コボルトの街の夜は更けて
「夏子、起きなさい夏子」
母だ。母の声がする。
ああ、なんとも懐かしい。
……母の、声。
「ッ!!!!」
いつも寝起きの悪い私だが、この時ばかりは本気で飛び起きた。飛び起きるしかなかった。
ここはポッケの……いや、いや、違う。よく見ろ。
ここは、私の、マンションの、一室。
「夏子?」
母が首を傾げている。母だ。
「あぁ……」
あぁ、あぁ、あぁ……嘘だろ。
帰ってきたのか。日本に。嘘だろ。
あまりにも驚きすぎて、言葉が出ない。
私は日本に、帰ってきたのだ。
「夏子、お母さんもう帰るけど。今日は仕事じゃないの?」
私はすぐに返答ができなかった。外は?外はどうなっている?……外は、外は晴天だ。すでに日が高く昇っている。
異世界に飛ばされた時もこうだった。こちらは雨が降っていて、向こうは晴天だった。
これは、夢じゃ、ない。日本だ。……本当に日本だ。
私は、現実を噛みしめるように数回まばたきを繰り返して。それから、思わず笑顔になった。
窓に向けていた顔を、そのまま再び母に戻し、私は感動のあまり……
「今日は休みだよ」
……おい。言いたいことはそんなことじゃないだろ。
「そう。じゃあお母さん、帰るからね」
ちょっと、待って!お母さん、ちょっと待って!!
私は慌ててベッドから飛び出て、母のもとへと走った。走った、つもりだったのだが。私の足は、のそりのそりと、冷蔵庫に向かって歩いていく。
「もうお米とか送って来なくていいよ。お金かかるだろ、私は大丈夫だから」
……違う、違う。そんなこと今はどうでもいい。
「もう。ちゃんとご飯作って食べなさいよ?じゃないと夏子、あんたずっと毒入り弁当しか作れないわよ」
母が玄関を開ける。外から眩しい光が入ってきて、母の姿が、顔が、霞んで見えなくなる。
「はいはい。お説教だけならさっさとお帰りください」
違う。行かないで。私の口が勝手に言うのだ。
お母さん、これは私じゃない。違うのに。そんなこと言いたくないのに。行かないで、頼むから帰らないで。
そんな私を置き去りにして、母はため息をつきながら光の中に身を沈めていく。
「お母さん」
私の口が、やっと動いた。
怖かったんだ、森の中で。もう会えないって、会いたいって、泣いたんだ。言いたいことがたくさんあるんだ。感謝だったり、謝罪だったり。伝えたいことが、たくさん。
思い通りに動くのは頭だけだった。体は、冷蔵庫の前からちっとも動かない。
「何?」
母が振り返る。
私と目が会う。
会いたかった、優しい顔だ。
私は……。
笑顔で、手を振った。
「またね」
………………あぁ、あぁ夢だ。
これは夢だ。現代の夢。
私は、ゆっくりと目を開けた。目を開けた、という感覚が、体に響く。
「…………おかぁさ……」
ここは私の……いや、違う。
ここは、ポッケの家だ。
辺りはまだ暗い。ポッケはベッドの上で、静かに寝息を立てている。きっと、昨日は早めに寝てしまったから。今日は早く起きすぎてしまったのだ。
寝覚めは、最悪である。
「……、……っ」
会いたかった、会いたかった。会えたと、思った。
私は寝袋から這い出て、鞄の中からスーツの上着を取り出す。それからもう一度、この世界から逃げるように寝袋の中へと潜った。
私はスーツを抱きしめながら、限界まで体を丸めた。寂しくて寂しくて寂しくて、どうにかなってしまいそうだった。
……昨日、ふと思ったことがある。
私は、本当は、日本に、帰りたくないのかもしれない、と。
そんなことを思った自分を、今は思い切り殴ってやりたい。何が、何が帰りたくないかもしれない、だ。こんなにも苦しいのに。
やっぱり、私は帰りたい。もとの世界に。
家族に、知人に、会いたい。
「…………帰りたい……」
暗い部屋。
日本はどこにもない。
何も届かない。
私はひとりで、静かに涙を零した。
最悪に凶悪な夢だ。
……… ……… ……… ……… ………
「ここに花輪を置いておくね?」
外は薄暗かった。昨日の夜に降った雨のせいか、空気は少しばかりジメッとしている。
そんな夜明け前に、私達は家から出た。
花輪を家の軒先に連ねてぶら下げながら、ポッケが私を振り返る。そんな彼に、私はまばたきで返答した。
まだ少し、まぶたが腫れぼったい気がする。鏡がないので確認はできないが。……もし腫れている理由を聞かれたら、旅にワクワクしすぎて寝不足になったのだ、とでも言い訳するしかない。
まったく、下手な嘘だ。
ポッケ曰く、太陽が顔を出す前の薄ら明るいうちに出発するのが旅の鉄則らしい。
この時間、いつもの料理屋さんはまだ開いていない。今日は早めに起きてしまったので既に空腹だ。限界になったらポッケに言おう。
「ねぇ、ナツ?」
私はポッケと目を合わせる。
「この花輪、いつかまた、受け取りに来てね?」
「……っ」
頷けなかった。声も出ない。すぐに返事ができなかった。夜のうちに見た夢が、未だに頭から抜けきれていない。
……受け取りにくるという行為が行えるほど、異世界に居座るつもりはないのだ。
自分の思考回路が、驚くほど意固地になっていた。自己嫌悪するほどに。
一瞬にして体を強張らせた私に、ポッケは何も言わず、苦笑しながら右手を差し出してくれる。彼は可愛らしく首を傾げてから、無理はしないで、とでも言うように、私に向かって口角を上げてみせた。
(……情けないな、私は)
頼り甲斐のあるポッケが、ずっとそばに居てくれるわけではないのに。
もっと、強くならなければ。
私は、ポッケの手をしっかりと握ってから、ようやく頷くことができた。




