これが私の道ならば
「ナツ!」
大声で呼びかけられて、はっとした。
トカゲを殺したショックからか、少しばかり耄けていたらしい。私は血濡れのナイフを右手に持ったまま、両膝をついていた。
目前にトカゲがいない。その代わりに、泣きそうな顔をしたポッケが立っている。
あのトカゲは私達のすぐ隣で死んでいた。その体は鈍い赤色に染まっている。私達を照らす夕日の赤ではない、別の赤だ。
そうやってゆっくりと周囲の状況を確認する私を気にも止めず、ポッケは両手で私の頬や額を丹念に擦り続けていた。その肉球は真っ赤に染まっているが、なぜ赤いのだろうか。しばらくぼんやりと考えてから、ふと気付く。
そうか、彼は今、私の顔に飛び散った血を拭ってくれているのだ。
「ポッケ、ポッケやめてくれ。いいよ。ポッケの手が汚れてしまう」
そう静かに呟いて、ポッケの両手を左手で掴む。だがしかし失敗した、なんと私の左手も真っ赤だったのだ。余計に汚してしまってどうする。
口角を引きつらせる私を見つめるポッケの表情は、まるで何かに苦しんでいるかのように、更にひどく歪んでしまった。
「ナツ、無理はダメだよ。ナツは、初めて狩りをしたんでしょう?」
……狩り、と言っても良いのだろうか。ポッケに何と返答したら良いのか分からず、曖昧に小さく頷いた。果たして先ほど私が行ったことは、ポッケの言う通り「狩り」なのか?
いや、違うだろ。あれはただの殺生だ。
喉が変に締まって、おかしな咳が出た。多少は混乱しているらしい。落ち着くために深呼吸をした。無意識に喉が引きつって、しゃくり上げるような深呼吸になってしまった。
血生臭い何かが、私の臭覚を刺激する。
「ナツ、近くに小川の流れる音が聞こえるんだ。とにかく、そこまで頑張って歩こう。服と体を洗うんだよ。早く洗わないと、血生ぐさい臭いが体に染みついちゃうの。ちょっとの距離だよ。頑張って歩こう」
ポッケは全身を震わせていて、可愛い尻尾がくるんと丸まってしまっていた。彼も殺生には慣れていないのかもしれない。……それなのに、こちらのことを心配してくれているのだろうか。
もしそうなのであれば、これ以上頼りない姿を見せるわけにはいかない。戦いに不慣れなポッケを守るのは、こちらの役目だ。
私は彼の手を握ったまま背筋を正す。それから大きく息を吸い込んで胸を張って、いわゆる、お澄まし顔なるものをポッケに披露した。
「ポッケ、無理はしなくていいんだぞ。私は平気だきゃら……だから、なッ!」
何も心配することはない、こちらは余裕で歩けます。ということを、態度と表情でポッケに伝えたかった。だがしかし堂々と噛んだ。格好がつかない。
私は噛んだことを誤魔化すように眉間に皺を寄せ、大きく咳をしてから、右手に持っていた血みどろのナイフを地面に擦り付けることで拭いた。
「っ、よいっしょ、と!」
それからナイフを鞘に戻して、両手を地面に置きながら立ち上がる。若干、足が震えた。震えたが、所詮その程度だ。歩けないわけではない。
とにかく移動だ。いずれ、このトカゲが流した血の臭いに寄ってくるものも居るだろう。
「行こう、ポッケ。小川まで」
「う、うん」
周囲が薄暗い。夜が迫ってきている。
「あのね、ナツ。小川の水から血の臭いを辿って、また凶暴な野獣が出てくるかもしれないから、ここで体を洗い終わり次第、またしばらく場所を移動するね?」
私が体を洗っている間、ポッケは周囲を見張ってくれるらしい。ポーニはポッケのとなりに寝そべっている。
私以上ではないにしろ、ポッケも同じように全身が土や血で汚れているので、とにかく手早く済ませて見張りを交代せねばならない。
改めて全身を確認すると、白いシャツは見るも無残な有様だった。真紅である。ネイビーブルーの上着に関してはあまり汚れも目立っていないが、それでも放っておけば血生臭くなるだろう。急いで服を脱いでから、細くて頼りない体と一緒に服も水で濯いだ。
もちろん石鹸などといったものは持っていないので、全て擦り洗いである。
(シャツについた血、落ちるかな)
変に残ってピンクのマーブル模様シャツになったらどうしよう。まぁ、新品のシャツを買えば良い話なのだろうが、その出費はポッケの……ポケットから出る。そう、ポッケのポッケからだ。それはさすがに厚かましい。
冷水を浴びたからか時間が経ったからか、生き物を殺生したことへの動揺は多少なりともではあるが落ち着き始めていた。
そもそもである。地球で売られている牛や鶏だって、スーパーに並ぶ前には誰かが先ほどと似たような作業をやってくれているのだ。そこから目を背けるなんてきっと甘えだ。
一から十まで自分が全て行わねばならない現状が今なのだ。殺さねば殺される。生きるために狩る。こんな根本的なことでへこたれていたら、先が続かない。
深呼吸、深呼吸。
早く日本に帰るために。王都へ行くために。私は平気だ、まだ頑張れる。
「ナツ、大丈夫?」
私が動き回ることで起こる水飛沫の音が止んだからか、周囲を見渡しながらもポッケが聞いてきた。こちらを振り返らないあたり、どれほど可愛くてもきちんとした男の子である。
「うん、全然平気。それより、ポッケの方こそ大丈夫か?」
「ボクは全然大丈夫だよ?ボクは、死ぬのは怖いけど、何かを倒すのには慣れているから。時たまコボルトの皆と一緒にガルバンを狩猟しに行ったりもするよ」
私は内心で、さもありなんと頷いた。やはりこの世界では、殺生は身近にあるものなのだ。こんなことで慌てる私のほうがおかしい。
……はて。では、なぜトカゲを切った後ポッケはあんなにも震えていたのだろうか?てっきり私と同じく、狩りに慣れていないからだと考えていたが……。もしかしたら、狩りに慣れているというのは私を安心させるための嘘なのかもしれない。
「それならそれで、ポッケのことは私が守るからいいけど」
ポッケには恩がある。その恩を返さずにいるなど自分自身が許せない。これは自己中心的な善意だが、私に力を貸してくれているポッケの力に私もなりたい。
(そうだ。私は落ち込んでいる場合じゃない。ここでしっかりしなくてどうする!)
私は自分の顔に向かって思い切り冷水をぶっ掛けた。物凄く冷たかったが、目は覚めた。
「おはよう夏子ッ!」
「ナ、ナツ? 大丈夫?」
「大丈夫! 心身ともに正常です!」
それはともかく、できるだけ急いで体を洗ったつもりだったのだが、その間に太陽の全貌は地平線へと隠れてしまった。
暗くて視界が悪いため、服についた血がどれほど落ちたかは分からない。しかし、鼻を寄せて嗅いでみても生臭さは感じなかったのでとりあえずは大丈夫だろう。
怪我を負った時のために持ってきていた布で急いで体を拭き、服を絞ってから再び身につけた。
「遅くなってごめん。次はポッケの番だ」
「うん」
ポッケは振り返って、私の横を通りすぎると勢いよく小川に飛び込んだ。
すれ違う時、私はポッケから少しばかり距離を取って、今だに震える自分の手を背中に隠した。いや、これは冷水のせいだから。そうだ、冷水のせいである。
心配性のポッケに、これ以上の心労は掛けさせたくなかった。
大丈夫。私はくじけない。
無理は必ず後に祟ります、厳禁です。




