある、と言ったとき、この人はこれを知っていたのだろうか。
知らなかったのだろう、とも思った。知らないまま、そう言えてしまう人なのだろう。
「姉さん」
霰が言った。
「なに」
「もう行くの?」
霙は答えられなかった。
「いいよ、行っても」
霰は明るかった。ずっと明るかった。
「また来てね」
霙は口を開けた。
言葉が出なかった。次はないと言うこともできなかった。また来ると嘘をつくこともできなかった。
頌が目を閉じた。
開いたとき、そこにあるのは頌の目だった。
「終わりました」
と、頌は言った。
「もう一度お呼びすることもできます。ただ、そのたびに、少しずつ薄くなります」
「……薄く」
「呼べば、こちらへ引かれます。引かれれば、そのぶん向こうで薄くなる。何度かすると、呼んでも出てこなくなります」
「何度、ですか」
「分かりません。人によります」
頌は目を伏せた。
「三度で出てこなくなった方も、十度お呼びできた方もおられます。数えて差し上げられればよいのですが」
霙は床に手をついたままだった。
その手の下で、床が温かく動いていた。四百十一人が、いま、ここで動いていた。




