第三十六話 短い名
通路は静かだった。
外の声は、壁の厚みに吸われて届かない。壁は温かく、いつもどおり動いていた。何も起きていないような動き方だった。
鴉は途中で一度、壁に手を当てた。
いましがた、この向こう側から数百本の腕が出た。四本ずつ、五本ずつ斬った。斬った腕は外の地面に積もっている。
内側には、何もなかった。破れた跡も、寄せ集まった気配もない。手のひらの下で、あちらとこちらが別々に動いている。初めて外から触れた夜と、変わらなかった。
鴉は手を離して、上がった。
広い場所に出ると、頌は同じところにいた。同じ姿勢で、床から生えて、目を開けていた。
「外で腕が出た」
鴉が言った。
「存じません」
「あんたの体だ」
「わたしの体ですが、わたしのものではありません」
頌の声は静かだった。
「三百年、この者たちに何かをさせたことはありません。させ方を知りません。この者たちが自分から何かをしたのも、いまが初めてです」
「止められないのか」
「止め方も知りません」
頌は目を伏せた。
「怖かったのでしょう」
鴉は動かなかった。
「わたしには、この者たちが感じるものが入ってまいります。今朝から、ずっと騒がしい。何かが来ると分かるのでしょう。分かっても、どうにもできない。それで、手を伸ばしたのだと思います」
「誰に」
「外の者にです」
頌は顔を上げた。
「家族に、でしょう」
壁の音が鳴っていた。いつもより速い。
「届いていなかった」
「はい」
頌は言った。
「届きません。三百年、一度も届いておりません」
鴉は何も言わなかった。
「娘が決めた」
鴉が言った。
頌はしばらく黙っていた。
それから、息を吐いた。息をする必要のある体なのかどうか、鴉には分からなかった。それでも、吐いた。
床に広がった白い髪が、わずかに動いた。頌の指が、床の上で二度、何かを確かめるように曲がって、それから開いた。開いたまま止まった。
壁の音は変わらなかった。四百十一は、まだ何も知らない。
「……そうですか」
長い沈黙があった。
「では、けっこうです」
「抵抗しないのか」
「いたしません」
「三百年待った」
「待ちました」
頌は言った。
「毎日、待っておりました。三百年と四年、毎日です。眠れぬ夜に何を考えていたかと申しますと、そのことばかりでした」
鴉は窪みの縁に立っていた。
「では、なぜ言わなかった」
「わたしが望んだから、では、いけませんでした」
頌の目が鴉を見た。
「わたしが望んで、それを理由に死ねば、四百十一人はわたしの都合で殺されたことになります。この者たちは、わたしに何もしておりません。差し出されて、入ってきて、それだけです。わたしが苦しいというだけの理由で、この者たちを終わらせるわけにはまいりません」
「娘が決めても、四百十一人は死ぬ」
「死にます」
「同じことだ」
「同じではありません」
頌は言い切った。この三日で、初めて言い切った。
「あの方は、中に身内をお持ちです。ご自分の身内を含めて、決められた。それはあの方の都合です。わたしの都合ではない」
頌は目を閉じた。
「三百年、わたしに残っておりましたのは、その違いだけでございました」
鴉は動かなかった。
「あんたは、それでいいのか」
「よろしいと申し上げております」
「本当か」
頌が笑ったようだった。今度は、はっきりと分かった。
「屠人。あなたは、思ったよりお優しい」
「そうじゃない」
「では、何でしょう」
鴉は答えなかった。
頌は待たなかった。
「ひとつ、お願いがございます」
「言え」
「わたしの名を、お聞きになりますか」
鴉は頌を見た。
「三百四年、誰にも申しておりません。ここへ来る前の名です。白灰と呼ばれる前の、わたしの名でございます」
「聞く」
頌は口を開いた。
声にならなかった。開いたまま、少し止まった。それから、もう一度開いた。
短い名だった。鴉が今まで聞いたことのない響きだった。この土地の言葉なのかどうかも、分からなかった。
言い終えてから、頌は自分の言ったものを聞き直すように、しばらく黙っていた。三百四年、口の形を使っていない名だった。合っているかどうかを確かめる相手も、もういない。
頌はそれきり黙った。
言ってしまうと、何かが済んだ顔になった。三百年持っていたものを、置いた顔だった。
「覚えていただかなくてもけっこうです」
頌は言った。
「申し上げたかっただけです」
「そうか」
「はい」
それきり、その話はしなかった。
「もうひとつ、よろしいですか」
「言え」
「あの方に、お伝えいただきたいことがございます」
頌は目を開けた。
「妹御は、最後まで苦しみません。この者たちは、痛みを持ちません。眠るようにとは申しません。眠りとも違いますので。ただ、苦しくはない。それだけをお伝えください」
「分かった」
「それから」
頌は少し首を傾けた。
「いえ。それだけで、けっこうです」
「言え」
「申しません」
頌は目を伏せた。
「申せば、あの方が背負われます。もう十分に背負っておられる」
鴉は窪みへ降りた。
床は柔らかかった。踏むと沈んで、離すと戻った。踏んだところの下で、何かが動いていた。壁と同じだった。ここも同じものでできている。
四百十一の上を歩いている。
頌のところまで、三歩だった。
鴉は手を伸ばした。
頌が目を閉じた。
「わたしたちは、まいります」
鴉の手が止まった。
頌は気づいていない顔だった。三百年、誰も指摘しなかったのだろう。指摘する者がいなかったのだろう。
壁の音が、変わった。
速くなっていた。四百十一が、いっせいに何かを言っていた。




