第四十話 十六
六日目の朝、鴉は領を出ようとした。
荷は少ない。振り分けの袋がひとつ。左腕の傷は塞がっていた。血の戻りは遅かった。歩けるだけには戻っていた。
街道へ出る道に、人がいた。
三十人ほどが立っていた。今度は塔のほうではない。領の出口を塞ぐ形に立っていた。
前に巳戸がいた。
「お待ちください」
鴉は足を止めた。
「六日、お待ちしました」
巳戸が言った。
「お体が戻られるまではと思い、誰も近づけませんでした。それだけの手当てはしたつもりです」
「宿は使っていない」
「使っていただけないことも、存じております」
巳戸は少し頭を下げた。
「お願いがございます」
「聞かない」
「聞いていただかなくとも、申し上げます」
巳戸の後ろで、男が二人、何かを抱えていた。布に包んだものだった。抱え方が慎重だった。重いというより、こぼれやすいものを持つ抱え方だった。
「この領には、いま、何もございません」
巳戸が言った。
「守るお方がおられません。三百年、おられなかったことがない。この先どうなるのか、わたくしには分かりません。ですが、良くはないでしょう」
「来る」
鴉が言った。
「……何が」
「別のが来る。空いた領には来る。早ければ半年だ」
人の列が揺れた。誰かが息を呑む音がした。
「では」
巳戸は言った。
「あなたが、なってはいただけませんか」
鴉は答えなかった。
男たちが前に出た。布を開いた。
中に、白灰色の塊があった。人の頭ほどの大きさで、まだ湿っていた。瓦礫の底から掘り出したのだろう。表面がわずかに動いていた。動いているように見えただけかもしれなかった。
「お灰さまの、お体です」
巳戸が言った。
「これを召し上がっていただければ、あなたが次のお方になられると、そう聞いております」
「誰から聞いた」
「言い伝えです」
鴉は塊を見た。
「ならない」
「なぜです」
「それでは、ならない。神の骸でなければ、ならない」
巳戸の顔が動いた。理解できない、という動き方だった。
「神の」
「あれは神を喰った。あんたらが喰うのは、神を喰ったやつだ。同じじゃない」
鴉は塊から目を離した。
「それを喰えば、障りになる。窪地にいたやつらだ」
男たちが塊を落としそうになった。落とさずに、持ち直した。顔が白くなっていた。
列の後ろで、誰かが低く何か言った。西の外れの話をしているのだろう。行くなと言われて育つ場所の話を。
巳戸は動かなかった。
「では、召し上がらずとも、ここにいていただくことは」
「できない」
「なぜ」
「いれば、あんたらは据える」
鴉は列を見た。三十人が鴉を見ていた。
「今日は断る。半年後は分からない。別のが来て、贄を取りはじめる。そのとき、あんたらはまた頼む。断れば、いずれ無理にする」
「そのようなことは」
「する」
鴉は言った。
「三百年やってきた。やり方を知っている」
巳戸が黙った。
列の中から、誰も何も言わなかった。否定する声も上がらなかった。
人が割れた。
誰が最初に動いたのかは分からなかった。一人が横へ寄り、それに続いて、道が空いた。
鴉は歩き出した。
街道の入口で、霙が待っていた。
紙の束を抱えていた。厚くなっていた。九つのはずが、もっと増えているらしかった。
「お発ちになるんですね」
「発つ」
霙は紙を抱え直した。
「昨日の夕から、二人来ました。名を、置いていかれました」
鴉は何も言わなかった。
「伝えることがある」
鴉が言った。
「白灰が言った。妹は最後まで苦しまなかった。あれたちは痛みを持たない。眠るのとは違うが、苦しくはない。それを伝えろと言われた」
霙は口を押さえた。
しばらくそうしていた。それから、頭を下げた。深く下げた。
「ありがとうございます」
鴉は歩き出そうとした。
「待ってください」
霙が言った。
「これを」
布の包みを差し出した。握り飯と、干した魚と、塩が入っていた。
「いらない」
「分かっています」
霙は言った。
「分かっていますけど、渡します。捨ててくださって、けっこうです」
鴉はしばらく見ていた。
それから、受け取らなかった。手を出さなかった。
霙は包みを下ろした。悲しそうではなかった。そうすると思っていた顔だった。
「鴉さん」
「なんだ」
「名前を、消しません」
霙は紙の束を見た。
「八つ目に書いてあります。あなたの名前です。生きている人の名前を、死んだ人の中に書くのは変だと思いました。でも、消しません」
鴉は霙を見た。
何か言うかと霙は待った。
何も言わなかった。
鴉は歩き出した。
道は東へ続いている。峠のほうへ上がって、そこから見えなくなる。日はまだ低い。塔がないので、影が短かった。
三十歩ほど行ったところで、後ろから声がした。
「どこへ行かれる」
巳戸だった。列を離れて、道の途中まで来ていた。
鴉は止まった。振り返らなかった。
「次のところだ」
「次が、あるのですか」
鴉はしばらく黙っていた。
「十六ある」
そう言って、歩き出した。
巳戸は道に立っていた。三十人が、その後ろに立っていた。誰も追わなかった。
霙は紙の束を抱えて、鴉の背中を見ていた。
やがて見えなくなった。峠の手前で道が曲がっている。曲がったところで、黒いものが一度小さくなって、それから消えた。
風が来た。
白灰色の粉が、道の上を少し流れた。塔だったものが、まだ領のあちこちに残っている。しばらくは残るだろう。何年かは残るだろう。
霙は領のほうへ歩き出した。
今日はまだ、三軒回るつもりだった。




