第三十八話 二つ
膝をついたまま、鴉は動かなかった。
濃らしたものが引いていく。引いていくときは、いつも同じだった。足の先から順に、地面が遠くなる。音が戻ってくる。人の声、風の音、崩れた塊がまだ小さく崩れ続ける音。
戻ってきた音は、思ったより大きかった。
鴉は左腕を見た。
傷は開いたままだった。血は止まっている。出るものが減ったからだった。腕の中が軽い。骨だけになったような軽さだった。
指で傷に触れた。
濡れていた。触れば分かる。触覚は残っている。
鴉は指を口へ運んだ。
舐めた。
何もなかった。
鉄の味というものがあることは、覚えていた。血を舐めれば、そういうものがした。錆びたものを口に入れたような、薄くて重い味。それがあった。
いまは、何もない。
濡れているのは分かる。冷たいのも分かる。舌の上にものが乗っているのも分かる。
味がなかった。
鴉はもう一度舐めた。同じだった。
覚えているのは、味そのものではなかった。以前は味があった、という事実だけが残っている。鉄の味がどういうものだったかを思い出そうとしても、そこには何もなかった。匂いのときも同じだった。なくなったものは、なくなったということしか残さない。
立ち上がった。
足元がふらついた。血が減っている。それは味とは別のことだった。
しばらくは、まともに動けない。傷そのものは浅い。抜けた量が多かった。どれだけで足りるか分からないので、いつも多めに渡すことになる。
石の列の外に、人がいた。
数百人が立っている。誰も近づいてこない。誰も逃げてもいない。ただ立って、白灰色の山を見ている。
動く者が、少しずついた。
列の端で、女が一人その場に座り込んだ。誰も助け起こさなかった。隣の男は気づいてもいなかった。別のところで、子どもが親の袖を引いていた。親は引かれるままになって、それでも山を見ていた。
年寄りが一人、石の列を跨ごうとした。跨ぎかけて、足を戻した。三人がかりで止められたのではない。誰も止めていない。自分で戻した。跨いだ先に、もう何もないからだった。
人のいちばん後ろに、巳戸が立っていた。
石の列の、外だった。道を空けた日と同じ位置に立っている。塔がなくなっても、この男はそこから動かなかった。
声を上げる者はいなかった。
泣き声も、怒鳴り声もない。数百人がいて、それだけの人数がいれば必ず出るはずの音が、ひとつも出ていなかった。
その中に、霙がいた。
人の中に埋もれて、立っていた。こちらを見ていなかった。山を見ていた。
鴉は歩き出さなかった。
伝えることがある。頌に頼まれた。妹は最後まで苦しまなかった、というものだった。
今日ではない、と鴉は思った。理由は自分でも分からなかった。
地面に、白い粉が積もっている。塔だったものが、風に流れてここまで来ていた。鴉はしゃがんで、それを指ですくった。
口に入れた。
舌の上で、粉が溶けた。溶けるのは分かった。ざらついているのも、それがだんだん細かくなるのも分かった。
味はしなかった。
塩なのか、灰なのか、骨なのか、何なのかも分からなかった。
鴉は口の中のものを吐いた。
吐いたものが、地面の粉と混ざった。どれが吐いたものかは、すぐに分からなくなった。
三つ目だった。
痛みがなくなったとき、鴉はまだ気づいていなかった。気づいたのはずいぶんあとで、腕が折れているのに歩き続けていたときだった。
匂いがなくなったときは、すぐに分かった。焚き火の前に座っていて、煙が目に沁みるのに、匂いがしなかった。
今度は、血を舐めて分かった。
残りは三つある。触るのと、聞くのと、見るのと。
鴉は自分の手を見た。
見えている。指が五本ある。爪の形も分かる。傷の色も分かる。赤黒くなって、乾きかけている。
まだ赤い。
少し暗くなっているようにも見えた。光のせいかもしれなかった。灰の色の空の下では、何もかもが暗く見える。
鴉は手を下ろした。
昨日、頌は聞いた。いくつ残っておられますか、と。三つと答えた。
今日も三つある。減っていない。
持っていかれたのは味だった。とうに半分しか残っておらず、数に入れていなかったものだ。使えるものが減らなかったという点では、安い一体だったことになる。
鴉は残っている感覚を探った。いつもそうしてきた。あといくつあるか、次に何がなくなるかは、探れば見当がつく。
探って、分かった。
三つあって、三体ではなかった。
さっき、腕を斬りながら濃らした。あのとき持っていかれた分が、まだ請求されていない。次に聖種を殺せば、二つ持っていかれる。どれとどれかは分からない。
残るのは一つ。その一つで、もう一体。
三体だと思っていた。
二体だ。
鴉は白灰色の山を見た。
あれがひとつ。十七のうちの、ひとつ。
残り十六。
鴉が殺せるのは、あと二つ。
「二つだ」
声に出していた。
誰も聞いていなかった。数百人は、まだ山を見ていた。
鴉は自分の口が動いたことに気づいて、それきり黙った。
風が来て、白い粉が足元を流れていった。指ですくったところは、もう分からなくなっていた。
列の中で、誰かがようやく動いた。一人が帰りはじめると、その隣が動いた。誰も何も言わずに、順に領のほうへ戻っていく。
塔があった場所には、影がなかった。




