第4話 窓際の二つの椅子
土曜日の朝、目が覚めると、沙耶さんからメッセージが届いていた。
『おはよう。ごめんね、今日はちょっと外に出られそうにないの』
時計を見ると、八時を少し過ぎたところだった。
昨夜、寝る前に確認した天気予報では、今日は一日晴れることになっていた。川沿いを歩くにはちょうどいい気温で、俺は喫茶店までの道も調べてある。
けれど、沙耶さんが出かけられないのなら、予定を変えるしかない。
『分かりました。今日はゆっくり休んでください』
送信してから、もう少し体調について尋ねた方がいいかと迷った。
先週、映画館で告白してから、初めて会う約束だった。
あの喫茶店へ一緒に行こうと言ってくれたことが嬉しくて、昨日はなかなか寝つけなかった。どんな顔で会えばいいのか分からないまま、それでも会いたいと思っていた。
けれど今は、そんなことより沙耶さんの体が気になった。
しばらくして返事が届いた。
『ありがとう。熱はないし、昨日も普通だったんだけど、今朝はどうにも体が重くて』
『食事は取れそうですか?』
『まだ分からないかな。もう少し休んでみるね』
俺は了解と返し、スマートフォンを枕元へ置いた。
起き上がってカーテンを開けると、窓の外には青空が広がっていた。
昨夜まで楽しみにしていた休日が、急に長く感じられる。
沙耶さんの病気については、最初に聞かされたときから覚悟していたつもりだった。治療を受けても、治る見込みはない。体調のよい日もあれば、こうして朝から動けない日もある。
分かっていたことなのに、昨日まで楽しみにしていた約束が一つなくなっただけで、胸の奥が落ち着かなくなった。
俺は顔を洗い、朝食を用意した。
休みの日には普段より時間をかけて食べることが多いのに、今日は早々に食事を済ませ、洗濯機を回した。部屋の掃除を始めたものの、掃除機の音が止まるたびにスマートフォンを確かめてしまう。
眠れているなら、それが一番いい。
そう思い、こちらからは連絡しなかった。
十一時半を少し過ぎた頃、ようやく通知音が鳴った。
『少し寝たら楽になったよ。心配かけてごめんね』
俺はソファに腰を下ろし、すぐに返事を打った。
『よかったです。無理しないでくださいね』
『うん。今日は家でのんびりすることにする』
そこでやり取りが終わるかと思ったが、少しして、もう一通届いた。
『そういえば、前にカレーを作ってくれるって話したの、覚えてる?』
思わず笑ってしまった。
映画を観に行く前、喫茶店で交わした何気ない約束だった。
『覚えてますよ』
『なんだか急に食べたくなっちゃった』
俺は台所へ目を向けた。
冷蔵庫には、昨日買っておいた野菜がある。肉とカレールーを買い足せば、材料は揃いそうだった。
『今から作りに行きましょうか?』
送信してから、少し考えて付け加えた。
『ただ、体調が大丈夫ならです。食欲がなかったら別の日にしましょう』
返事が来るまで、少し間があった。
『今日は吐き気もないし、少しなら食べられそう。お願いしてもいい?』
『もちろんです。買い物してから行きますね』
『ありがとう。じゃあ、台所を貸すね』
俺は買い物袋を取り出し、必要なものを確認した。
朝、予定がなくなったときには、今日はもう会えないと思っていた。
けれど、沙耶さんの方から声をかけてくれた。
先週の告白を思い出して、少し緊張する。それでも、彼女が食べたいと言ってくれたカレーを作ることなら、いつもどおりにできる気がした。
◇
午後一時過ぎ、沙耶さんのマンションを訪ねた。
インターホンを押すと、しばらくして鍵の開く音がした。
「いらっしゃい、航平くん」
沙耶さんは薄いカーディガンを羽織り、玄関に立っていた。
