あの日が胸によみがえる
そこから私は早かった。
勢いよく椅子に座ってカーナウを腹に詰め込み、「ごちそうさまでした」と叫んでから唖然としているポッケを引っ掴む。
「なっ、ナツ!?」
「ちょ、おい! 待ちやがれ!」
ポッケもサワスを食べ終わっていたようだし強制連行しても大丈夫だろう。フルオープン男の制止を振り切り、私は一気に階段を駆け上がった。
そのまま自分の部屋に飛び込み錠を掛けて、物凄い音をたてながら床に突っ伏する。
なぜこんなにも必死に逃げてしまったのか。男女がラブラブしている光景を思い出したから?あの時、なぜこちらを見ていたのか問い質されるのが嫌だったから?
「ナツどうしたの突然!? あの人、ナツの知り合いなの!?」
「っううん、違う」
「なら、どうして逃げるのっ?」
「昔、仲の良かった人と、似てるんだ」
そうだ。彼氏を思い出すから。だから逃げてしまったのかもしれない。
……って、おい待て! 何を逃げることがある。ただの古傷だ、何も怯えることなんてないではないか!
やはりあれだ、なぜ見ていたのか問い質されるのが嫌で逃げたのだ。そういうことにしておこう。
ただ、とりあえず赤髪のあいつは苦手である。「待ちやがれ」とは何様のつもりなのだ。礼儀のなっていない人は好かない。……いや、まあ、口の悪さに関しては私も人に言えないが。とにかく色々と苦手な理由を並べ立てておこう。
「それより、なんで怒らないんだよ! あんなひどいこと言われて!」
そう、私のことはどうでも良いのだ。問題はポッケである。
あんなにひどいことを言われて、悔しくない訳がないだろう。それなのに、なぜ言い返さないのか。
ポッケは、苦笑しながら理由を教えてくれた。
「だって、あの男の人と一緒に、ナツは旅をすることになるんだもん」
ああ、そういうことだったのか……。
「…………って、は?」
「丸い帽子は商人の証しなんだぁ。だから、あの人がイペルタムまで行く商人。
そして彼は、明日出発すると言っていたよね?だから、ボクは明日、あの商人にナツを預けようと思う。ナツには、彼と一緒にイペルタムまで行ってもらうの。だから、悪い印象は与えちゃだめなんだよ?」
「…………え、え?」
ポッケは私の立場を悪くしないために怒らずにいてくれたのだという。
それはとてもありがたい。
ありがたいが、しかし。
「私を、あいつに預ける……?」
「うん。あんなに高そうなものを身に付けているのに、誰にも襲われず無傷で旅をしているなんて、とても凄いことなんだぁ」
「い、いや……だからって私は、ポッケを傷つけた商人と、イペルタムまで……?」
脳内がポッケの言葉に追いつかない。
いや、追いつかないというより、もはや考えることを放棄したがっていた。
「……あの、本気で言ってる?」
「うん。あの人達ほど安全な旅ができる商人は、きっとウェイカルパには存在しないと思う。だから、ナツは彼に同行すべきなんだよ」
自分の運が、はたして良いのか悪いのか。
「明日の朝、ボクは彼と交渉するよ」
ただ、これほど自分の運の悪さを呪った日は、ガルバンの森以来である。ということは、隠さずに申しておく。
何時間ほど二人で黙り合っていたのだろうか。いつの間にやら外は真っ暗だ。
「明日、かぁ……」
そんななか、おもむろにポッケが口を開いた。
「明日、ボクは交渉する。交渉しちゃうんだ、明日……」
明日。
明日、あの性悪商人は出発する。
そして、私は彼に同行することになる。
それはつまり、ようするに。
「……明日、ボク達はお別れするんだよね」
そうなのだ。
色々とあって混乱してしまったが、改めて思えば、実質、今夜がポッケと過ごせる最後の夜なのである。
「ボクね、ボク……。あのね、ナツのこと、大好きだよ?」
正直なところ「やめてくれよ、そういうの。泣くから」と思った。可愛げがないことは承知だ。
なぜなら私は、今であればポッケに何を言われても泣くかもしれないという底知れぬ自信があった。
「ナツの馬鹿野郎」と言われても「はい、私は馬鹿野郎です」と言いながらポッケに抱きついて泣き出す自信が際限なく湧いているのである。これはもう、ポッケのそばでは強がっていないとやっていられない。
だが、かと言ってポッケのそばから離れたくはないのだ。わがままである。
泣かずに、でもポッケのそばには居るためにはどうすれば良いか。
(……いっそのこと、私がずっと喋り続けてやるってのはどうだ)
ポッケの口が開く隙もないほどだ。素晴らしい思いつきである。
「ポッケ、だきしめていい?」
最後に思う存分モフモフしたくて、とりあえずダメもとで聞いてみた。
