曇りガラスを肉球で拭いて
ポッケと二人でご飯を食べてから、 ーームカデを丸ごと食べるポッケのことは出来るだけ見ないようにしたーー 満腹になって落ち着いたところで、改めて自己紹介をする。
彼の名前は言わずもがな、ポッケだった。姓は無いらしい。
ポッケは、誰かに送る手紙を代筆したり、文字の読めない人に代わって、街の外から届いた手紙を読んであげたりする仕事をしているのだそうだ。
「この街は識字率がそんなに高くないの?」
「ううん、文字の流通に関しては、別に低いわけじゃないんだぁ。
小さな子ども達が通う学校もあるから、例えば『お水』とか、『危ない』とか、生活に必要なちょっとした文字なら、誰でも読めるよ」
「そうなんだ」
「うん!でも、難しい文字も完璧に読めちゃうような人は、お城で働けるくらいの、ちゃんとした教育を受けてきた、とっても偉い人じゃないと難しいんじゃないかなぁ。
ちなみにボクは、ちょっと前に少しだけ王都で働いていたことがあるから、皆よりは難しい文字も読めるし書けるってだけなんだ」
王都!王都なんてものがあるのか。うおー!少し行ってみたいなぁ…………おい待て。
色々なことがありすぎて若干、いや随分と頭の感覚が麻痺していたが、私は別に、異世界の文献を広めにきたわけじゃないのだ!とにかく日本に帰りたいのだった!
それがすっかり頭から抜けている、そんな自分が怖いです。
もう血みどろになって泣きながら失神するのは嫌だった。母に会いたい、物凄く会いたい。とにかくここは一体どこだ。いやまあ、異世界なのだろうが。
それでも、もしかしたら、と考える。
もしかしたらここは妖精の街で、普段は人間の目には映らないけれども、実は日本のすぐ近くにあるのかもしれない。あるのかもしれないじゃないか、そういうアレも!
「それで、君の名前は?」
ポッケが首を傾げて聞いてくる。私は緊張の面持ちで、はっきりと答えた。
「私は水嶋夏子。……日本から、来たんだ」
「どこから来たって?ニィーン?」
「……いや、日本。ニッポンだよ。ジャパーン!!」
「……ニホ……コポン?…ジャペァ〜?」
だめだ!やっぱりここは異世界だった!!
私は物凄い音を立てながら机に頭を打ちつけた。
「……ようするに、ニホンジンである君、ナツは、ニホンという遠い国から来たけれど、いつの間にやらこのナベル大陸にいた。家で寝ていたはずなのに、周りは大草原だった。
しかも、ニホンへの帰り方が全く分からないし、手持ちの荷物も何もない。……そういうこと?」
「うん。そういうことに、なる」
頷く私を見て、うぅ〜ん、とポッケは唸った。
いや、これは彼が唸るのも仕方がない。彼の要約を聞いていて、私自身も思ったが、私ったら不審者以外の何者でもないじゃないか!!
ちなみにナベル大陸とは、最初に見た大草原や、若干トラウマになりかけているあの深い森、そしてコボルトの街がある、この大陸のことらしい。
そして、「遠い国のニホン」から来たのではなく「別世界のニホン」から来たのだと力説したのだが、ポッケは最後の最後まで華麗にスルーしてくれた。
……ちょっと、頭の状態を心配された気がしないでもない。
私の名前に関しては、どう説明しても水島が「ミズティーマン」、夏子が「ナツキョン」になったので、もう好きに呼んでくださって大丈夫ですと伝えたら「ナツ」になった。
ポッケは数分の間、考え込むように右手で自分の髭を触ってから、慎重に口を開く。
「……うーん。考えられる可能性としては、人攫いなんだよねぇ。……本当はニホンという国までボクが送ってあげたいけれど、でも、そんな国は聞いたことがないんだ。
役に立てなくて、ごめんね?」
ポッケが辛そうに顔を歪めたので、慌てて私は頭を振った。
「ちょっ……私の方こそたくさん迷惑をかけて申し訳ないと思ってるんだ、本当に!だから謝らないでほしい。
それに、だってこんなの、自分で言うのもあれだけど、不審者以外の何者でもないよなぁ……」
彼が辛い顔をする必要はないのだ。
むしろ、訳のわからないであろう私の説明を、彼が必死に受け入れようとしてくれているのをひしひしと感じて、こちらの胸が痛む。
そのまま俯く私の頭を、ポッケは苦笑しながら柔らかい肉球で撫でてくれた。
「ナツ、どうか落ち込まないで。
この街はね、ナベル大陸の中でも端っこに位置する街だから、誰に聞いてもニホンという国を知らないだろうけど……。
とにかく、事情はわかった。今日は、ボクの家でゆっくり休むといいよ」
私は驚きのあまり、思わず顔を上げる。
こいつ今までの話をちゃんと聞いてたのか?と物凄く失礼なことを考えてしまった。
だって、紛うことなく私の経歴は怪しいのだ。私が彼に言っていることは、普通であれば頭おかしいわコイツという、関わったらアカンレベルの人間であるはずなのだ。正直、今日も野宿をせねばと考えていた。
それに、ポッケは王都で働いていた事があると言う。だからこそ難しい文字も多少は読めるのだと。ということは、ある程度は知識も豊富なはずだ。
ニホンという国が、本当に世界に存在するのかしないのか、彼は知っているのではないのだろうか?知っていて、それでも、不審者である私を自分の家に迎え入れようとしてくれているのだろうか?
……そんな私の考えを見越しているかように、ポッケは再び、ホニャリと笑って見せた。
「あのね。ごめんなさいとありがとうを、頭を下げてまで言ってくれる人のことを、ボクは信じたいなぁって、そう思うんだ」
その服も、洗うといいさ。
乾くまでは、ボクの服を貸すから。
ポッケの柔らかい肉球が、私の目尻を撫でていく。どうやら私は泣いていたらしい。
喉が痛いくらいに締まる。さて、私はこんなにも涙脆かっただろうか。
この世界に来てから、初めて天に感謝した。見も知らぬ天を相手に、ポッケと出会わせてくれてありがとう、と心から祈った。
ポッケ。こんな私と出会ってくれて、ありがとう。迷惑ばかりかけてごめん。こんなにもイケメンで優しいキツネは、きっとどこの世界にもいない。
「……ありがとう。ポッケは優しいな」
後はもう、頑張って涙をこらえることしか出来なかった。
……しかし、ポッケの服は、私にはちょっと小さすぎると思うのだが、それでも貸してくれるというのか。
裸族にだけはなりたくないなと、ちょっとだけ、密かに思った。