顔色はあまりよくない。目元にも疲れが見える。それでも、俺を見つけると、いつものように笑ってくれた。
「調子、どうですか?」
「朝よりはずっといいよ。でも、今日は本当にだらだらしてるからね」
「その方がいいです。料理は俺がやりますから」
「じゃあ、遠慮なくお願いしちゃおうかな」
彼女は買い物袋の中を覗き込み、玉ねぎやにんじんを見て嬉しそうに頷いた。
「ちゃんと材料から作るんだね」
「当たり前でしょう」
「てっきり、温めるだけのカレーを買ってくるのかと思ってた」
「それじゃ、作るって言わないじゃないですか」
「そうだよね。ごめんごめん」
沙耶さんは笑いながら、台所へ案内してくれた。
流し台の下には鍋とフライパンがしまわれ、引き出しには包丁や調理器具がきちんと並んでいる。食器棚には一人分の食器が多かったが、奥には来客用らしい皿も置かれていた。
俺は買ってきた材料を台所に並べ、手を洗った。
「包丁、ここにあるのを使っていいですか?」
「うん。まな板はその下」
沙耶さんは台所の入口に立ち、しばらく俺の準備を眺めていた。
「何か手伝おうか?」
「今日は休んでてください」
「でも、ずっと座ってるのも退屈なんだよね」
そう言われて、俺は少し考えた。
「じゃあ、最後に味見をお願いします。辛さとか、沙耶さんの好みが分からないので」
「それなら任せて」
彼女は満足そうに頷き、居間へ戻っていった。
買ってきた肉を切り、玉ねぎの皮を剥く。にんじんとじゃがいもは、火が通りやすいように少し小さめにした。
昔、実家で沙耶さんがカレーを作っていたとき、俺はよく台所を覗いていた。
あの頃の俺に任されるのは、せいぜい皿を並べることくらいだった。時々、味見を頼まれると、それだけで料理を手伝った気になっていた。
鍋に油を入れ、肉と野菜を炒め始めると、台所に玉ねぎの甘い匂いが広がった。
「いい匂い」
居間から沙耶さんの声がした。
「まだ玉ねぎ炒めてるだけですよ」
「それがいい匂いなんだよ」
俺は笑いながら、木べらで鍋をかき混ぜた。
水を加え、煮立つまでの間に使った包丁とまな板を洗う。沙耶さんの台所は、俺が普段使っているものより少し狭かったが、必要なものが手の届くところに揃っていて使いやすかった。
しばらくすると、沙耶さんが居間から顔を覗かせた。
「ねえ、航平くん。じゃがいも、大きくした?」
「今日は小さめにしました。食べやすい方がいいかと思って」
「そっか。昔は大きいのが好きだったのにね」
「今も好きですよ。でも今日は、柔らかく煮えた方がいいでしょう」
「うん。それは助かる」
彼女は鍋を覗き込み、満足そうに頷いた。
それから、流し台の横に置かれた洗い物を見た。
「あ、もう洗ってくれたんだ」
「使ったものだけですよ」
「私、料理の途中で洗うの苦手だったなあ」
「覚えてます。いつも最後に山になってましたよね」
「そんなにひどかった?」
「父さんが洗おうとして、皿を割ったこともありました」
「あったねえ。あれ、お気に入りだったのに」
沙耶さんは声を立てて笑った。
あのとき、父は割れた皿を片づけながら、もう二度と洗い物はしないと言い張っていた。沙耶さんは呆れていたが、結局、翌日にはまた父のために食事を用意していた。
今でもその光景を覚えている。
父との結婚が終わったからといって、あの家に楽しい時間がなかったことにはならない。
沙耶さんも、同じように覚えていてくれたらしい。
「航平くん、私、そろそろ座ってくるね」
「はい。できたら呼びます」
「うん。楽しみにしてる」
彼女はゆっくり居間へ戻っていった。
俺は鍋に蓋をし、火を少し弱めた。