首を傾げる私をしばらく見つめたポッケは、しかし吹き出すように笑ってから、こくりと頷いてくれた。
「いいよ?」
ポッケの両手を優しく引っ張って、その肩口に顎を預けた。それから両手をポッケの背中に回す。
ポッケも私の背中に手を回して、子どもをあやすようにポンポンと肉球で叩いてくれた。ああ、モフモフ。
「ポッケあのね?」
私は小さな声で話し始めた。
「実はさ、最初、森の中でポッケ達に運ばれてた時さ。私、ポッケ達のことを人攫いだと勘違いしたんだ。ごめんね?」
「えぇ?そうなの?」
ポッケの声が耳元で聞こえる。人間の子どものような、とても可愛い声だ。
「うん。でもさ、ポッケは人攫いなんかじゃなかった。私の救世主だったんだ」
ポッケの耳がぴくりと動いた。その耳が私の頭を撫でていくから、少しくすぐったかった。思わず笑い声が出て、そんな優しい気持ちのまま、勝手に言葉があふれ出た。
「そりゃ、誰かが危ない場所で倒れていたら、私だって助ける。
でもさ、変な言動を繰り返す奴を家に泊めてやろうって思えるほど心は広くないんだ。それに、王都に行かせるとしても地図を書いて街の入口で手を振る自信がある。冷たいかもしれないけれど、だって、知らない人相手にそこまで面倒見られないんだ、私は自分勝手だから。
だからさ、ポッケ殿。ポッケ殿は優しすぎるんです。ちゃんと自分でも気付いてますか? 優しすぎますよ、ポッケ殿」
「……ボクって、優しすぎるの?」
「うん、……優しすぎ」
私はポッケを抱く腕に力をこめた。
少しだけ、自分の声が震えている気がした。
「私はね、ポッケさん。その優しさに何度も救われましたよ。何度も」
「……ご飯とか、お金とかのこと?」
「それだけじゃない、心も救われた。何度も」
泣かないために私が喋り続けると言ったのに、喋り続けているうちにポッケとの色んな思い出が蘇ってしまった。
「ポッケはさ、無意識にやってくれてるんだろうけどさ、突っ立ったまま動けない私の手を、引っ張ってくれただろ」
泣きたくないという強情な気持ちもお構いなしに、目には勝手に涙がたまっていった。
「この世界に来たばかりで、全然笑わない私に向かって何度も笑いかけてくれて、お礼も言えなかった私を許してくれるみたいに頭を撫でてくれてさ」
ポッケの肩口で目元を隠す。泣くな、泣くな。湿っぽい空気になるな。
とにかく、今ポッケに言いたいことは、この一言だけだ。
「……たくさん、ありがとう」
深呼吸をする。
言いたい言葉は言えたものの、どうもしっくりこない。伝えたい感謝の量が一言では収まり切らなくて、でも何をしようにも何も持っていない。
「もう、どうしたら良いんだろう。ポッケに恩を返せる気がしないよ」
結局は、旅に出る前に言った言葉を繰り返すしかなかった。思わず自嘲の笑みが出る。
「……あ、そうだ!」
そんな私の背中を一度だけポンと強く叩いたポッケが、元気よく口を開いた。
「ナツ、ボクいいこと考えたよ。
あのね、ボクと三つだけ約束してくれる? それで、その約束を守ってくれたら、恩を返したことにしてあげるよ!」
ポッケに恩を返した返してないと決められても私自身が納得できないとは思うが、何か頼み事があるのならば、それは願ったり叶ったりだ。
「うん」
涙腺崩壊の危機が過ぎ、少しばかり落ち着いた私はポッケの肩から顔を離して、彼の目を見つめながらはっきりと頷いた。
そんな私にポッケはホニャリと笑う。
この笑顔も、もうあと数回しか見られない。
「ひとつ。もしナツがニホンに帰れる日が来たら、どんな形でも良い。ボクに教えて?手紙、人伝、なんでも良いから」
お安い御用だ。必ず伝えよう。
私は唇を噛みしめながら頷いた。ポッケは笑顔で続ける。
「ふたつ。あのね、絶対に死なないで。何があっても生きることを諦めないで。
ナツはニホンに帰るんだ。色んな人の力を借りて、必ず生きて帰るんだ。
辛い時は、自分を助けてくれた人の顔を思い出すの。あの人達は自分を生かすために助けてくれたのに、死ぬなんて自分勝手なことできないって、ちゃんと考えるの」
私の顔がぐしゃりとゆがんだ。だめだ、やっぱりポッケに喋らせたらだめだった。
見えづらくなる視界。
ポッケの顔を見ていたいのに、よく見えない。
「みっつ」
そんななかで、錯覚かもしれないが。
優しいポッケの笑顔も、今の私と同じのように、ぐしゃりとゆがんだ気がした。
「ボクがずっとそばにいたこと。忘れないでいていてくれる?」
「忘れるわけないだろ」
涙が零れた。耐え切れずに声が出た。
わあわあ泣いて、まるで赤ん坊みたいだった。
そんな私を、ポッケは声を出して笑う。
まるで、泣いているような声だった。




