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屠神録 ―白灰の領  作者: 卓哉


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第二十九話 元気でした

 戸は開いていた。


 言ったとおりだった。閂もかかっておらず、少しだけ隙間が空いている。霙(ミゾレ)が押すと、内側から明かりが漏れた。


 母が振り返った。


 汁をよそう手が止まって、椀が傾いだ。中身がこぼれて、板の間に落ちた。母は拭かなかった。


「霙」


「ただいま」


 母が来た。走るような歩き方だった。両手で霙の顔を挟んで、上へ向けて、それから抱きしめた。骨が当たった。母は痩せていた。


「どこに行ってたんだい」


「西のほうです」


「西」


「小屋があって、そこに」


 母は霙を離して、上から下まで見た。上着の裾が汚れている。膝も汚れている。母は何も言わずに、それを払った。何度も払った。落ちない汚れになっても、まだ払っていた。


 夕餉は二人ぶんあった。ずっと二人ぶん作っていたのだろう。


 霙は座って、箸を取った。汁は温かかった。塩が濃い。母の味だった。


「あの人は」


 と、母が言った。


「あの、余所の人は。もう出て行ったのかい」


 霙は箸を止めた。


「塔に入りました」


 母の手が止まった。


「入った」


「今日です。代官さまが道を空けました。領の人が百人くらい集まっていて、それで」


「あんたも」


「はい。一緒に入りました」


 母は何も言わなかった。口が半分開いて、そのまま止まっていた。


 しばらくして、母は座り直した。膝を揃えて、背を伸ばした。ずいぶん丁寧な座り方だった。何か大事なことを聞く前の、そういう座り方だった。


「霰(アラレ)に」


 声が掠れていた。


「霰に、会ったのかい」


「会いました」


 母の目が見開かれた。


「話したのかい」


「話しました」


 母は口を押さえた。押さえた指のあいだから、息が漏れていた。


「どうだった」


 霙は汁を見ていた。


「元気だったかい。あの子、元気だったかい」


 白いものが浮いている。菜が沈んでいる。母がいつも作るとおりの汁だった。


「元気でした」


 と、霙は言った。


 母が泣いた。


 声を上げなかった。ただ、両手で顔を覆って、肩が動いていた。長いこと動いていた。霙は箸を置いて、それを見ていた。


「そうかい」


 母は顔を上げた。頬が濡れていた。それでも笑っていた。


「そうかい。元気かい」


「はい」


「何て言ってた? あの子、何て言ってた?」


 霙は口を開けた。


 母の髪は長いと言っていました。歌をうたうと言っていました。姉さんは二人いると言っていました。自分の名前を忘れていました。あられ、って姉さんの名前じゃないの、と言っていました。


「姉さん、と呼んでくれました」


 母がまた泣いた。


「そうかい。呼んでくれたかい」


「はい」


「あの子は、昔から姉さんっ子でね。あんたの後ろばっかりついて回って」


 母は袖で顔を拭いた。何度も拭いた。


「よかった。よかったよ」


 霙は汁を飲んだ。塩が濃かった。味は分かった。分かるのに、何も感じなかった。


 その夜、母は久しぶりによく喋った。


 霰が生まれた日のこと。冬で、雪ではなくて霰が降っていたこと。だからその名をつけたこと。上の子が霙だから、下は霰にしようと、父がまだ生きているうちに決めていたこと。


「もし三人目が生まれていたら、なんという名にしたんですか」


 霙は聞いた。


「さあ。考えなかったねえ」


 母は少し笑った。


「二人で十分だと思っていたから」


 霙は聞いていた。ときどき頷いた。


 母は寝床を二つ敷いた。霰の側は、まだそのままにしてある。母は自分の分と霙の分を敷いて、三つ目には触らなかった。


 横になってから、母が言った。


「霙」


「はい」


「あんたも、いつか呼ばれるからね」


 霙は天井を見ていた。梁の節が、暗くて見えなかった。


「そのときは、ちゃんと行くんだよ。今年うちからお受けいただいたんだから、しばらくは順番が回ってこないだろうけどね。でも、いつかは呼ばれる」


「はい」


「そうしたら、また会えるよ。三人で」


 母の声は、幸せそうだった。


「わたしのほうが先かもしれないね。年寄りから呼ばれることもあるから。そうしたら、向こうで待ってるよ」


「はい」


「待ってるからね」


 母はそれきり黙って、しばらくすると寝息が聞こえてきた。


 この十日、眠れていなかったのだろう。


 霙は起きていた。


 あと二日ある、と思った。


 殺せば、この人は二度と霰の声を聞けない。来年の日に石の内側へ行っても、何も聞こえない。順番が回ってきても、行く場所がない。向こうで待つこともできない。


 殺さなければ、霰は言葉をなくす。


 どちらでも、この人からは何かがなくなる。どちらを選んでも、この人には言えない。


 霙は寝返りを打った。


 三つ目の寝床が、暗い中で白く見えた。


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