居間からはテレビの小さな音が聞こえてくる。ニュース番組が終わり、旅番組が始まったらしい。
沙耶さんは、ときどき画面に向かって何かを呟いていた。
その声を聞きながら、俺は鍋の様子を確かめた。
不思議な気分だった。
先週、映画館の近くの喫茶店で、俺は沙耶さんに告白した。
彼女は俺を息子として大切に思っていると言い、恋愛相手としては見られないと答えた。
それなのに今、俺は彼女の台所でカレーを作っている。
何もなかった頃に戻れたわけではない。
けれど、沙耶さんが俺に何かを頼み、俺がそれに応えることはできる。
今は、それで十分だと思うことにした。
◇
カレーができあがったのは、午後二時を少し過ぎた頃だった。
沙耶さんには小さめの皿に盛り、俺も自分の分をよそった。二人分の皿と水の入ったグラスをテーブルに並べると、彼女は嬉しそうに手を合わせた。
「いただきます」
「どうぞ」
沙耶さんはスプーンで少量をすくい、ゆっくり口へ運んだ。
俺は、彼女の反応を待っていた。
「……おいしい」
その一言に、肩の力が抜けた。
「よかった。辛くないですか?」
「うん。ちょうどいいよ。野菜も柔らかいし」
彼女はもう一口食べ、少し考えるように首を傾げた。
「でも、私のカレーとは違うね」
「そりゃ、作り方が違いますから」
「何を入れたの?」
「特別なものは入れてませんよ。玉ねぎを少し長く炒めたくらいです」
「へえ。今度、私もやってみようかな」
沙耶さんは興味深そうに聞いていたが、すぐに自分の皿へ視線を戻した。
食べる速さはゆっくりだった。
途中で何度かスプーンを置き、水を飲んで休んでいる。
俺は自分の皿を食べ終えたあとも、彼女を急かさずに待った。沙耶さんはテレビから聞こえてくる旅番組の話をしたり、カレーの具について注文をつけたりしながら、少しずつ食べ進めていく。
やがて、空になった皿を見て、満足そうに息をついた。
「ごちそうさま。久しぶりにちゃんと食べられた気がする」
「無理してませんか?」
「してないよ。本当においしかった」
彼女が笑ったので、俺もようやく自分のグラスに手を伸ばした。
食器を台所へ運び、残ったカレーを保存容器に分ける。
沙耶さんはソファに座り、テレビの旅番組を眺めていた。画面には海沿いの街並みが映り、港を歩く人たちの姿が見えた。
洗い物を終えて居間へ戻ると、沙耶さんが向かいの椅子を指さした。
「少し座っていかない?」
「疲れてませんか?」
「うん。横になりたくなったら言うから」
俺は頷き、椅子へ腰を下ろした。
テレビでは、港町の小さな食堂が紹介されていた。名物の魚料理が運ばれてくると、沙耶さんはおいしそう、と呟いた。
「さっきカレー食べたばっかりじゃないですか」
「おいしそうなものは、いつ見てもおいしそうなんだよ」
「それは分かりますけど」
彼女は笑い、湯飲みを両手で包んだ。
しばらく、二人でテレビを眺めながら他愛のない話をした。
大学時代に友人と出かけた海のこと。昔、父が旅行の計画を立てるたび、出発時間ばかり気にしていたこと。沙耶さんが一人で旅行したとき、帰りの電車を間違えてしまったこと。
そのうち、彼女が少し眠そうに目を細め始めた。
「そろそろ帰りますね」
俺が立ち上がると、沙耶さんは驚いたように顔を上げた。
「もう?」
口にしてから、少し困ったように笑った。
「あ、ごめん。引き留めちゃったね」
「いえ。眠そうだったから」
「そうだね。ちょっと休もうかな」
彼女は湯飲みを置き、ソファの背もたれに体を預けた。
俺は鞄を肩に掛け、台所の戸締まりを確かめた。
沙耶さんはその様子を眺めていたが、俺が玄関へ向かおうとすると、もう一度声をかけてきた。
「航平くん」
「はい」
