第三十二話 一人だけ
三日目の朝、霙は歩いた。
行くあてを決めていたわけではない。ただ、家にいると母が話しかけてくる。霰のことを話す。嬉しそうに話す。それに頷いていると、自分が何を決めようとしているのか分からなくなった。
最初に宿へ行った。
主人は表を掃いていた。霙を見て、箒を止めた。
「あの方は」
「塔にいます」
「そうですか」
主人は箒を持ち直した。掃く手つきが乱れていた。
「一昨日、中へお入りになったと聞きました。お嬢さんも」
「はい」
「妹さんに」
「会いました」
主人の顔が動いた。羨ましそうな顔だった。
「話されたのですか」
「話しました」
「……そうですか」
主人は箒を置いた。
「うちのは、声だけです。年に一度、あの日だけ。何を言っているかは分かりません」
霙は言おうか迷った。迷ってから、言った。
「あの、息子さんは」
「はい」
「名前を、忘れているかもしれません」
主人の手が止まった。
「霰は、自分の名前を忘れていました。母の顔も違っていました。中には四百十一人いて、みんなの覚えていることが混ざるんだそうです。十日でそうなりました。息子さんは、一年です」
霙は言い切った。言ってしまってから、心臓が鳴った。
主人はしばらく黙っていた。
それから、言った。
「それでも、おります」
霙は動けなかった。
「名を忘れておっても、おります。おらんよりは、ずっとよろしい」
主人は箒を取った。掃きはじめた。手つきは、もう乱れていなかった。
「教えてくださって、ありがとうございます」
霙はそこを離れた。
十歩ほど歩いてから、振り返った。主人はまだ掃いていた。同じところを、何度も掃いていた。
隣家のばあさまのところへ行った。豆を選っていた。
同じことを言った。
ばあさまは手を止めなかった。
「楸は、丈が高くてね」
それだけ言った。
「着物の裾が足りなくて、継ぎ足したんですよ。あれは背が高かったから」
霙が黙っていると、ばあさまは顔を上げた。
「それが、どうかしましたか」
昼になった。
霙は井戸のところへ行った。女が三人いた。霙を見て、話をやめた。それから、やめたことを取り繕うように、また話しはじめた。
霙は水を汲まなかった。ただ立っていた。
「あの」
と、霙は言った。
三人が振り向いた。
「もし、お灰さまがいなくなったら、どうなりますか」
沈黙があった。
いちばん年上の女が、桶を置いた。
「そんなことを言うものではありませんよ」
「もしもの話です」
「もしもでも、言うものではありません」
女は霙を見ていた。怒っている目ではなかった。悪いものを見る目だった。
「うちの人の母親が、あそこにおります」
と、若いほうの女が言った。
「わたしは会ったことがありません。でも、うちの人は毎年、あの日に泣きます。声が聞こえたと言って。それを取り上げるようなことは、言わないでください」
霙は頭を下げた。
三人はもう霙を見なかった。桶を上げて、水をこぼして、それを拭いもせずに帰っていった。
夕方まで、四軒回った。
どこでも同じだった。名前を忘れているかもしれないと言うと、驚く人はいた。悲しむ人もいた。それでも、最後は同じことを言った。
それでも、おります。
いなくなるよりは、ずっとよろしい。
役所の前を通ったとき、巳戸が出てきた。
霙を見て、足を止めた。
「代官さま」
「はい」
「わたしは、明日、決めなければなりません」
巳戸は何も言わなかった。
「殺すか、殺さないかです。あの人は、わたしが決めろと言いました。お灰さまも、そう言いました」
巳戸は道の先を見ていた。塔が見えるほうだった。
「わたくしには、申し上げることがありません」
「何もですか」
「何も」
巳戸は言った。
「三十年、わたくしは何もしませんでした。燃やしただけです。燃やすというのは、決めないということです。決めない者に、決める方へ申し上げることはありません」
「もし、代官さまが決める立場だったら」
霙は言った。
巳戸の顔が、少し動いた。
「……燃やすでしょう」
そう言って、少し頭を下げて、行ってしまった。
日が落ちた。
霙は、家の前まで来て、入らなかった。
戸の隙間から明かりが漏れている。母がいる。夕餉を作っている。二人ぶん作っている。
霙は塔を見た。屋根の向こうに、白いものが立っている。子どものころから、この家からはそう見えた。
この領に、六十軒ある。
四百十一人が中にいる。
そのうちの誰か一人でも、返してほしいと思っている人が、この領にいるだろうか。
いない。
母もそう思っていない。母は、いつか自分も呼ばれると思っている。呼ばれて、向こうで会えると思っている。
わたしだけだ、と霙は思った。
妹を返してほしいと思っているのは、この領で、わたし一人だけだ。




