第二話 息子の部屋
宿は街道沿いに一軒あった。
横に長い平屋で、看板の代わりに軒下へ古い縄が下がっている。この領には二階建てというものがない。どの家も地面に貼りついたように低く、そのぶん屋根だけが厚かった。雪の重さを見越した造りなのだろう。
戸を開けると、土間に男が立っていた。四十を過ぎたくらいで、濡れた布を手に持っている。鴉を見て、それから戸の外を見た。連れがいないことを確かめる目つきだった。
「部屋があるか」
鴉が言った。
「……ええ、ございます。ございますが」
主人は布を置いた。置いてから、また持ち直した。
「珍しいことです。この時期に、よそから来られるのは」
鴉は答えない。
「商いの方には見えません。荷がありませんので。かといって、巡礼という風でもない」
主人は喋りながら、鴉の脇を通って奥へ行った。喋ることで間を埋める癖のある男らしかった。
土間の隅に、竈がふたつ並んでいる。片方は使われていて、片方は蓋の上に籠が置いてあった。長く使っていない側だろう。客が減ったのか、初めから多くなかったのか、どちらとも取れた。
「奥の部屋をお使いください。日が入ります」
板の廊下を進む。踏むたびに軋んだ。左手に三つ戸があって、そのうちひとつだけが開いていた。中は使われていない部屋の匂いがするはずだったが、鴉には分からなかった。
寝床がひとつ。壁に釘が二本。棚に木彫りのものが置いてある。
「息子の部屋でした」
主人が言った。
「いまは空いておりますので」
鴉は棚を見ていた。木彫りは鳥のようなものだった。首のところで削り損なって、そのままになっている。
「あれは、息子が彫ったものです。下手なものですが」
主人は取り上げようとして、やめた。棚に埃はなかった。誰かが拭いているのだ。
釘には何も掛かっていない。二本とも、抜かれずに残っている。掛けるものがなくなっても、釘だけは残るものらしかった。
「去年、お受けいただきました」
言い方が変わった。低くなったのではなく、少し高くなった。
「うちからは初めてです。三代さかのぼっても、お呼びがなかった。ようやくです」
鴉は主人を見た。主人は鴉を見ていなかった。棚の鳥を見ていた。
「息子は元気にしております」
外で風が鳴った。板戸が細かく震えて、それきり静かになる。
「窓からお灰さまが見えます。よい部屋です」
主人は窓のほうへ手を向けた。指ではなく手のひらで示す。塔を指で差してはいけないのだろう。
「毎年、少しずつ高くなります。この窓の桟のところに、去年は上のふちが重なっておりました。いまは桟より上です」
「この部屋から見ていたのか」
「……はい。あれが、そこに座って」
主人は寝床の脇の一点を見た。それから、見たことをごまかすように布を持ち替えた。
「よく見ておりました。伸びるところが見えるわけでもないのに」
鴉は窓を見た。それから主人を見た。主人はまだ嬉しそうな顔をしていた。
「ひとつだけ、お願いがございます」
主人が言った。
「領の外れ、西のほうへは行かれませんよう」
「何がある」
「……何がある、とは申しません。塔の障りが出ます。それだけです」
主人は初めて言い淀んだ。塔の話をしていたときの調子が消えていた。布を持ち替えて、指で端を折り込んでいる。手を動かしていないと落ち着かないらしかった。
「子どもの時分から、あちらへは行くなと言われて育ちます。理由は聞きません。聞くものではありませんので」
「行った者がいる」
「おります」
主人は短く答えた。
「戻らないことがあります」
それだけ言うと、主人は布を持ち直した。持ち直す必要のない持ち方だった。
「夕餉は日の暮れに。粥と、干した魚がございます」
「いらない」
「……さようですか」
主人は少しだけ驚いた顔をした。旅の者が食事を断るのは珍しいのだろう。だが理由は聞かなかった。この領の人間は、あまり理由を聞かない。
戸口まで下がって、それから思い出したように振り返った。
「息子は、今年で二年目になります」
戸が閉まった。
廊下を戻る足音が遠ざかり、竈のあたりで止まった。それから何かを洗う音がしはじめた。ひとりぶんの量とは思えない、長い時間の音だった。
鴉は窓を開けた。
冷えた風が入ってきた。塔は、思っていたより近い。ここからでは上のほうが見えず、白い壁が空を切り取っているだけだった。継ぎ目がない。石を積んだものなら、どこかに線が見えるはずだった。
窓の桟に、細い傷がひとつあった。爪でつけたような、まっすぐな線。指でなぞると、爪が引っかかった。何度もなぞって深くなった傷だった。一年に一度だけつけるにしては、深すぎる。
鴉はしばらくそれを見てから、窓を閉めた。棚の鳥は、首のところで削り損なったまま、こちらを向いている。




