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屠神録 ―白灰の領  作者: 卓哉


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第三十三話 わたしのために

 霙(ミゾレ)は家に入った。


 母は夕餉を出した。二人ぶんあった。汁と、麦と、干した菜。いつもと同じものだった。


 霙は食べた。味は分かった。残さず食べた。母が見ていたので、残せなかった。


「どこへ行ってたんだい」


「歩いていました」


「そう」


 母はそれ以上聞かなかった。母は昔から、聞かない人だった。この領の人は、みんなそうだった。


 寝る前に、母が言った。


「明日は餅を搗こうかね」


「餅」


「あんたが帰ってきたから」


 母は嬉しそうだった。


「隣にも持っていこう。ばあさまは餅が好きだからね。向かいのお宅にもね、去年いただいたきりになってるから」


 母は指を折った。


「四軒、いや五軒かね。搗くならそのくらいはできるよ」


 霙は麦を口に入れた。噛んだ。飲み込んだ。


 臼を出しておこうか、と言って、母は土間へ下りた。しばらく物を動かす音がしていた。使うのは久しぶりなのだろう。何かをどけて、また何かをどけて、それから戻ってきた。


「明日、洗っておくよ」


 霙は横になった。母はすぐに寝息を立てはじめた。この十日、眠れていなかったのだろう。


 霙は起きていた。


 板戸が風で細かく鳴っている。土間のほうで、時々何かが小さく音を立てた。臼が据わりきっていないのだろう。夜のあいだじゅう、それが鳴っていた。


 考えることは、もう決まっていた。何度も考えた。歩きながら考えて、井戸のところで考えて、代官さまと別れてからも考えた。同じところを回っていた。


 殺せば、四百十一人が終わる。


 殺さなければ、四百十一人が薄れる。そのあいだに、五百人になり、六百人になる。


 どちらでも、霰(アラレ)は霰でなくなる。


 違いは、速さだけだ。


 霙は天井を見ていた。梁の節は、暗くて見えなかった。


 それなら、殺さないほうがいいはずだった。少なくとも、いま殺せば四百十一人が今日死ぬ。殺さなければ、まだ何十年か、何かは続く。宿の主人は年に一度、声を聞ける。井戸の人の夫は、毎年泣ける。母は、いつか呼ばれて、向こうで会えると思ったまま死ねる。


 みんな、そのほうがいい。


 六十軒、全部そうだ。


 宿の主人は、来年の日にまた息子の声を聞く。名を忘れていても、おりますと言った人だ。隣のばあさまは、楸(ひさぎ)の丈が高かった話をまたする。井戸の若い人の夫は、来年も泣く。会ったことのない母親の声で泣く。


 殺せば、その全部がなくなる。声も、日も、順番も。


 わたしだけが違う。


 霙は寝返りを打った。


 三つ目の寝床が、暗い中で白く見えた。母はまだ片付けていない。片付ける気がない。あの子が帰ってこないことを知っているのに、片付けない。帰ってこないのに、いるからだ。


 あれは、いるのだろうか。


 名前を忘れて、母の髪を長いと思って、姉が二人いると思っているものが、霰なのだろうか。


 霙は霰の顔を思い出そうとした。


 出てきたのは、白い着物の袖だった。次に、川原の石。次に、袖を鳴らして笑っている口元。目のところが出てこない。十日前まで毎日見ていた顔だった。


 あの日、石の数を数えておけばよかったと思う。何個並べていたのか、いまも分からない。


 あと十年経てば、何も残らない。百年経てば、名前もない。三百年経てば、二百七十六番目、というだけになる。番号だけになる。


 それでも、いる。


 この領の人は、それでいいと言う。


 わたしは、いやだ。


 霙は目を閉じた。


 いやだ、というのが答えだった。


 それ以上のものは、探しても出てこなかった。妹のためでもない。霰は苦しんでいない。苦しくないと言った。楽しいとまで言った。あの子のために終わらせるのではない。あの子は終わらせてほしいと思っていない。


 母のためでもない。母は望んでいない。母から取り上げることになる。


 領のためでもない。領は何も望んでいない。三百年、このままでよかった。これから先もこのままでいい。


 誰のためでもない。


 わたしが、いやなのだ。


 妹が誰かと混ざって、名前をなくして、番号になっていくのを、知りながら生きていくのがいやなのだ。それだけだ。


 霙は目を開けた。


 それだけのために、四百十一人を殺す。


 六十軒の家から、身内を取り上げる。宿の主人から、井戸の人の夫から、ばあさまから、五十年前に娘を出した老人から、みんなから取り上げる。母からも取り上げる。


 わたしの都合で。


 霙は起き上がった。


 膝を抱えて、しばらくそうしていた。涙は出なかった。もう出尽くしたのかもしれなかったし、そういう種類のことではないのかもしれなかった。


 懐から紙を出した。


 暗くて字は見えない。それでも、どこに何が書いてあるかは分かっていた。八つの名前。その下の、白いところ。


 霰。楸。三年前の人。四軒目の家の、祖母の弟。名前の分からない三つ。そして鴉(スス)。


 八つで、四百十一のうちの八つだった。


 四百三、足りない。


 霙は紙を戻した。


 夜明け前に、外へ出た。


 母は起きなかった。よく眠っていた。餅を搗こうかね、と言った顔のまま眠っていた。


 土間に臼が出してあった。埃を払った跡がある。明日、洗うつもりだったのだろう。


 持っていくものはなかった。紙は懐に入れたままだった。前に出たときは、紙と上着を取るのに手間取った。今度は取るものがない。


 霙は草履を履いた。今度は手間取らなかった。


 外は暗い。塔の位置は分かる。


 戸に手をかけた。


 母は、戸は開けておくと言った。あの日もそう言った。いつでも帰っておいでと言った。


 霙は戸を閉めた。


 音を立てないように、ゆっくり閉めた。閉まりきるまで手を離さなかった。


 それから、歩き出した。


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