第3話:徳沢への道、そして五番目の足音
河童橋での奇妙な出来事の後、僕たちは言葉少なに梓川沿いの林道を歩き始めた。目的地のキャンプ場がある徳沢までは、およそ2時間の道のりだ。
「おい柊斗、さっきのデジカメのバグ、マジで勘弁してくれよな。俺、ああいうのガチで無理だから」
拓海がザックの肩紐をぐいと引っ張りながら、大きな声をあげた。彼の腰につけられた熊除けの鈴(クマ鈴)が、歩くたびにチリン、チリンと騒がしく鳴り響いている。
「しょうがないだろ、新しく買ったばかりなのに。……でも、本当にただのバグか?」
柊斗はまだ納得がいかない様子で、デジカメをポケットにしまい込んだ。
「やめろって! だいたいさ、このザック重すぎんだよ! なんで俺がこんな重い参考書まで持って山に登らなきゃいけねえんだよ。これじゃ『重量級の呪い』だろ」
「拓海が『山でも勉強する』って大見得切って持ってきたんでしょ。自業自得よ」
前を歩く綾乃が、振り返りもせずに冷たい声を投げかける。
「うぐっ……。いや、でもさ、もし本当にツキノワグマが出たらどうする? このクマ鈴、役に立つんか?」
「大丈夫だよ。クマが『あ、飯の時間だ』って集まってくるだけだから」
僕が冗談を言うと、拓海は「おいエド、笑えねえよ!」と大げさに怯えてみせた。そんな他愛のない高校生らしい会話が、さっきまでの張り詰めた空気を少しだけ和らげてくれた。
しかし、午後5時半を過ぎた頃、山の夜は急速にその帳を落とし始めた。
周囲のカラマツ林は光を失い、深い黒へと染まっていく。それと同時に、僕の体に限界が訪れた。標高が上がり、気温が急激に下がったせいで、猛烈に尿意を催してきたのだ。
「……ごめん、みんな。ちょっとトイレ。限界」
「マジかよエド、こんな真っ暗な林の中でか? 熊に尻噛まれるなよ」
拓海が笑うが、その声も心なしか震えている。僕はヘッドランプを点灯させ、林道の脇にある巨大なカラマツの木の陰へと急いだ。
「ここで待ってるから、早くしろよ!」
後ろから柊斗の声が聞こえる。
木々の茂みに隠れ、用を足し始めた瞬間、周囲の「音」が完全に消えた。拓海のクマ鈴の音も、梓川のせせらぎも、まるでガラス一枚隔てた向こう側のように遠ざかる。
その時、カサリ、と近くの落ち葉が擦れる音がした。
「……拓海? 驚かすなよ」 ヘッドランプの白い光をそちらに向ける。しかし、ただの低木が揺れているだけだった。夜風のせいかと思った、その時。
――信じられない匂いが、鼻腔を突いた。
冷たい日本の山の匂いではない。それは、僕の生まれ故郷、インドネシアの南カリマンタン州のジャングルで、激しいスコールが降る直前に漂う、あのじっとりと重い「熱帯の泥とジャスミンの混ざった匂い」だった。
なぜ、3000キロも離れた長野の山奥で、あの故郷の匂いがするんだ?
全身の毛穴が逆立つような恐怖が、僕の背中を駆け上がった。
一方、林道でエドを待っていた3人の間にも、異変が起きていた。
柊斗は暇を潰すために、液晶画面でさっきの河童橋の写真を見返していた。何度見ても、エドの隣の空間に黄色い「顔認識」の枠が写り込んでいる。
「……おい、拓海。これ、やっぱりおかしいよ」「だから見せるなって。俺は見な――」 拓海が言葉を遮った。
ヒュルリロ――。
暗闇の奥から、かすかな音が聞こえた。それは、僕たちの諏訪二葉高校の校歌のメロディを、ひどく不器用になぞった「口笛」の音だった。
「エド……? お前、ふざけてんだろ。全然面白くねえぞ!」
拓海が声を張り上げる。しかし、口笛の音はエドが入っていった茂みとは『真逆』の、暗い林道の先から聞こえていた。
3人は凍りついたように動けなくなった。綾乃の呼吸が不自然に速くなる。
「……待たせてごめん」
そこへ、僕がズボンのベルトを締めながら戻ってきた。
「エド! お前、さっき口笛吹いたか!?」
拓海が僕の肩を掴んで激しく揺さぶる。
「え? ううん、吹いてないよ。それより、なんだか変な匂いがして――」
「いいから、早く行こう。ここ、なんかヤバい」 柊斗が青ざめた顔で僕の言葉を遮った。
僕たちは逃げるように、再び一列になって歩き始めた。先頭は拓海、次に綾乃、僕、そして最後尾が柊斗だ。
全員が早足になり、ヘッドランプの光だけを頼りに暗黒の林道を進む。
ザッ、ザッ、ザッ、ザッ。
4人分の登山靴が、砂利を踏みしめる音が規則正しく響く。
しかし、歩き始めて数分後、僕の耳が「それ」を捉えた。
ザッ、ザッ、ザッ、ザッ――ザッ。
4人が一歩を踏み出すたびに、わずかに遅れて、もう一つの足音が聞こえるのだ。
気のせいかと思い、僕は意識を耳に集中させた。
ザッ、ザッ、ザッ、ザッ――ザッ。
やっぱり、いる。僕たちのすぐ後ろ、柊斗のさらに後ろの霧の中に、誰かがいる。それも、僕たちの歩調に完全に合わせて、気配を隠しながらついてきている。
「……ねえ、ちょっと休憩しない?」
不安に耐えかねて、僕は声をかけた。
先頭の拓海がピタリと足を止める。続いて綾乃、僕、柊斗も足を止めた。
チリン……。拓海のクマ鈴が静かに揺れて、止まる。
周囲は完全な静寂に包まれた。
はずだった。
僕たちが完全に静止した、その1秒後。
暗闇の、すぐ目と鼻の先から。
――ザサリ。
濡れた草むらを踏みしめる『5番目の足音』が、はっきりと一歩分だけ遅れて響き、そして静まり返った。