「今日、来てくれてありがとう」
「こちらこそ。カレー、食べてもらえてよかったです」
彼女は小さく頷いた。
それから、少しだけ言いにくそうに続けた。
「……この前のこと、まだちゃんと話せてないね」
俺は鞄の肩紐を握り直した。
「無理に話さなくてもいいですよ」
「うん。でも、なかったことにしたいわけじゃないの」
沙耶さんは俺を見ていた。
先週、喫茶店で告白したときとは違い、その声は落ち着いていた。
「今日はね、航平くんに会いたかったの。カレーも食べたかったけど、それだけじゃなくて」
俺はすぐには答えられなかった。
彼女は少し笑い、視線を落とした。
「ごめんね。今は、まだうまく言えないんだけど」
「……はい」
沙耶さんは頷き、湯飲みに手を伸ばした。
俺もそれ以上は尋ねなかった。
彼女が何を考えているのか、今の俺には分からない。
けれど、今日こうして一緒に過ごせたことまで、疑う必要はないと思った。
「じゃあ、また連絡します」
「うん。待ってるね」
沙耶さんはソファに座ったまま、手を振ってくれた。
俺も手を振り返し、玄関を出た。
◇
それからの二週間、俺たちは少しずつ以前のような時間を取り戻していった。
沙耶さんの体調には波があり、何日も家で休んでいることもあれば、近所へ買い物に出かけられる日もあった。
メッセージのやり取りは、ほぼ毎日のように続いた。
沙耶さんからは、近所のパン屋で買った菓子パンの写真が送られてきたり、読んでいる本の感想が届いたりした。俺も仕事であったことや、気になっている映画の話を送った。
ただ、以前と少し違うこともあった。
沙耶さんは、俺の予定をよく尋ねるようになった。
最初は、仕事が忙しいのではないかと気遣ってくれているのだと思っていた。
けれど、ある金曜日の夜、週末は大学時代の友人と会う予定があると伝えると、彼女は意外なことを言った。
『そっか。じゃあ、今週は会えないね』
俺はしばらく画面を見つめた。
沙耶さんが、自分からそんなことを言うのは珍しかった。
『日曜日の午後なら空いてますよ』
そう返信すると、少し間を置いて返事が届いた。
『無理しなくていいよ。お友達ともゆっくり楽しんできて』
それから、もう一通。
『でも、もし元気が残ってたら、少し顔を見せてくれると嬉しいな』
俺は思わず笑ってしまった。
翌日、久しぶりに大学時代の友人たちと会った。
昼過ぎから食事をして、仕事の話や昔の失敗談で盛り上がる。友人の一人は結婚が決まったらしく、来年には式を挙げると言っていた。
俺も祝福した。
けれど、帰りの電車でふと沙耶さんのことを考えた。
彼女と結婚することはできない。
それは、父と離婚した今も変わらない。
それに、彼女には病気がある。
同年代の友人がこれからの家庭や仕事の話をしている間、俺は沙耶さんと次に会う日のことばかり考えていた。
それでも、嫌だとは思わなかった。
誰かと比べて選んだわけではない。
俺が会いたいのは、沙耶さんだった。
日曜日の午後、彼女のマンションを訪ねた。
特に何か用事があったわけではない。沙耶さんも体調がよく、今日は自分でお茶を淹れると言って台所に立った。
居間へ入ると、テーブルには小さな菓子箱が置かれていた。
「これ、どうしたんですか?」
「昨日、買い物に行ったときに見つけたの。航平くん、甘いもの好きでしょう?」
箱の中には、焼き菓子がいくつか入っていた。
「ありがとうございます。でも、わざわざ買ってくれたんですか?」
「私も食べたかったから」
沙耶さんは悪びれずに言い、二人分の皿を用意した。
今日は先週より顔色がよく、髪もきれいに整えられていた。耳には小さな銀色のイヤリングが光っている。
