ひとりさまよい 傷ついた
夏子さん悲惨回です。
私がまだ高校生の時、体育の授業でグラウンドを走り続けなければならないという過酷なものがあったが、そのとき私はそれをあまり苦には感じなかった。
きっと、平均よりは体力のあるほうなのだと思う。しかし、それも水や食料があってこその話だ。
「腹減った……」
水分補給に関しては、先ほど歩いていった先に綺麗な小川があったので、ひとまず安心していいと思う。
小川を発見した時にはすでに空腹で、喉も腹も悲鳴を上げていたので、水中に潜む雑菌やら何やらを考える以前に、喜びあまって腹が膨れるほど飲んだ。
多少落ち着いてからはそのまま小川沿いを歩いていたが、滝のようになっている崖の壁にぶつかってしまい、その次は崖沿いに歩いた。
水を入れる容器がないため、ポケットに入れたままだったハンドタオルを小川の水で湿らせ、定期的にタオルを咥えてそこから水分を摂取する。
お手洗い事情に関しては秘匿させていただこう。
突然のサバイバルだ、自宅で寝ていたのに。こんなの絶対おかしいよ。
「ッ痛っ!」
パキリ、と弾ける音がした。
どうやら私の右足が地面に落ちていた小枝を踏み抜いたらしい。慌てて崖に背中を預け、足の裏を確認する。
もとの肌色はどこへ消えたと言わんばかりに、土と枯れ草で汚れた足裏から、赤く濁ったものが湧いて出た。
大丈夫、傷は浅いぞ!……と言いたかったが、結構深く突き刺してしまったらしい。ものすごく痛い。
私は静かに、自分の足から滴る血を見つめる。鈍く続く痛みと血の赤に誘われたのか、それからふと不安になった。
もし、このまま……このまま何の目印もなく森を彷徨い、歩いていて、私は本当に誰かと出会えるのだろうか。
もしかしたら、このままずっと一人ぼっちで、誰かに看取られることもなく、いずれは飢えて死んでしまうのではないだろうか。
「ああ、もうやだ……」
たくさんたくさん歩いた。疲労もピークだ。
どうしてこう、うまくいかないんだ。
「死にたくないなぁ……」
思わず呟いた瞬間、喉がきゅっと絞まって苦しくなった。慌てて目を閉じて、その痛みをどうにか心に押し込める。
どれほどの時間、そうしていたのだろうか。
ふと見上げると、あたりは既に真っ暗になっていた。
いよいよ私は夜に飲み込まれるのかと思うと、指先が勝手に震えた。
強い風に周囲の木々が揺れる。どこからか、獣くさい臭いが漂ってくる。
どんな臭いか例えて言うならば、私の実家で飼われている大型犬 ──ゴールデンレトリバーという犬種だ。で、名前はラブラドール。通称ラブ。可愛いだろ。オスだけど── が、公園の泥遊びから帰ってきた時のような、ツンとした異臭。
よかった、私と昆虫以外の生き物もキチンといるんだ、と少しだけ気が抜けたのも束の間。
突如、左の方から響く、掠れた唸り声。
(そんな予感はしていたけども……!)
その声を皮切りに、まるで私を追い詰めるかのごとく四方八方から唸り声が聞こえた。
一匹二匹ではない、四匹は居そうだ。多分、野犬だろう。血の臭いに寄ってきたのか。
私は水に濡れているハンドタオルを優しく右足の怪我にあてがい、足に付着した自分の血を、そのタオルに染み込ませるよう拭った。
既に出血は止まっている。痛みは酷いが、まだ走れそうだ。
「……ごはんですよっ!」
私は某海苔の商品名を小さく叫んで左手を振り上げた。そのまま、その手に持っていたハンドタオルを少し離れた地面に投げる。
ベチャッという音に反応して、途端に六つの影が現れた。四匹どころか六匹もいたのかと思うと鳥肌が立った。
その六つの影は、狂喜を含んだ唸り声を上げながらハンドタオルに襲いかかり、我先にと血の染みたそれを食い千切っていく。
私は最後まで見ることなく、布団を放置したまま右手の方向に向かって全身全霊をかけて走り出した。
しかし、しかしなんだ、あの動物は!
野犬だと思っていたが、違ったらしい。どちらかというとイノシシに似た風体のように見えたが、イノシシは肉食だっただろうか。
「ッ……!!」
じくじくと右足が痛む。それでも、右手側に崖があることを意識しつつ無我夢中で駆けた。今は暗闇に慣れてきた目と自分の勘だけが頼りだ。
しばらくすると、食い千切ったものが肉ではないと気付いたのだろう先ほどのイノシシ達が、激しい唸り声を上げながら追いかけてくる音が聞こえた。
やはり、無謀だったのだろうか。逃げるなんて。
まだ距離はある。急いで木に登ろう、もしイノシシであれば木の上までは来れまい。
と、上を見上げたのがいけなかった。
不注意だった。極度の疲労で感覚が麻痺しはじめていた左足が木の根に引っかかり、前のめりになった体を支えようと咄嗟に踏み出した右足。
「ぐあッ!」
全体重がかかったそれを地につけた瞬間、体を貫くような痛みが全身に走った。
痙攣した体が地面に叩きつけられる。全身に鈍痛が走るが、それでも両腕に力を入れて立ち上がる。
先ほど木の根に引っかけて、まだ少しだけ痛みを訴える左足を勢いよく踏み出す。次に右足を無理やり前に出すと、再びその足先から、全身が爆発するような痛みを感じた。
また耐え切れず、地面に転がる。
……ああもう。うまくいかない。
たくさんたくさん歩いた。
疲労もピークだ。
どうしてこう、うまくいかない。
「……死に、たくないんだよ……っ」
歯を食いしばって立ち上がる。ガクガクと震える右足を、叱るように殴った。
まだ。まだ、走れるはずだ、私は。
痛い。身体が燃えるように痛い、痛い。
怖い。怖い。死にたくない。
私は、我を忘れて叫んだ。
「まだ、死にたくないーーー……!!」
ただ、現実は非情なもので。
真後ろから聞こえた唸り声と、鋭い痛みを左肩に感じた瞬間、私は暗闇のなか、いつの間にか目前まで迫っていたらしい急斜面の崖に、その身を投げ落としていた。




