君の肩に悲しみが
先ほど目を覚ましました。ごきげんよう、夏子です。
どうやらまだ、私は森の中にいます。どれほどの時間、気絶していたのでしょうか。周囲がうっすらと明るいので、そろそろ夜明けかもしれません。
相変わらず孤独です。
「……いてぇよぉ……」
そうだ、そうだった、崖から落ちたんだ。
私はうつ伏せの状態で地面に倒れているらしい。神よ、こんな最悪な寝起きを望んだ覚えはないぞ!
鉛でも飲み込んだのかと思うほど全身が重い。自分の状態と周囲の状況を確認したくて、両腕に力を入れて立ち上がろうとしたが、左肩に走った鈍痛のせいで体が跳ねた。
再び顔面から突っ伏する。ちくしょう。
失神したくなるほどの痛みに全身が震えるが、しかしなぜか体は軽くなった。
ふと左隣を見ると、先ほどまでは何もなかったように見えた場所に、青い体毛のイノシシが転がっていた。
どうやら私の上に、こいつが乗りかかっていたらしい。だから体が重かったのか。
「というか、でかいなお前……」
こいつ、大型犬よりも確実に大きい。頑張って成長しすぎだ。
しかも体毛が青色ってどういうことだよ。突然変異にも程があるだろ!
その青色イノシシは私の上から落ちても、全く動く気配がなかった。
多分、お前はもう死んでいる。
「……次は私かもしれないけどな」
フヘヘッと笑いたかったが、きゅっと喉が絞まったので慌てて深呼吸をする。
それから息を大きく吸って、ぐっと止めて気合を入れた。全身に響く鈍痛に耐えつつ、私は両腕だけで上半身を起こした。
たったそれだけのことなのに恐ろしく息が上がる。どっと汗が吹き出た。
とりあえず、まずは自分の状態を確認しよう。
あの青色イノシシの置き土産だろうか、左肩には何かに噛まれたような歯型があった。
憶測だが、噛み付かれた勢いで私の体が押されてそのまま一緒に崖から落ちたのだと思う。
しかしなんとまあ。私は崖に向かって全力疾走していたのか。この勘は全く当てにならないらしい。
落下している時もイノシシは私の肩を噛み続けていたようで、着ていたスーツとワイシャツが胸の上まで大きく破けていて、ちょっとだけセクシーなことになっていた。
ブラ紐チラ見せというやつだ。まあ、今のところ私のまわりにそのチラ見せを喜んでくれる人間はいない。見渡す限り、全くだ。
というかよくよく見てみると、気持ちが悪いほど全身が血まみれだった。今の今まで、よく獣に襲われずに気絶できていたなと思う。奇跡に近い。
まず、最初に目に入ったのは両手。崖から突き落とされた時に無意識に頭を庇っていたのか、触ってみた限り顔には怪我がなく、その代わりに両手は擦り傷と切り傷だらけになっていた。
次に両膝、こちらも擦り傷と切り傷で見るも無残、ストッキングはもはやワカメである。
これなら、いっそのこと脱いだ方がワカメに足を取られることもなく安全だろう。
「ッギ、……~~ッ!」
ストッキングを脱ぐために足を動かそうとして、ほんの少し力を入れた右足に、耐え難い激痛が走った。
やはり一番、右足が重傷である。痛覚以外の感覚が右足に存在しないような、もはや自分の意思で動かせる気がしなかった。
「これじゃあ……歩けないな……」
俯いたまま呟いた独り言は、誰に聞かれることもなく、静かに世界から消えていく。
……深呼吸しよう。
しかし昨日は半端ないほど血が出たな。リアルでは出したことのない量の血だよ、あれは。
なんだかお腹も痛いな。小川の水が原因だろうか。でも、もう全部どうでもいいか。そろそろ私は死ぬ。
このまま誰に見つかることなく死ぬ。
青いイノシシさんのご飯にされて死ぬ。
脳裏に浮かぶハンドタオルの末路が、私に重なった。
「……ああ、……っちくしょう……」
体が痛くて、心も痛くて。
その痛みは長い夜の間、雪のように私に降り積もっていたらしい。
今まで深呼吸をしながら誤魔化して、無理やりに耐えていた嗚咽が、ついに零れた。
死にたくないのに。まだ死にたくないのに。
……私は幸か不幸か、「何が何でもこの世に生きていたい」なんて思うような人生を送ってはこなかった。
しがない借家の母子家庭で、家計はいつも火の車。生きたいよりも死にたいと思った回数のほうが圧倒的に多いはずだった。
ふと、一番最初に浮かんだ顔は、母だ。
風邪をひいた時、リンゴを薄切りにして食べさせてくれた母の姿が浮かんだ。
私が勝手なことを言うから喧嘩になって、それでも正直にあやまることができなくて、そんな私に晩ご飯を用意して、笑いかけてくれた母の姿が浮かんだ。
第一志望校に落ちて、ごめんなさいと泣きじゃくる私を、気にするなと笑顔で抱きしめてくれた。
私の一人暮らしを心配して、毎月毎月手書きの手紙を書いて送ってくれた。
大丈夫か。
病気してないか。