以前の家でも、ときどきつけていたものだった。
「それ、懐かしいですね」
俺が言うと、沙耶さんは耳元に手を触れた。
「これ?」
「はい。昔もつけてましたよね」
「覚えてたんだ」
「結構、気に入ってたでしょう」
「うん。引っ越しのときに見つけたの。しばらくしまったままだったんだけど」
沙耶さんは少し笑った。
「変じゃない?」
「全然。似合ってますよ」
何気なく答えたつもりだった。
けれど、彼女はすぐには返事をしなかった。
耳元に触れていた手を下ろし、少しだけ視線をそらしてから、ありがとう、と言った。
俺も急に恥ずかしくなり、テーブルの菓子箱へ目を落とした。
以前なら、こんな言葉を交わしても何とも思わなかったかもしれない。
いや、少なくとも俺は、沙耶さんに似合うと言っただけで、こんな気持ちにはならなかった。
彼女が持ってきたお茶を飲み、焼き菓子を食べながら、昨日会った友人たちの話をした。
沙耶さんは、大学時代の友人が今どんな仕事をしているのか、興味深そうに聞いていた。
結婚する友人の話になると、おめでたいね、と笑った。
そのあと少しだけ会話が途切れたが、彼女は別の話題を探すこともなく、窓の外を眺めていた。
俺は何となく、彼女の横顔を見てしまった。
沙耶さんがこちらを向いたので、慌ててお茶を飲んだ。
「……航平くん?」
「いえ、何でもないです」
「そう?」
彼女は少し不思議そうに笑った。
それからは、普段と変わらずに話をした。
仕事のこと。最近読んだ本のこと。先日テレビで紹介されていた店のこと。
いつもなら何でもない時間だった。
それなのに、ときどき目が合うたび、妙な緊張が生まれる。
沙耶さんも、以前より少しだけ言葉を選んでいるように見えた。
夕方になり、俺はそろそろ帰ることにした。
沙耶さんは玄関まで見送りに来た。
「今日はありがとう」
「こちらこそ。お菓子、ごちそうさまでした」
「また買っておくね」
「そんなに気を遣わなくても」
「いいの。私も好きなんだから」
沙耶さんはそう言って笑った。
靴を履き終え、俺が立ち上がると、彼女は少しだけ口を開きかけた。
何か言おうとしているようだった。
「どうかしました?」
「ううん」
沙耶さんは首を振った。
「……また、来てね」
「はい。もちろんです」
そう答えると、彼女はほっとしたように笑った。
俺は玄関を出た。
廊下を歩きながら、さっきの彼女の顔を思い出した。
少し照れたような、何かを言いかけてやめたような表情。
それが何を意味するのか、俺には分からなかった。
ただ、帰るのが惜しかったのは、俺だけではなかったのかもしれない。
そんなことを考えてしまった。
◇
次の土曜日、沙耶さんから朝のうちに連絡が届いた。
『今日は調子がいいよ。もし時間があったら、あのお店に行かない?』
川沿いの喫茶店だった。
二週間前、体調を崩して行けなかった場所。
俺は予定を確かめ、すぐに返事をした。
『大丈夫です。何時にしますか?』
『十一時くらいでどうかな』
『分かりました。現地で待ち合わせましょう』
送信すると、沙耶さんから了解の返事が届いた。
俺は身支度を整え、少し早めに家を出た。
川沿いの道は、以前一緒に本屋へ向かったときと変わらなかった。遊歩道には犬を連れた人たちが歩き、ベンチでは年配の男性が新聞を読んでいる。
喫茶店は、川の少し下流にあった。
大きな窓が特徴的な、古い建物だった。
入口の横には小さな看板が置かれ、手書きの文字で本日のおすすめが書かれている。
ガラス越しに店内を覗くと、窓際には丸いテーブルがいくつか並んでいた。
沙耶さんは、まだ来ていないようだった。
俺は入口の近くで待つことにした。
