第七話 血が要る
娘は、しばらく何も言わなかった。
鴉は戸を開けたまま待った。夜気が入ってくる。この時刻に外を歩く者は、この領にはいないらしかった。犬の声も、もうしない。
「妹が」
と、娘がようやく言った。
「妹が、昨日、塔に入りました。名前は霰といって、八つになったばかりで、わたしの妹です」
鴉は黙っていた。
「わたしは霙といいます。姉です。あの、それで」
言葉が続かなくなった。娘は自分の手を見て、それから顔を上げた。
「立ったままで、すみません」
「入れ」
鴉は先に部屋へ戻った。娘は戸口でためらってから、ついてきた。
部屋には寝床と棚しかない。鴉は壁を背にして座った。娘は板の間の縁に、膝を揃えて座った。棚の木彫りを見て、少し驚いた顔をしたが、何も言わなかった。この部屋が誰の部屋だったか、知っているのだろう。
「妹が塔に入った」
鴉が言った。
「はい」
「戻らないと思っている」
「……戻った人を、聞いたことがありません」
娘は膝の上で指を組んだ。組んでから、ほどいた。
「誰も言わないんです。どこへ行くのか、どうなるのか。行った先のことを、誰も。祝いに七軒から人が来て、七軒とも、おめでとうございますとだけ言って帰りました」
声が速くなっていた。
「母に三度聞きました。順番だから、と言われました。それだけです。三度目には、答えもしませんでした。代官さまにも聞きました。止まったらどうなるのかと。そういうことはこれまでありません、と言われました」
鴉は聞いていた。口を挟まなかった。
「今朝、あなたが石に手を置いたのを見ました」
娘が言った。
「あの石に触った人を、初めて見ました。それで」
そこで止まった。頼み事を口にするところで、また止まっていた。
外で風が鳴った。板戸が震えて、静かになる。娘はその音が収まるのを待つように黙っていた。
「妹を、取り戻していただけませんか」
鴉は答えなかった。
娘は待った。待つほど、答えが来ないことが分かってきたらしかった。顔から血が引いていくのが、暗い中でも分かった。
「無理でしょうか」
「塔には入る」
「……それは」
「それだけだ」
娘の口が半分開いて、閉じた。取り戻すとは言われなかったのだと、いま気づいた顔だった。
「あの、お礼のことですが」
娘は懐から布の包みを出した。膝の前に置いて、押し出す。
「銭はありません。これは母のもので、勝手に持ってきました。銀が使ってあります。売れば、少しは」
「いらない」
「……ですが」
「いらない」
鴉は包みを見なかった。
娘は包みを引き戻さなかった。二人のあいだに置かれたまま、しばらく誰も触らなかった。布の結び目が、片方だけ固く締めてある。急いで包んだのだろう。
「どうしてですか」
と、娘が言った。
「わたしはあなたに何も渡せません。それなのに、塔に入ってくださるんですか。どうして」
鴉は膝の上で手を開いた。手のひらを上に向けて、しばらくそのままにした。何かを見せようとしたのではなく、確かめる動きだった。
「血が要る」
「血」
「あれの血だ」
娘の眉が寄った。何を言われたのか分からない顔だった。
「あれというのは、お灰さまの」
鴉は答えない。
「あの、それは、どういう」
鴉は手を閉じた。それきり動かなかった。
娘はしばらく待って、諦めた。この人は答えないのだと、たぶん分かったのだろう。分かるのが早い娘だった。
「今朝、代官さまと何をお話しになっていたんですか」
「塔が何年ぶんあるかを聞いた」
「何年ぶん、というのは」
「答えなかった」
鴉は立ち上がった。窓のところへ行って、開ける。冷えた風が入った。
塔は、夜でも見えた。
「あの石の内側に、入口はひとつだけだ」
鴉が言った。
「はい。あそこだけです」
娘が言った。
「裂け目がひとつ。ほかにはありません。誰も見たことがないと思います。近づく人がいませんから」
鴉は窓の外を見たままだった。
「じゃあ、ひとつだ」
娘は自分がいま何かを渡したことに気づいていないようだった。膝の前の包みを、ようやく引き戻して、懐に入れた。しまうときに、少し手間取っていた。
それから立ち上がって、戸口で振り返った。
「お名前を、伺ってもいいですか」
「鴉」
「……鴉さん」
娘がそう呼んだとき、鴉は少しだけ窓のほうから顔を戻した。呼ばれることに慣れていない者の動きだった。
「明日の朝、また来ます」
娘は言って、出ていった。
戸が閉まる音がして、それから足音が遠ざかった。速い足音だった。走っているのかもしれない。
鴉は窓を閉めなかった。塔は白いままそこにあり、風だけが部屋に入り続けていた。
棚の上で、木彫りの鳥が風に押されて、少しだけ向きを変えた。




