第六話 余所の女
なぜあんなところに立っていたのか、あとで聞かれたら霙は答えられなかっただろう。
朝、水を汲みに出て、そのまま歩いた。どの道も塔へ向かっているのだから、考えずに歩けばそうなる。畑を三枚越えて、草が短くなるあたりで足が止まった。
桶は途中で置いてきた。畦の上に、水を汲んだまま置いてきた。あとで取りに戻ることも忘れていた。
昨日、あそこに霰がいた。
白い着物で、袖を持ち上げて、音がしないのを確かめて、それから入った。
霙は石の列を遠くから見ていた。近づく気はなかった。近づいてはいけないと知っている。ただ、昨日まで妹がいた場所が、今日はどうなっているのかを見たかった。
同じだった。何も変わっていない。石が並んで、草が短くて、塔が立っている。ひとつ違うのは、そこに女が立っていたことだった。
石に手を置いていた。
霙は息を止めた。あの石に触る人間を、生まれて初めて見た。
代官の巳戸が来て、何か話していた。声は届かなかった。二人とも動かなかった。話しているというより、立ったまま何かを待っているように見えた。
やがて女がこちらへ歩いてきて、目が合った。
逃げればよかったのだと思う。誰もが逃げていた。それなのに霙は動けなくて、動けないまま見ていた。女は何も言わずに通り過ぎた。近くで見ると、思っていたより背が高くなかった。袖の縫い目がほつれていた。旅の人の身なりだった。
その日の午後には、領じゅうがその話をしていた。
「余所の女が来ているそうですよ」
と、井戸のところで隣家の嫁が言った。
「刀を持っているんですって。女の身で」
「境の小屋でも、何も口にされなかったそうです。湯も断られたとか」
「宿の主人が困っておられるそうです。夕餉もいらないと言われて」
女たちは笑わなかった。噂話をするときの、少し楽しそうな声ではあった。けれども誰も笑わなかった。桶を上げる手が、話しているあいだ何度も止まった。
「塔のことを聞いて回っているらしいですよ」
その一言で、声が変わった。
「何年ぶんあるか、と代官さまに聞いたそうです」
「何年ぶん、って」
「さあ。わたしにも分かりません」
水を汲む音だけがしばらく続いた。
「関わらないほうがよろしいですよ」
と、年上の女が言った。
「ああいう人は、置いていくものが悪い。ご厄介をお灰さまに向けて、自分は行ってしまう」
みな頷いた。霙も頷いた。頷きながら、何年ぶん、という言葉を頭の中で繰り返していた。
家に帰って、母に何か言おうとした。何を言うつもりだったのか、口を開けてから分からなくなった。母は霰の櫛を棚から下ろして、拭いて、また戻すところだった。毎日そうしているらしかった。
霙は何も言わなかった。
夜になった。
母は早く寝た。霰が使っていた側の寝床が空いていて、母はそちらを見ないようにしていた。畳んだ夜具がそのままになっている。片付ける気はないらしい。片付けないまま、元気にしていると言うのだろう。この先ずっと、そうするのだろう。
霙は起き上がった。
余所者を頼るのは、この領でしてはいけないことのうちのひとつだった。禁忌と言うほど大げさなものではない。ただ、そうする者がいないというだけのことだった。いないということが、いちばん強い決まりだと霙は知っている。
昨日、母に聞いた。順番だから、と言われた。
三日前にも聞いた。同じ答えだった。
二十日のあいだに、三度聞いた。三度とも同じで、三度目には母は答えもしなかった。
この領の人間に聞いても、もう何も出てこない。
霙は上着を羽織って、そっと戸を開けた。閂を外すとき、木が鳴った。母の寝息が一度止まって、また続いた。起きていたのかもしれなかった。霙は振り返らずに外へ出た。
外は暗かった。月はない。それでも塔の位置だけは分かる。白いものが、暗い中でも少しだけ明るい。
街道沿いの宿までは、歩いて四半刻ほどだった。
道の途中で、犬が吠えた。どこの家の犬かは分かっている。子どものころから同じ家に犬がいる。代替わりしても、同じ場所で吠える。
軒下の縄が風に鳴っていた。表の戸は閉まっていたが、奥の部屋の窓に明かりはない。もう寝ているのかもしれない。それならそれでいい、と霙は思った。思いながら、帰ろうとはしなかった。
戸を叩いた。
二度叩いて、待った。何も起きなかった。もう一度叩こうとして手を上げたとき、戸が内側から開いた。
女が立っていた。
明かりを持っていない。暗いのに、こちらを見ているのが分かった。
何も言わなかった。誰だとも、何の用だとも聞かなかった。ただ戸を開けて、立っている。
霙は口を開けた。
言おうと思ってきた言葉が、いくつかあった。妹のこと、塔のこと、代官のこと。順番を決めてきたはずだった。それなのに、何ひとつ出てこなかった。
女は待っていた。急かす様子はない。永遠に待っていられる立ち方だった。