しばらくして、川沿いの道を歩いてくる沙耶さんが見えた。
今日は薄い色のワンピースにカーディガンを羽織り、肩には小さなバッグを掛けている。
こちらに気づくと、少し手を上げた。
「お待たせ、航平くん」
「いえ、俺も今来たところです」
「本当?」
「……十分くらいです」
「やっぱり」
沙耶さんは笑った。
映画館で待ち合わせた日と、よく似たやり取りだった。
けれど、今日は不思議と落ち着いていた。
沙耶さんも、いつもどおりに見えた。
「じゃあ、入ろうか」
「はい」
二人で店の扉を開けた。
◇
店内には、古い木材とコーヒーの香りが漂っていた。
入口の近くには小さな本棚があり、文庫本や雑誌が並んでいる。壁には昔の街並みを写した写真が飾られ、天井の照明は少し黄みがかった光を落としていた。
沙耶さんは店内を見回し、懐かしそうに笑った。
「ほとんど変わってない」
「前に来たのって、何年前ですか?」
「もう八年くらいになるかな。結婚する少し前だったと思う」
彼女は窓際の席を見た。
「あの辺りによく座ってたんだよね」
窓からは川が見えた。
遊歩道を歩く人たちや、橋を渡る自転車が、少し高い位置から眺められる。
店員に案内され、俺たちは窓際の丸いテーブルに座った。
向かい合った二つの椅子。
沙耶さんはバッグを隣に置き、窓の外を眺めた。
「懐かしいなあ」
その声は、少し弾んでいた。
昔、仕事帰りに一人で立ち寄り、本を読んでいたこと。雨の日には、窓を流れる水滴を眺めながら長居したこと。店員とは顔なじみだったが、あまり話をせずに過ごすのが好きだったこと。
沙耶さんは店の中を見回しながら、そんな話をしてくれた。
メニューを開くと、昔からあるらしいブレンドコーヒーの名前が載っていた。沙耶さんはそれを見つけ、迷わず注文した。
俺も同じものを頼む。
しばらくして運ばれてきたコーヒーは、少し苦みが強かった。
沙耶さんは一口飲み、懐かしそうに目を細めた。
「この味だ」
「昔と同じなんですか?」
「うん。たぶんね」
彼女はカップを両手で包み、窓の外へ目を向けた。
川面に陽光が反射している。水鳥が一羽、流れに逆らうように泳いでいた。
しばらく、二人でその景色を眺めた。
窓際の席は、思っていたより静かだった。
店内には何組か客がいるものの、誰も大きな声では話していない。コーヒーを淹れる音や、ページをめくる音が、ときどき聞こえてくる。
沙耶さんはカップを置き、椅子の背もたれへ体を預けた。
「昔はね、ここへ来ると、誰とも話さずに帰ることもあったんだよ」
「そうなんですか」
「うん。一日中仕事で人と話してると、たまには静かに過ごしたくなるでしょう?」
俺も頷いた。
休日に一人で映画館へ行くときには、少し似た気分になることがある。誰かと感想を話すのも楽しいけれど、一人で余韻を楽しみたい日もある。
そう話すと、沙耶さんは少し笑った。
「航平くんも、そういう時間が好きなんだね」
「はい。でも、今日は一緒でよかったです」
何気なく答えたつもりだった。
沙耶さんはカップに伸ばしかけた手を止め、それから小さく頷いた。
「……私も」
彼女はそう言って、窓の外へ目を向けた。
川沿いの遊歩道を、若い男女が並んで歩いている。
沙耶さんはその姿をしばらく眺めていたが、やがて俺の方へ顔を戻した。
「航平くん。少し、話してもいい?」
「はい」
彼女はカップをテーブルに置いた。
いつものように笑っていたが、その表情には少し緊張が混じっているように見えた。
「この前、映画を観た日のことなんだけど」
俺は黙って頷いた。
沙耶さんは少し視線を落としたあと、ゆっくり話し始めた。
「あのとき、私は本当にびっくりしたの。航平くんがそんなふうに思ってくれてたなんて、考えたこともなかったから」
