第1話:3年D組という檻
黒板の右隅に書かれた『センター試験まであと――』の白い文字が、じっと僕たちを監視しているようだった。
2008年の夏。長野県立諏訪二葉高校の3年D組の教室は、じっとりとした不快な熱気に包まれていた。天井で重そうに回る扇風機は、生ぬるい空気をかき混ぜるだけで、受験を控えた僕たちの焦燥感を消し去ってはくれない。机の上に積み上げられた模試の解答集と、容赦なく照りつける強烈な日差し。それが、高校最後の夏休みを前にした僕たちの現実だった。
僕は窓際の席に座り、頬杖をついて遠くを眺めていた。窓の向こうには、夏の青空に溶け込むように、北アルプスの山々が巨大な岩の怪獣のようにそびえ立っている。
その景色を見るたび、僕は遠い記憶を思い出さずにはいられない。
僕の生まれ故郷――インドネシアの南カリマンタン州。
あそこには、こんなに息の詰まるような夏はなかった。年中、熱帯の太陽が降り注ぎ、泥の匂いがする鬱蒼としたジャングルは、いつも猿や鳥の声で騒がしかった。だけど、ここ日本の夏は違う。どこか静かで、張り詰めていて、精神をじわじわと圧迫してくるような「冷たい熱さ」がある。
「おい、エド。また上の空か? お前はいいよな、帰国子女枠とかいうやつがあるんだろ」
だらしない声を出して僕の前の席に座り込んできたのは、小林拓海だった。普段は運動部のエースとして威勢がいいはずの拓海だが、今は手元のドコモのガラケーをいじりながら、最悪な模試の結果に頭を抱えている。
「そんな都合のいいもの、ないよ」
僕は苦笑交じりに応えた。小学校の時に両親と日本へ移住してきてから、僕は必死でこの国に馴染もうとしてきた。だけど、どれだけ日本語を完璧に話せても、胸の奥にある「異邦人」としての孤独感は消えなかった。
「あーあ、もう勉強なんて放り出してどこか遠くへ行きてえな」
拓海の隣の席で、山崎柊斗が自嘲気味に笑った。彼は机の下で、受験勉強の参考書の代わりに最新のコンパクトデジカメのカタログを貪るように読んでいた。
教室の中には、誰も口にしない「重い空気」が漂っていた。
正確には、3年前からずっと、僕たちの間には決して触れてはならない『空白』があった。
――上条悠人。
かつて僕たちの中心にいた、もう一人の親友の名前。誰もがその名を避けて生きている。まるで、名前を呼んだ瞬間に、あの日の呪いが蘇るとでもいうように。
「――ねえ、みんな」
鈴の鳴るような、だけど温度の低い声が響いた。
いつの間にか、宮越綾乃が僕の机の前に立っていた。黒髪を綺麗に切り揃えた彼女は、悠人の元恋人だった。彼女が近づくだけで、周囲の熱気が一瞬にして引いていくような錯覚を覚える。
綾乃は、カバンの中から古びた折りたたみ式の地図を取り出し、僕の机の上にそっと広げた。 それを見た瞬間、僕の心臓がどくりと大きく跳ねた。
――2005年度版、北アルプス・槍ヶ岳の登山ルートマップ。
それは、3年前に悠人が使っていたものだった。
「これ、悠人の部屋で見つけたの」
綾乃は静かに、だけど拒絶を許さない瞳で僕たちを見つめた。
「高校最後の夏休み、受験の前にみんなで槍ヶ岳に登らない? 頭を冷やすため……それから、悠人のいた場所に、もう一度行くために」
教室の空気が、完全に凍りついた。
拓海がガラケーを閉じるカチリという音が、不気味なほど大きく響く。柊斗の手が止まり、生唾を飲み込む音が聞こえた。
槍ヶ岳。標高3,180メートル。悠人が滑落し、冷たい遺体となって発見された、あの呪われた「墓標」のような山。
行きたくない。戻りたくない。あの夜、悠人の右手を掴んだ僕の指先が、今でも凍えるように冷たくなるのを感じる。パニックが、南カリマンタンの底なしの泥のように僕の足元から這い上がってくる。
断るべきだ。そう思った。
しかし、綾乃の穏やかな微笑みの奥にある「何か」を見たとき、言葉が喉に詰まった。それは、悲しみではなく、何かを値踏みするような、冷酷な光だった。
僕たちは誰も、彼女の提案を拒絶できなかった。
なぜなら僕たちは全員、悠人の死に対して、誰にも言えない【黒い秘密】を抱えていたからだ。
こうして、僕たちの運命の歯車は動き出した。 2008年、8月。僕たちは長野の諏訪を離れ、登山口である上高地へと向かう。
それが、生きては戻れない「白い闇」への入り口だとも知らずに。




