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屠神録 ―白灰の領  作者: 卓哉


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第三十九話 九つ目

 その日、誰も何も言わなかった。


 数百人が石の列の外に立って、白灰色の山を見ていた。日が高くなっても、誰も動かなかった。昼を過ぎてから、一人、また一人と帰りはじめた。話し声はなかった。


 霙(ミゾレ)は最後まで立っていた。


 家に帰ると、母がいた。


 土間に立って、こちらを見た。もう知っていた。誰かが知らせたのだろう。


「あんたが」


 母が言った。


「わたしが決めました」


 母は動かなかった。


「頼んだのかい」


「はい」


 母は何も言わなかった。長いこと、何も言わなかった。それから、板の間へ上がった。


 三つ目の寝床のところへ行って、夜具を持ち上げた。


 畳んだ。端を合わせて、一度畳んで、ずれているのに気づいて、広げて、もう一度畳んだ。三度目でようやく形になった。


 押し入れは詰まっていた。母は下のほうの荷を引き出して、脇へ置き、隙間を作って、そこへ入れた。引き出した荷を戻すのに、また時間がかかった。


 終わってから、母は座った。


「そうかい」


 それだけだった。


 土間には、臼が出したままになっていた。洗われていなかった。母はそれを片付けなかった。何日か経ってから、いつのまにか元の場所へ戻っていた。


 その日から、母は霙と口をきかなくなった。


 食事は作った。二人ぶん作った。出して、自分の分を食べて、片付けた。目は合わなかった。


 三日目に、霙は家を出た。追い出されたのではない。母は止めなかった。止めもしなかった。


 領で口をきいてくれる者はいなかった。


 井戸へ行けば、人が離れた。道を歩けば、目を逸らされた。誰も石を投げなかった。罵りもしなかった。ただ、いないものとして扱われた。


 一度だけ、小さい子どもが霙の名を呼んだ。前を通りかかっただけだった。母親がすぐに手を引いて、名を呼んだことを叱った。叱る声は聞こえた。何と言ったかも聞こえた。


 この領は、そういうやり方をする。


 四日目に、隣家のばあさまが豆を選りながら言った。霙に言ったのではなく、独り言のように言った。


「楸(ひさぎ)は、丈が高くてね」


 霙は立ち止まった。


「着物の裾が足りなくて、継ぎ足したんですよ」


 ばあさまは霙を見なかった。


「もう、聞こえないんですよ」


 豆を選る手は止まらなかった。虫の食ったものが、横へ寄せられていく。目より先に指が選んでいる。


 霙は頭を下げて、その場を離れた。


 背中で、豆の落ちる音がしばらく続いていた。


 崩れた塔のところには、誰も来なくなった。


 白灰色の山は、日が経つにつれて低くなった。風が粉を運んでいく。雨が降ると、少し固まって、また乾いて、また流れた。石の列はそのまま残っていた。跨げる高さの石が、何もない場所を囲んでいた。


 誰も、その石を動かさなかった。


 領の造りは、そのままだった。家はどれも入口を塔のほうへ向けている。畑の畝も、水路も、中心へ向かって切られている。向いている先に、もう何もない。


 水は流れ続けていた。どこから来ているのかは、やはり誰も知らなかった。


 霙はそこへ通った。


 小屋に住むことにした。西の外れの、屋根の落ちたところではない。塔の近くの、昔は物置だったらしい建物だった。誰のものかは分からない。誰も使っていなかった。


 筆と墨は、母の家から持ってきた。無断で持ってきた。母は気づいただろうが、何も言わなかった。


 紙は、役所でもらった。


 書役の男は、霙の顔を見て、何も聞かずに反故紙の束をくれた。ずいぶんな量だった。代官さまがそうしろと言われました、とだけ言った。巳戸(ミト)の姿は見えなかった。


 五日目の昼、霙は瓦礫の前に座って、紙を広げた。


 その朝、二軒回っていた。


 一軒目は戸を開けなかった。中に人がいるのは分かっていた。二軒目は開けてくれたが、名を伺いたいと言うと、それきり黙った。しばらく待って、霙のほうから引き上げた。追い返されたのではない。ただ、話が始まらなかった。


 持っている名は、八つだった。


 霰(アラレ)。楸。三年前の人。あとの四つは、家と続き柄しか書けていない。そして、鴉(スス)。


 四百十一人いた。


 八つしかない。


 四百三、足りない。


 霙は最初の一枚に、八つを清書した。字は下手だった。手が震えているせいでもあった。それでも書いた。


 書いてから、二枚目を出した。白いままにしておいた。


 これから何年かかるか分からない。ばあさまはもう楸の話をしてくれるかもしれない。あの人は名を覚えている。井戸の人の夫は、母親の名を知っているだろう。五十年前に娘を出した老人は、まだ生きている。


 みんな、覚えている。自分の家の一人だけは覚えている。


 六十軒ある。


 六十は集まる。あとの三百五十は、誰も覚えていない。


 それでも、六十だ。


 日が傾いた。


 塔がないので、影が来なかった。この領に、夕方の合図がなくなった。日が落ちるのを、みな空で知るようになった。


 足音がした。


 霙は顔を上げた。宿の主人が立っていた。


 いつから立っていたのかは分からなかった。近づいてくる音は聞こえなかった。


 しばらく、何も言わなかった。霙も何も言わなかった。


 主人は瓦礫のほうを見て、それから紙のほうを見た。二度、口を開きかけて、二度ともやめた。


「柊(ひいらぎ)と申します」


 主人が言った。


「うちのです。去年の者です」


 霙は筆を持った。


「柊」


「はい。木へんに、冬と書きます」


 霙は書いた。九つ目だった。


 書いてから、主人に見えるように紙を向けた。主人はしゃがんで、それを見た。長く見ていた。字が合っているかを確かめているのではないようだった。


 それから立ち上がった。


 霙が顔を上げると、主人は両手を前で組んで、瓦礫を見ていた。


「憎んでおります」


 主人が言った。


「はい」


「一生、憎むと思います」


「はい」


「それでも、名は残ります」


 主人は頭を下げた。深く下げた。それから、帰っていった。


 霙は紙を見た。


 九つになっていた。


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