第2話:上高地、午後五時の境界線
二両編成のローカル列車と路線バスを乗り継ぐ旅は、じっとりとした静寂に満ちていた。
2008年、8月某日の午後2時。僕たち諏訪二葉高校3年D組の4人は、大きな登山用のザックを背負い、松本駅から上高地へと向かうバスの中にいた。車内に響くのは、年季の入ったエアコンが立てるブーンという低い唸り声だけだ。窓の外の景色は、都会のアスファルトから、徐々に険しい崖を切り裂くような山道へと姿を変えていく。
僕は窓ガラスに頭を預け、流れていく景色を眺めていた。隣の席では、拓海が相変わらずドコモのガラケーを開閉しては、山道に入るたびに細くなっていく電波のアンテナを忌々しそうに見つめている。
「ちっ、もうアンテナが1本しかねえ。メールも送れねえよ」
拓海が吐き捨てるように言った。その声には、受験勉強から解放された喜びよりも、これから向かう場所への言い知れぬ恐怖を紛らわせようとする焦りが混じっていた。
斜め前の席では、綾乃が窓の外をじっと見つめている。その横顔は驚くほど端正で、そして冷たい。彼女の膝の上には、あの悠人の古い地図が大切そうに置かれていた。
午後4時を過ぎた頃、バスは上高地への最終関門である『釜トンネル』へと進入した。 2008年当時の釜トンネルは、今のように整備されておらず、狭くて、暗くて、むき出しの岩肌から地下水がじっとりと滴り落ちる不気味な空間だった。バスが暗黒に包まれた瞬間、車内の温度が急激に下がった。
「あ、電波消えた」
柊斗が呟いた。全員のガラケーの液晶が、一斉に『圏外』の文字を映し出す。完全に世界から切り離されたような、強い閉塞感が僕の胸を締め付けた。エンジン音が不気味に反響する長い暗闇を抜けたとき、僕たちは別の世界に迷い込んでしまったのではないか、そんな錯覚さえ覚えた。
午後5時。バスは目的地の『上高地バスターミナル』に滑り込んだ。
バスの扉が開いた瞬間、山の冷気が容赦なく僕たちの肌を刺した。
真夏だというのに、標高約1,500メートルの上高地は驚くほど冷え込んでいる。そして、何よりも異常だったのは、その『静けさ』だった。 通常、昼間は多くの観光客で賑わうはずの景勝地だが、午後5時というのは最終の帰路バスが出発した直後の時間帯だ。お土産屋のシャッターは次々と下ろされ、周囲には人っ子一人いない。 観光地から、本物の『大自然の檻』へと変貌を遂げる時間。残されたのは、巨大なザックを背負った僕たち4人だけだった。
「寒いな……。おい、早くキャンプ場に行こうぜ」 拓海が腕をさすりながら、先頭を歩き出した。僕たちは梓川のせせらぎを聞きながら、上高地の象徴である『河童橋』へと向かった。
夕闇が迫り、薄い霧が川面から這い上がってくる。
誰もいない河童橋の上に立ったとき、背後にそびえる穂高連峰のシルエットが、まるで僕たちを見下ろす巨人のように迫ってきた。冷たい松の匂いが鼻腔を突く。インドネシアのジャングルの、あの生暖かく湿った土の匂いとは対極にある、生き物の存在を拒絶するような硬い匂いだ。
「なあ、せっかくだから高校最後の夏の記念に、ここで写真を撮ろうぜ」
柊斗がカバンから、自慢の新しいコンパクトデジカメを取り出した。2008年当時としては最新の、自動顔認識機能がついたデジタルカメラだ。
柊斗は橋の手すりに小さな三脚を固定し、10秒のセルフタイマーを設定した。
「ほら、みんな並んで! エド、もっと右に寄れよ」
カメラの前に、僕、綾乃、拓海が並ぶ。柊斗がシャッターボタンを押し、急いで僕たちの列に加わった。
液晶画面の横で、赤いタイマーの光がピコピコと点滅を始める。
5、4、3……。
その時だった。柊斗がふと、カメラの小さな液晶画面を振り返った。
2008年の粗い画質の液晶画面の中で、カメラの最新機能である『顔認識』の黄色い四角い枠が作動していた。
ピピッ。
拓海の顔に枠がつく。
ピピッ。
綾乃の顔に枠がつく。
ピピッ。
柊斗と、僕の顔にも枠がついた。
そこまでは正常だった。しかし、タイマーが『1』を示す直前、カメラはもう一つの音を鳴らした。
――ピピッ。
画面の中で、僕のすぐ右隣にある『誰もいない空間』に、5つ目の黄色い枠がパッと現れたのだ。それは、まるで目に見えない誰かの顔を、じっとロックオンしているかのように激しく点滅していた。
「え……?」
柊斗の顔から血の気が引いていくのが、横目で分かった。
カシャリ。
不気味なシャッター音が、静まり返った河童橋に響き渡った。




