第四話 裂け目
川へ行ったのは、あの翌日だった。
十八日前になる。霙はそれを、月の終わりの朝に思い出していた。
川は領の南にあって、この時期は水が少ない。石が乾いて出ている。霰は裸足になって、冷たいと言いながら足首まで浸けた。それから石を集めはじめた。平たいものを選んで、川原に並べていた。
「なにしてるの」
「並べてるの」
霰は数えながら並べていた。十まで数えて、そこから先は数えずに並べた。並べ終えると崩して、また並べた。三度目に並べ終えたとき、霙のほうを向いた。
「姉さん」
「うん」
「みぞれと、あられって、似てるね」
霙は石を見ていた。
「似てないよ」
「似てるよ。どっちも空から降ってくるし」
「あんたのは丸いでしょう。わたしのは、ぐしゃぐしゃしたやつ」
霰が笑った。ぐしゃぐしゃ、と繰り返して、また笑った。
それだけの日だった。ほかに何をしたわけでもない。日が傾いてから帰って、母に足が冷たいと叱られた。霰は叱られながら笑っていた。
あの日のことを、霙はもう十回以上思い出している。思い出すたびに、石の数を数えておけばよかったと思う。何個並べていたのか、覚えていない。
月の終わりの朝は、晴れていた。
この領で晴れるのは珍しい。空の灰が薄くなって、そのぶん塔が白く見えた。霙はそれを、いい日だと言う声を何度も聞いた。
道に人が出ていた。塔までの道の両側に、領のほとんどの家から誰かが出ている。誰も騒いでいない。祝いの日だというのに、声は低かった。
霰は白い着物を着ていた。糊はもう落ちていて、初めのころのような音はしなかった。
「まっすぐ歩けばよろしい」
代官の巳戸が言った。列の先頭に立っている。五十がらみの、瘦せた男だった。
「途中で止まらぬよう。それだけです」
「止まったら、どうなるんですか」
霙が聞いた。
巳戸はこちらを見た。目が合ったが、すぐに外れた。
「そういうことは、これまでありません」
答えになっていなかった。霙はもう一度聞こうとして、母に袖を引かれた。強く引かれた。
列が動きはじめた。
歩く速さは、いつもの道より遅かった。誰かが早く歩けば、後ろがついていく。誰も早く歩かなかった。子どもが走り出そうとして、親に肩を掴まれていた。
塔は、近づくと大きさが分からなくなった。遠くから見ていたときは白い柱に見えたのに、根元まで来ると壁でしかない。継ぎ目がない。石を積んだものなら見えるはずの線が、どこにもなかった。
その壁の下に、縦の裂け目があった。
人ひとりが横向きに通れるくらいの幅で、黒い。中は見えない。日が当たっているのに、裂け目のところだけ光が入っていかなかった。
霙は、あれはいつからあるのだろうと思った。誰かが開けたのか。それとも初めから開いているのか。この領で生まれて十七年、一度も近くで見たことがなかった。誰も近づかないから、誰も知らない。
列が止まった。
巳戸が何か短く言い、領民が下がった。霰と、母と、霙だけが前に残った。
母が霰の襟を直した。二度直して、三度目に手を止めた。
「行っておいで」
と母は言った。
霰が頷いた。それから霙のほうを向いた。
「姉さん」
霙は何も言えなかった。言おうとしたことはいくつもあったのに、どれも喉の途中で止まった。行くなと言えば、この家が咎を負う。母が咎を負う。それが分かっていた。分かっているということが、いちばん腹立たしかった。
霰は待っていた。姉が何か言うのを待っている顔だった。
やがて待つのをやめて、笑った。
「じゃあね」
霰は歩き出した。
まっすぐ歩いた。誰も引いていない。押してもいない。自分の足で、十歩ほど。裂け目の前で一度だけ立ち止まって、袖を持ち上げた。
音はしなかった。糊が落ちていたから。
霰は袖を下ろして、体を横に向けて、中へ入った。
白いものが黒に入って、すぐに見えなくなった。
誰も声を上げなかった。
しばらく、風の音だけがしていた。それから、地面が動いた。
揺れたのではない。塔の壁が、ゆっくりと上へ動いた。音は低く、腹に響くようなものが一度だけ。裂け目の上のふちが、霙の目の高さから、ずれていった。
止まった。
膝ひとつぶん。
領民のあいだから、息を吐く音がいくつも聞こえた。誰かが泣いていた。悲しんでいる泣き方ではなかった。
「お受けくださった」
と、後ろで誰かが言った。
「今年もお受けくださった」
母が両手を合わせていた。目を閉じている。その顔を、霙は見ていられなかった。
列が崩れて、人が帰りはじめた。話し声が戻ってくる。もう普通の朝の声だった。誰かが今年の麦の出来の話をしていた。別の誰かが、来年は雪が早いだろうと言っていた。
霙は動かなかった。
裂け目のふちを見ていた。さっきまで自分の目の高さにあったものが、いまは少し上にある。膝ひとつぶん。
それがどれくらいの高さなのか、霙は自分の膝を見た。
なぜそんなことをしたのか、自分でも分からなかった。
母が呼んだ。三度呼ばれてから、霙は歩き出した。裂け目のほうは、もう見なかった。