友達と仲良くやってるか。
恋人はできたか。
……自分を、大切にしているか。
つらくなったら、帰っておいで。
そんなことばかりが書かれていた。
……ああ、帰りたい。母の笑い皺や、背中や、手に触れたい。帰りたい。
まだ、親孝行だって、何もできていない。
母の笑顔の後には、しょうもないことばかりが浮かんだ。
一生に一回は海外旅行してみたかったな。そういえば先週友達に貸してもらったCD、まだ返せていない。
来月発売する連続小説、どういうラストを迎えるんだろう。知りたかったな。
……立派な恋愛も、できなかったな。
私が思っていた以上に、まだまだ生きて、やりたいことが、たくさんある。
死にたいと思った回数は少なくない。
しかし、それは私なりの、精一杯の強がりだったのだと、死にそうになってから気付く。
今の私の、なんと滑稽なことだろう。
まともに呼吸ができていない気がした。まだ生きたいと心が暴れているのか、次から次へと涙が零れた。
さらばだ二十四年の人生よ。お母さん、本当にごめんなさい。
私はまともな人生さえ送れない、まともな恋愛さえできない娘でした。
……願わくば来世で、素敵な恋愛ができますように。
ぼやけ始めた視界が、青く染まっていく。
どこからか、すまない、という声が聞こえた気がした。こいつが神様だろうか。
あのなぁ、あやまるくらいなら、最初からこんなことさせんなよ。頼むから。
「……腹、減った……」
私は最後に、痛みではなく空腹を感じながら目を閉じた。
……… ……… ……… ……… ………
突然、静かに泣き始めた女性を見て、物陰に隠れていた男は思わず両の拳を握る。
自分は、いつまでこうしてここに立っているつもりなのだろう。
青碧色のフード付きロングコートが、風に吹かれてふわりと揺れた。
ほんの、出来心だったのだ。
召喚魔術の回路解剖が進み、その実用化も間近だと思われていた。連日、巷の掲示板に吉報として取り上げられるほど、民間からの期待も大きかった。
己の慢心が生んだ結果だった。絶対に成功すると信じて疑わなかった。そして思っていた通り、召喚魔術は成功したのだ。
しかし、その対象は目前に現れなかった。
召喚者は、自分の召喚した対象物の居場所が分かる。
無機物を召喚したと思っていたが、数時間前から意思を持ったように動き始めた対象に、男は慌てて王城から飛び出し、禁術である瞬間移動まで乱用して、この辺境の地まで駆けつけた。
そして見つけた、今は気絶したかのように眠る女性。
見る限り、満身創痍だ。
返還魔術など全く考えていなかった。無機物のものしか召喚できないと思っていた。
だが今回、もし何らかの獣が召喚されてしまったのであれば、生態系に問題を起こされる前に我が家で飼おうと、そう考えていた。本当に、軽い気持ちで。
まさか、人間を召喚してしまうなんて。
「私のせいだ」
このまま孤独に彼女が死んでしまえば、この男の罪は明るみに出ないだろう。男自身も、それを理解していた。
枯れ草の絨毯を踏みしめながら、彼女のもとへと静かに近寄っていく。
不思議な服を着ている彼女は汚れていたが、その黒髪は美しく、しばらく男の目を奪う。
衰弱して疲れ切った顔は青白い。そのせいか、黒色の秀麗な眉目がよく目立った。
『まだ、死にたくないーーー……!!』
突如として彼女が目前にあった崖から降ってくる、そのほんの少し前に聞こえた、耳を引きちぎりたくなるほど痛烈な絶叫が、男の脳裏に際限なく反響する。
「すまない。本当に、すまない」
男は、せめてこれだけはと、彼女の怪我をひとつひとつ、治癒魔術を使って治していった。右足と左肩は既に膿んでいたが、その膿も綺麗に取り除く。
本当は、怪我の治療などするつもりはなかった。しかし、きっとこのままでは、怪我があってもなくても変わらず、彼女は飢餓で死ぬだろう、ということも分っていた。
激痛に唸る彼女の姿は、彼女の死を望んでいるはずの男の心でさえ、酷く苛んだ。
「……はら……へ……た……」
自分の怪我が治癒されたことを見越したかのように彼女が呟く。
起こしてしまったかと、全身が思わず硬直したが、それ以降、彼女は弱々しい呼吸を繰り返すだけで少しも動く気配がない。固まった全身から、ほっと力を抜く。
最後に再びすまないと呟き、彼女の柔らかな頬を撫でてから、男は静かに立ち上がった。
風に吹かれたフードが勝手に肩までずり落ちて、彼女を見つめるその悲しげな表情を露わにさせる。
どうせ彼女は死んでしまう。
その男の髪は、美しい銀色をしていた。
第一異世界人と会える会える詐欺をしてしまいました。
これは会えたというより某ゲーム機のすれ違い通信みたいなレベルです。
すみません。夏子さん大爆睡。
次回、夏子異世界交流の巻。




