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屠神録 ―白灰の領  作者: 卓哉


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第一話 灰の境

 道の突き当たりに、塔が立っていた。


 灰の色をした空の下で、そこだけが白い。距離がありすぎて、石なのか何なのか、輪郭のほかは分からなかった。窓らしいものは見えない。平屋を五十ばかり積み上げれば、あれくらいになるだろうか。


 鴉(スス)は足を止めて、しばらくそれを見ていた。


 この三日、道はずっと下っていた。峠を越えてから木が減り、代わりに石が増えた。畑の畝は掘り返されたまま、来年の支度がされていない。冬が来るのに、誰も急いでいない土地だった。


 後ろで馬が鼻を鳴らした。荷を引いてきた男が、鴉の視線の先を追い、それから慌てて目を伏せた。


「あまり見るものではありません」


 男は言った。


「いえ、見てもよいのですが……長く見るものでもない」


 鴉は目を離さなかった。


 男は馬の首を叩いて、歩き出した。すれ違うとき、荷の縄が緩んでいるのが見えた。締め直す気がないのだろう。この道を行き来する者は、みなそういう歩き方をする。急ぐ理由がなく、遅れて困ることもない。


 白灰の領(はくかいのりょう)の境には、腰までの柵と、小屋がひとつあった。


 煙が細く立っている。冬が近いというより、この土地ではもう冬なのだろう。柵の杭は根元が黒く朽ちて、それでも新しく替えられた様子はなかった。柵の切れ目には、閂も鎖もない。跨いで通ることもできる。それでも道は柵の切れ目へ向かって、きちんと踏み固められていた。


「どちらから」


 年嵩の番人が言った。柵に手を置いたまま、動かない。


 鴉は答えなかった。


「名は」


「鴉」


「……鴉」


 番人が繰り返した。それが名だと思わなかった顔をしていた。もう一人、若いほうが小屋から出てきて、年嵩の背後に立った。手に椀を持っている。食べかけらしく、口を動かしながら出てきて、鴉を見て動かすのをやめた。


「ご用向きは」


 鴉は答えない。


 若い番人が年嵩のほうを見た。年嵩は柵から手を離さなかった。指の関節が白くなっている。押さえていなければ動いてしまうものを押さえているような手つきだった。


「この先に宿はあるか」


 鴉が言った。


「……ええ、あります。街道沿いに一軒」


 年嵩の番人は答えてしまってから、答えたことを悔いる顔をした。


「湯なら、ございますが」


 若いほうが言った。椀を持ったままだった。


「いらない」


 若い番人は椀を下ろした。何か返されると思っていた顔だった。


 年嵩が何か言いかけて、やめた。それから、言い直した。


「風が出ます」


「そうか」


「当たっていかれますか。日が落ちますと、この道は冷えます」


 断る理由もなかったので、鴉は小屋へ入った。


 中は狭かった。


 土間に炉があり、その周りだけ床が焦げている。壁に蓑と、鉈と、名の分からない道具が掛かっていた。どれも柄の部分が黒く光っている。長く使われたものの光り方だった。奥に寝床がひとつ。二人で交代に使っているのだろう。片方の隅に、履き潰した草履が三足まとめてある。捨てずに置いてあるのは、まだ使うつもりなのだろう。


 鴉は炉の前に座った。


 戸口から外が見えている。柵の向こうに、まだ塔があった。戸口の高さで切り取られて、上のほうが欠けていた。


「塔をご覧になった」


 年嵩の番人が言った。今度は自分から言った。


 鴉は答えなかったが、番人は続けた。話したいことがあって、言い出す機会を探していたらしかった。


「毎年、少しずつ高くなります。冬のはじめに測ると、去年より上にある。今年もお受けくださったのだと、それで分かる」


 誇るような言い方ではなかった。当たり前のことを、当たり前に言う言い方だった。天気の話をするのと同じ調子だった。


「どうやって測る」


「あの戸口に立って、柱の傷と重ねるのです。先々代の番人が、そうやって印をつけていったそうで。その印より、いまはずいぶん高い」


「その印はどこにある」


「……さあ。柱を替えましたので」


 年嵩の番人は炉に目を落とした。若いほうが火に枝を足す。木が湿っていて、なかなか燃え移らなかった。煙が上がって、天井の隅の煤が濃くなっているのが見えた。何十年ぶんもの煤だった。


 狭い場所だった。これだけ煙が籠れば、ほかにも立つものがあるはずだった。湿った蓑も、炉の灰も、二人が長く寝起きした跡も。


 何もなかった。


 そういうものがどんな匂いだったか、鴉はもう覚えていない。覚えていないということを、時々こうして確かめる。


 鴉は炉の火を見ていた。火が細くなり、また持ち直した。


「今年の贄はもう入った」


 二人が同時に鴉を見た。


 若いほうが、口を開けたまま年嵩を見る。年嵩の番人は、しばらく何も言わなかった。枝を持った若いほうの手が、炉の上で止まっている。


「……いえ」


 声が低くなっていた。


「まだです。月の終わりに」


「そうか」


 鴉は立ち上がった。


 二人が同時に立ち上がりかけて、途中でやめた。止めるつもりだったのか、送り出すつもりだったのか、自分たちでも決めていない動きだった。


 外へ出ると、風が来ていた。灰の色の空はさっきより低い。柵の切れ目まで歩いて、そこで一度だけ振り返った。二人の番人が戸口に並んで立っている。止めるふうではなかった。


 道は塔へ向かって、まっすぐに伸びていた。


 背後で若い番人が何か言い、年嵩がそれを短く止めた。何と言ったかは聞こえた。鴉は振り返らなかった。


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