第二十八話 三日
「三百年前に入った者は、もう言葉を持ちません」
頌が言った。
「百年で、名がなくなります。二百年で、ほとんど何も残りません。それでも消えはしない。感じるものだけが残ります。苦しくはないのです。ただ、ある」
霙は床に手をついたままだった。
「四百十一のうち、まだ言葉のある者は、五十ほどでしょうか」
「五十」
「そのくらいです。ここ五十年に入った者たちです。それより古い方々は、もう、何かがあるとしか申し上げられません」
「何か、というのは」
「温かい、とか、明るい、とか。そういうものです。それだけです」
頌は目を伏せた。
「妹御は、まだ言葉をお持ちです。今は」
霙は顔を上げた。
「今は」
「いつまでとは、申し上げられません。早い方も、遅い方もおられます」
鴉が動いた。窪みの縁まで来て、そこで止まった。
「あんたを殺せば、全部死ぬ」
「はい」
「言葉のない三百六十も、死ぬのか」
「死ぬ、という言い方が正しいのかどうか、わたしには分かりません」
頌は鴉を見上げた。
「そういうものが、なくなります。それが死ぬということなら、死ぬのでしょう」
鴉は動かなかった。
「殺さなければ、どうなる」
「同じです。ただ、遅い」
頌の声は変わらなかった。
「言葉のある五十が、いずれ言葉をなくします。妹御もそうです。そのあいだにも、毎年一人ずつ増えます。増えて、薄くなって、また増える。三百年、そうしてまいりました。これから先も、そうなります」
「終わらないのか」
「終わりません」
霙は立ち上がった。ふらついて、壁に手をついた。壁は温かく、押し返した。
「終わらせてください」
声が出た。自分でも思っていなかった声だった。
「あなたは、終わりたいんじゃないんですか」
頌は答えなかった。
「三百年、眠れないんでしょう。四百十一人を、ずっと感じているんでしょう。終わりたくないんですか」
「霙さん」
「答えてください」
「答えません」
頌は静かに言った。
「答えれば、あなたはそれを理由になさいます。わたしが望んだから、と。それはいけません」
霙は口を閉じた。
「これは、あなたが決めることです」
「なぜわたしなんですか」
「中に、あなたの妹御がおられるからです」
頌は霙を見ていた。
「四百十一人おります。そのうち、この場に血縁の者がいるのは、あなただけです。ほかの方々の身内は、外におられます。外の方々は、殺すなとおっしゃるでしょう。この三日、ずっとそうおっしゃっている」
霙は何も言えなかった。
「あなたは、中の者の身内でありながら、ここにおられる。それだけです」
「そんな理由で」
「ほかに理由がありません」
頌は目を閉じた。
「わたしが決めれば、それはわたしの都合です。この屠人が決めれば、それはこの方の都合です。外の方々が決めれば、それは知らないままの決め方になります」
目を開けた。
「あなたが決めれば、少なくとも、知った上で決めたことになります」
霙は壁から手を離した。離すと、支えがなくなった。それでも立っていた。
鴉が霙を見た。
「決めるのはあんただ」
「あなたはどう思うんですか」
「思わない」
「思わないって」
「殺しに来た。それだけだ」
霙は鴉を見た。
この人は本当にそう思っている。四百十一人が死のうが、五十の言葉が消えようが、それを考えていない。考えないことにしているのではなく、初めから考える場所を持っていない。
燃え残り、と霙は思った。
「三日待つ」
鴉が言った。
「三日」
「それ以上は待たない」
「なぜ三日なんですか」
鴉は答えなかった。
頌が少し首を傾けた。何かを察したような動きだった。だが、頌も何も言わなかった。
「三日後に、ここへ来る」
鴉は言った。
「あんたが殺せと言えば、殺す。言わなければ、出ていく。それだけだ」
鴉は背を向けて、通路のほうへ歩き出した。
霙は動けなかった。
「霙さん」
頌が言った。
「お帰りのとき、壁に手をつかれませんよう。行きに何度かおつきになりました」
「……何か、いけないんですか」
「いけなくはありません。ただ、こちらに残ります」
頌は言った。
「触れたものは、しばらく分かります。三日のあいだ、わたしはあなたの手のことを考えているでしょう。考えたくはないのです。もう、考えるものが四百十一ございますので」
霙は自分の手を見た。
それから、その手を体の脇に下ろして、歩き出した。壁には触れなかった。
床の下で、四百十一が動いている。そのうち五十が、まだ言葉を持っている。そのうちの一人が、母の髪を長いと思っている。
三日。
霙はその数を、口の中で繰り返した。数えることだけは、できた。




