第三十四話 殺してください
小屋に鴉はいなかった。
藁の上に、人ひとりぶんの窪みが残っていた。荷はない。持って出たのだろう。壁の釘に下がった縄の切れ端が、風で少し揺れていた。
霙は西の道を戻り、それから塔のほうへ向かった。夜が明けかけていた。灰の色の空が、東のほうだけ薄い。
領を横切った。家はどこも戸を閉めている。まだ誰も起きていない。母も寝ている。餅の支度をして寝ている。
道の途中で、犬が吠えた。子どものころから同じ家に犬がいる。霙は足を速めなかった。速めれば、決めたことを急いでいるように思えた。
石の列の手前に、鴉は立っていた。
背を向けていた。塔を見ているのでもなく、ただ立っている。霙が近づく足音は聞こえているはずだった。振り返らなかった。
「鴉さん」
振り返った。
霙は足を止めた。
何かが違っていた。どこがとは言えなかった。
顔は同じだった。立ち方も同じだった。刀の位置も、袖の裂けたところも、巻いた布が外れかけているのも、昨日と同じだった。霙は上から下まで見て、変わったところを探して、見つけられなかった。
それでも違っていた。
昨日この人は、塔を見ていた。今日は、何も見ていない。
名を呼ばれても、なぜ来たとも、決めたのかとも聞かなかった。振り返って、そこで止まっている。待っていたのではない。ただ、そこにいた。
「決めたか」
鴉が言った。
霙は息を吸った。吸って、吐いて、それからもう一度吸った。
「殺してください」
鴉は動かなかった。
「分かった」
それだけだった。
霙は待った。何か聞かれると思っていた。理由を聞かれるか、本当にいいのかと聞かれるか、母はどうすると聞かれるか、そのどれかだと思っていた。
答えは用意してきた。夜のあいだに、順に並べた。妹のためではないこと。母のためでもないこと。誰のためでもなく、自分がいやなだけだということ。言えば軽蔑されるだろうと思いながら、それでも言うつもりでいた。
何もなかった。
「聞かないんですか」
「何を」
「理由です」
「聞かない」
鴉は塔のほうを向いた。
「あんたが決めた。それだけだ」
霙は立ち尽くした。
三日前、この人は同じ場所で、決めるのはあんただと言った。あのときは、押しつけられたと思った。この人は面倒を避けているのだと思った。
違った。
この人は本当に、決めた者の決めたとおりにする。理由を聞かないのは、興味がないからではない。理由がどうであろうと、決めたのが霙なら、そのとおりにするというだけのことだった。
それは、信じられているのとは違う。
もっと冷たくて、もっと重いものだった。
「これからどうするんですか」
「入る」
「領の人が」
「来る」
鴉は東の空を見た。薄い色が広がりはじめている。
「日が昇れば、知られる。石の列まで来るのに半刻、領じゅうに知れるのにもう半刻。三日前は百人だった。今日はそれ以上になる」
「待たないんですか。夜まで」
「待てば増える」
鴉は歩き出した。
霙は追いかけた。
「あの、わたしは」
「好きにしろ」
「行きます」
「そうか」
鴉は止まらなかった。
石の列を跨いだ。霙も跨いだ。三度目だった。一度目は走って、二度目は連れ戻されて、三度目は歩いて。
内側の土は柔らかい。二日前の足跡が、まだ残っていた。雨が降っていないので消えていない。大きいほうと、小さいほうと、二人ぶんある。小さいほうは自分の足跡だった。
霙はその上を踏まないように歩いた。なぜそうしたのかは、自分でも分からなかった。
塔が近づいてくる。
白い壁が、空を切り取っている。上のほうは薄暗くて、どこで終わっているのか、朝の光の中でも見えなかった。
「ひとつ聞いてもいいですか」
「言え」
「昨日、お灰さまに会いましたよね」
「会った」
「何を聞いたんですか」
鴉は歩き続けた。
答えないのだろうと、霙は思った。この人はいつもそうだった。答えないことのほうが多かった。
「聖種の数を聞いた」
鴉が言った。
霙は驚いて、鴉の横顔を見た。
「何体いるって」
「十七だ」
「十七」
「知られているのが十七だ」
鴉はそれだけ言った。
霙は歩きながら考えた。十七。この人は三体しか殺せない。三つしか残っていないから。
十七のうち、三つ。
十四残る。その十四は、誰かが殺すのだろうか。誰も殺さないのだろうか。誰も殺さなければ、十四の領で、毎年一人ずつ人が入っていく。一年で十四人。十年で百四十人。
霙は、そこから先を数えるのをやめた。
「終わらないじゃないですか」
鴉は答えなかった。
「終わらないですよね。三つしか残っていないのに、十七いるなら」
鴉は歩き続けた。
塔の壁まで、あと五十歩ほどだった。
霙はそれ以上聞かなかった。聞いてはいけないような気がした。
昨日、この人は塔を見ていた。今日は見ていない。理由が分かった気がして、分かりたくなかった。
背後で、声がした。
振り返ると、石の列の向こう、領のほうから人が走ってくるのが見えた。まだ遠い。三人か、四人。誰かが叫んでいる。人を呼んでいる声だった。
「来た」
鴉が言った。
東の空が明るくなっていた。
塔の影が、まだ長い。領の家々の上を覆って、その影の中から人が走り出てくる。走りながら、増えていく。




