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屠神録 ―白灰の領  作者: 卓哉


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第三十七話 音が止む

 鴉(スス)は左の袖をまくった。


 鎌で斬られた傷が、まだ塞がりきっていない。霙(ミゾレ)が巻いた布は、とうに外れていた。巻かれていたところだけ、皮の色が違っている。


 刀を抜いて、その傷の上へ当てた。短く引いた。開いた。


 開いたかどうかは、出るもので分かる。手応えでは分からない。


 血が出た。赤かった。


 鴉は左腕を、頌(ショウ)の胸に押し当てた。


 頌は目を閉じたままだった。動かなかった。逃げようとも、身を引こうともしなかった。


 抜けていく。


 流れ出るのとは違った。吸われるのとも違う。鴉の中にあったものが、あるべき場所へ移っていく、そういう抜け方だった。腕から先が軽くなり、次に肩が軽くなり、胸のあたりが冷えた。


 どれだけで足りるのかは、分からない。


 合図はない。数えて分かるものでもない。これまでも同じだった。何かが変わるまで、押し当てているしかない。足りなければ死なず、足りすぎれば自分が起き上がれない。加減を教えてくれる者はいなかった。


 頌の身体が、震えた。


 小さな震えだった。寒がるときの震え方に似ていた。


 鴉は押し当てたままでいた。


 壁の音が、大きくなった。


 速く、高くなり、重なりが解けはじめた。それまで一つの厚みだったものが、ばらばらの音に割れていく。声だった。四百十一の声だった。何を言っているかは分からない。分からないまま、それぞれが違うことを言っていた。


 子どもの声があった。年寄りの声があった。ひとつだけ、歌っているような節のものがあった。


 六日前、鴉はこの音を数えようとして、四つ目で崩した。


 いまは分かれている。分かれて、数えられるようになっていた。壁の一尺左で誰かが何かを言い、しばらくしてから右下で別の誰かが答える。三百年、こうして別々にいたのだと分かる鳴り方だった。


 数えはじめる前に、頌が口を開いた。


 声は出なかった。出そうとして、出なかったのかもしれなかった。


 鴉は腕を離した。


 傷は塞がっていない。血はもう出ていなかった。出るものが減っていた。


 頌の身体が、傾いだ。


 床との境目が緩んでいた。腰から下が溶けていたあたりが、ほどけていく。ほどけながら、白灰色が薄くなった。


 手が、床から離れた。三百年、床に置かれたままだった手だった。離れて、支えるものがなくなり、そのまま下がった。


 目は開かなかった。


「──」


 頌が何か言った。


 言葉の形はしていなかった。声の形もしていなかった。それでも、何かを言った。


 それきり動かなくなった。


 音が変わった。


 声が、一つずつ消えた。


 順にではなかった。四百十一が同時に、途中で止まった。言いかけた形のまま、途切れた。


 静かになった。


 鴉は立っていた。


 六日前から、この音はずっと鳴っていた。壁に耳を当てた夜も、通路を上がったときも、頌と話していたあいだも、下で鳴りつづけていた。聞こえていることに慣れて、そのうち数えるのをやめた。


 鳴っていないと、耳の中に何もなかった。


 壁の温かさが、抜けていくのが分かった。手を当てていなくても分かった。空気が変わった。生き物の腹の中にいたものが、そうでなくなった。


 床が揺れた。


 最初は小さく、それから大きく。天井の暗いところで何かが割れる音がした。壁に線が入った。細い線が、上から下まで走って、そこから白灰色の粉が落ちてきた。


 鴉は通路へ走った。


 走りながら、壁が剥がれていった。上から落ちてくる。避けなかった。肩に当たり、背に当たった。当たったものは、思ったより軽かった。中身が抜けたものの軽さだった。


 床が押し返してこない。踏んでも沈まず、戻りもしない。壁に手をついても冷たいだけだった。ここへ入ったときとは、別の場所を走っていた。


 通路の傾きが変わっていた。


 塔が傾いでいる。


 鴉は走った。血を濃(こ)らしたままだった。まだ効いていた。地面が近く、足が軽い。それでも間に合うかどうかは分からなかった。


 裂け目が見えた。


 外の光が入っている。灰の色の朝の光だった。


 鴉は外へ出た。


 出た瞬間、後ろで大きな音がした。振り返らずに走った。十歩、二十歩、三十歩。


 石の列を越えたところで、止まった。


 振り返った。


 塔が崩れていた。


 上のほうから落ちてくる。雲に入っていた部分が、雲から出てきて、それから落ちた。白灰色の塊が、次々に地面へ落ちて、割れて、粉になった。粉は舞い上がらなかった。重く、そのまま積もった。


 腕が、まだ生えていた。


 崩れる壁のあちこちに、腕が突き出したままだった。どれも動いていなかった。手のひらを開いたまま、指を曲げたまま、そのまま落ちていった。


 鴉は壁の低いところを見た。


 朝、小さいものが出ていたあたりだった。もう分からなかった。腕はいくつも突き出していて、どれも同じ白灰色で、落ちてくるものと崩れているものが混ざっていた。


 地面が鳴りつづけた。


 領民は、誰も声を上げなかった。


 数百人が石の列の外に立って、それを見ていた。塔があった場所を見ていた。塔がなくなっていく場所を見ていた。


 最後の塊が落ちた。


 音が止んだ。


 あとには、白灰色の山があった。人の背丈の三倍か、四倍ほどの高さで、広がっている。それだけだった。三百四年、この領の中央に立っていたものが、それだけになった。


 もう、測る必要はなかった。


 風が来た。


 粉が少し流れた。


 誰も動かなかった。数百人が立ったまま、白灰色の山を見ていた。泣いている者もいなかった。まだ、何が起きたのか分かっていない顔だった。


 いちばん前にいた者が、一歩下がった。それだけだった。


 鴉は膝をついた。


 膝が地面についてから、ついたことに気づいた。


 濃らしたものが、引いていた。


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