第三十五話 四百十一の手
最初に着いたのは、若い男が四人だった。
石の列を跨いで、走ってきて、鴉の前で止まった。息が上がっていた。武器はない。ここまで走ることだけを考えて来たらしかった。
「やめてください」
一人が言った。
鴉は歩き続けた。
四人は横に広がった。手を広げて、道を塞ぐ形になった。鴉はその真ん中へ入っていった。肩が当たった。一人が押し返そうとして、押し返せずに、後ろへずれた。
次が来た。
十人、二十人。石の列を越えてくる。越えながら数が増える。領のほうを見ると、道が黒くなっていた。人が埋めていた。
鴉は塔へ向かって歩いた。
三十歩。
人が前に集まった。厚みができた。押しても押しても、後ろから体が補われる。誰も殴ってこない。ただ、あいだに入ろうとする。
鴉は止まらなかった。
肩から入って、開いたところへ足を進める。腕を掴まれれば、掴まれたまま歩く。組みつかれれば、背負ったまま歩く。
二十歩。
悲鳴が上がった。
前のほうで誰かが転んだ。転んだところへ、後ろから押されてきた人が乗った。声が潰れた。周りが引き起こそうとして、その周りがまた押された。
鴉は歩き続けた。
自分が押しているのではなかった。前の者は逃げようとしている。後ろの者は塞ごうとしている。そのあいだで、人が潰れていた。
十五歩。
霙は、後ろのほうで人に掴まれていた。
誰かが腕を取って、引き戻していた。井戸の女だった。泣きながら、霙の腕を掴んでいた。
「行かせない」
と、女は言っていた。
「行かせないよ」
霙は振りほどこうとした。ほどけなかった。人が増えて、体と体のあいだに挟まれた。鴉の背中が、人の頭の向こうに見えた。遠くなっていた。
十歩。
鴉の前に、老人がいた。
五十年前に娘を出した男だった。膝をついて、両手を広げて、そこに座っていた。避ける気も、退く気もない座り方だった。
鴉は足を止めた。
一瞬だった。
止まったところへ、横から人が来た。三人がかりで鴉を倒しにかかった。倒れなかった。膝が沈んで、それから戻った。
鴉は老人の脇を通った。通るとき、老人の肩に足がかかった。老人が横へ倒れた。それだけだった。
誰かが老人を引き起こそうとして、その手も押されて届かなかった。
五歩。
壁が近い。
その壁が、動いた。
最初に気づいたのは、いちばん前にいた者たちだった。
白灰色の表面が、盛り上がった。水面が下から押されるような盛り上がり方だった。ひとつではない。壁のあちこちが、同時に膨らんだ。
そして、破れた。
腕が出てきた。
肩から先が、壁から生えていた。白灰色の腕だった。指がある。爪もある。肘の皺もある。人の腕だった。
一本ではなかった。
十本、五十本、百本。壁の高さの届くかぎり、上のほうまで、腕が生えていた。太いものも、細いものもある。皺の寄ったものも、小さいものもある。畑仕事で節の太くなった手があった。糸を扱う者の、指先の薄い手があった。
声がした。
腕といっしょに、声が出ていた。壁から出ていた。
名を呼んでいた。
何百もの声が、それぞれ違う名を呼んでいた。重なって、ほとんど言葉に聞こえなかった。だが名前だということは分かった。名前の形をしていた。
霙は聞き分けようとした。ひとつも分からなかった。
領民が動きを止めた。
三百年、この塔は動いたことがない。誰も見たことがない。何が起きているのか、誰にも分からなかった。
誰かが叫んだ。
自分の身内の名前を叫んでいた。それから別の誰かが叫んだ。答えるように叫んでいた。腕のほうへ走り出そうとする者がいた。止める者がいた。
人のあいだで、宿の主人が膝をついていた。口が動いている。何と言っているかは、音に紛れて聞こえなかった。
押し合いの向きが変わった。塔から離れようとする流れと、塔へ近づこうとする流れが、同じ場所でぶつかった。
鴉は歩いた。
腕が伸びてきた。
最初の一本が、鴉の肩を掴んだ。強い。人の力ではなかった。次が腕を掴み、次が足を掴んだ。引き込もうとしていた。
鴉は刀を抜いた。
斬った。
肩を掴んでいた腕が落ちた。地面に落ちて、指がまだ動いていた。何かを掴もうとするように、土をかいていた。
次を斬った。次も斬った。
血が出た。黒い。壁を伝って落ちて、地面に落ちたところが黒く死んだ。
腕は増えた。
斬った場所の隣から、また出てくる。減らない。
鴉は一度、手を止めた。
減らないものを相手にするなら、刀では届かない。裂け目まで、あと五歩。五歩を進むあいだ、掴まれ続ける。掴まれたまま進むには、力が足りない。
鴉は息を吐いた。
それから、体の内側で、何かを開いた。
血が濃くなる。
音が遠のいた。声も、悲鳴も、風も、遠くなった。かわりに、自分の心の臓の音だけが大きくなった。手足が軽い。地面が近い。
いくつ持っていかれるかは、あとで分かる。今日か、明日か、それとも次の一体を殺したときか。決めるのはこちらではない。
鴉は前へ出た。
腕を斬った。四本まとめて斬った。次の五本を斬った。掴まれた場所を斬り落として、引き剥がして、進んだ。斬った腕が地面に積もった。積もった腕が、まだ動いていた。
三歩。
二歩。
裂け目が見えた。
黒い。腕はそこには生えていなかった。
鴉は裂け目の前で足を止めた。
振り返った。
壁いちめんに腕が生えている。数百本。すべてが同じほうを向いていた。鴉のほうではない。領のほうを向いていた。人がいるほうへ、手を伸ばしていた。
届く距離ではなかった。誰にも届いていない。それでも伸ばしていた。
その中に、小さいものがあった。
子どもの腕だった。壁の低いところから出て、まっすぐ伸びている。ほかの腕のように掴もうとしていない。ただ、開いていた。手のひらを開いて、こちらへ向けていた。
鴉の立っている場所から、その腕は届く距離にあった。
鴉はそれを見た。
斬らなかった。
それから、裂け目へ入った。




