第三話 白い着物
余所の女が領へ入るより、半月あまり前のことだった。
戸の外で人の声がして、霙は手を止めた。
米を研いでいる途中だった。冷たい水に手が赤くなっている。声はひとつではなかった。三人か、四人か。笑っている声も混じっていた。
母が土間へ出ていく足音がする。戸が開いて、風と一緒に声が入ってきた。
「おめでとうございます」
霙は水から手を上げなかった。
その日のうちに、七軒から人が来た。餅を持ってきた家が三軒、布が二軒、あとの二軒は何も持たずに来て、長く座って帰った。
布を持ってきた家の嫁は、包みを開いて見せながら、うちのときは間に合わせで済ませてしまったから、と言った。うちのとき、というのがいつのことなのか、霙には分からなかった。聞かなかった。聞けば長くなると思った。
母は同じ話を七回した。七回とも同じところで声が高くなった。
「お呼びがあったのは、朝でした」
と母は言った。
「代官さまが直に見えられて。うちのような家に、直にです」
板の間の隅で、霰が着物を着せられていた。
白い。糊が効いていて、着せるたびに乾いた音がする。霰は袖を持ち上げたり下ろしたりして、そのたびに音を鳴らしていた。八つになったばかりだった。
「姉さん、見て」
霰が振り向いた。
「音がするの」
霙は何か言おうとして、うまく声が出なかった。かわりに頷いた。霰はもう別のほうを向いて、袖を鳴らしていた。
隣のうちのばあさまが、霰の裾を直してやりながら言った。
「よく似合う。うちの子のときは丈が足りなくてね、継ぎ足したんですよ。あれは背が高かったから」
「いくつでしたか」
と母が聞いた。
「十六。もう、ずいぶん前になります」
ばあさまは指を折らなかった。何年前か数えるつもりがないようだった。
「元気にしているといいけれど」
と、ばあさまは言った。
霙は米に手を戻した。水がぬるくなっていた。
夕方になって、餅が配られた。霙は自分のぶんを食べなかった。母が気づいて、あとで食べなさいと言った。取っておくと硬くなる、とは言わなかった。硬くなるまで置いておくことを、母は当然だと思っているらしかった。
夜になって人が引けてから、霙は母に聞いた。
「どうして霰なんですか」
母は洗い物の手を止めなかった。
「順番だから」
「順番って、誰が決めるんですか。代官さまが決めるんでしょう。それなら、うちじゃなくてもよかったんじゃないの」
「そういうものじゃないよ」
「じゃあ、どういうものなんですか」
母は布を絞った。水が落ちる音がした。
「霙」
初めてこちらを見た。怒った顔ではなかった。心配している顔だった。それが霙にはこたえた。
「あんた、疲れているんだよ。今日は人が多かったから」
「疲れてなんかいません」
「隣に聞こえるよ」
霙は黙った。
母は洗い物に戻って、それきり何も言わなかった。背中が、話は終わったという形をしていた。桶の水を捨てに出て、戻ってきて、竈の灰をならして、それから寝る支度をした。いつもと同じ順番だった。今日だけ違うことは、ひとつもしなかった。
寝床に入ってから、霰が横で身じろぎした。眠っていないらしい。
「姉さん」
「なに」
「わたし、いちばんになったの」
霙は天井を見ていた。梁に節がひとつある。子どものころ、あれが目に見えて怖かった。
「いちばんって」
「うちで、いちばん。おっかさんが言ってた。三代でうちだけだって」
霰は寝返りを打って、こちらを向いた。暗くて顔は見えなかった。息の音だけが近くにある。
「姉さんも、嬉しい?」
風が戸を鳴らした。
霙は、あと十九日だと思った。月の終わりまで十九日。今日を入れれば二十日になる。数えてから、数えたことを後悔した。数えると、減っていくのが分かってしまう。
「霰」
「うん」
「明日、川へ行こうか」
「なんで」
「なんでもないけど」
霰はしばらく黙って、それから小さく笑った。
「いいよ」
そう言って、すぐに眠ってしまった。息の音が変わるのが分かった。
霙は起き上がって、板の間へ出た。
板の間には、着せかけの白い着物が畳んで置いてあった。糊のにおいがまだ残っている。霙はそれを見ないようにして通った。
戸の隙間から外が見えた。灰の色をした夜の中に、塔が立っている。この家からは、屋根の向こうに上のほうだけが見える。星より低いところに、白いものがある。
霙は長いこと、それを見ていた。
見ているうちに、ひとつだけ分かったことがあった。今日、七軒の人が来て、誰も霰がどこへ行くのかを言わなかった。お受けいただく、お呼びがあった、いちばんになった。そういう言い方ばかりだった。
行った先で、霰がどうなるのか。
誰も言わなかったし、霙も、とうとう聞かなかった。