窓の外を、自転車が一台通り過ぎた。
「それに、昔のこともあるでしょう。あの二年間は、私にとっても大切な時間だったから」
「……はい」
「だから、断ったのは本当の気持ちだったんだよ」
沙耶さんは俺を見た。
俺も頷いた。
そのことは分かっていた。
彼女があの日、どれほど戸惑っていたかも覚えている。
「でもね」
沙耶さんは少しだけ笑った。
「航平くんが来なくなった一週間、結構長かったんだ」
俺は顔を上げた。
彼女は、言葉を探すように少し考えていた。
「前なら、元気にしてるかなって思うくらいだったのに。あのときは、何度も連絡しようか迷っちゃって」
沙耶さんは困ったように笑った。
「それで、あのお店のことを思い出したの」
窓際のテーブルへ視線を落とし、指先でカップの取っ手に触れる。
「一人で来るのが好きだった場所なのに、どうしても航平くんと一緒に来てみたくなって」
俺は何も言えなかった。
沙耶さんが、自分の言葉で続きを話そうとしているのが分かったからだ。
「でも、約束した日に具合が悪くなっちゃったでしょう?」
「はい」
「あのとき、すごく残念だったの」
彼女は少し笑った。
「カレーを作ってくれるって言ってくれたときも、もちろん嬉しかったよ。でもね、食べ終わって、航平くんが帰ろうとしたとき……もう少し一緒にいてほしかった」
俺は、あの日のことを思い出した。
眠そうだった沙耶さん。
帰ろうとした俺に、もう帰るの、と尋ねた声。
あのとき、彼女は何かを言いかけていた。
今になって、その続きを聞いているような気がした。
「この前もね、帰るときに引き留めそうになっちゃった」
沙耶さんは、少し恥ずかしそうに笑った。
「航平くんに予定があるのは分かってるし、無理に来てもらいたいわけじゃないの。でも、帰るって聞くと、もう少し話していたくなるの」
彼女はそこで言葉を止めた。
俺は、窓から差し込む光の中で、その横顔を見ていた。
昔の沙耶さんなら、俺が家を出るとき、気をつけてね、と笑って送り出してくれただろう。
今も彼女は、同じように見送ってくれる。
けれど、あの日は少し違っていた。
「……沙耶さん」
名前を呼ぶと、彼女は顔を上げた。
「俺は、これからも会いに来たいです」
沙耶さんは小さく頷いた。
「うん。ありがとう」
それから、少しだけ視線を落とした。
「でもね、航平くん。私、怖いんだ」
その言葉には、先ほどまでとは違う重さがあった。
彼女は窓の外へ目を向けたまま、しばらく黙っていた。
川沿いを歩く人たちの姿が、ガラス越しに見える。
「私には、これから先の約束ができないでしょう」
俺は何も言わなかった。
沙耶さんの病気が治らないことは、分かっている。
今日こうして一緒に過ごせても、来週また同じように会えるとは限らない。
彼女は、それを誰よりよく知っているのだろう。
「それに、昔は親子として暮らしてた。そのことも、なかったことにはできない」
沙耶さんは俺の方を向いた。
「だから、航平くんに好きだって言われたとき、受け入れちゃいけないと思ったの」
俺は静かに頷いた。
彼女はカップの取っ手に触れたまま、しばらく黙っていた。
やがて、少しだけ笑った。
「でも……断ったあとも、航平くんに会いたかった」
その言葉は、ほとんど囁くような声だった。
「病気のことを心配してほしいわけでも、何かしてもらいたいわけでもなくて。ただ、会いたかったの」
俺は息を詰めた。
沙耶さんは俺を見つめていた。
「この前、航平くんがイヤリングを褒めてくれたでしょう?」
「……はい」
「嬉しかった」
彼女は少し照れくさそうに笑った。
「昔だって、褒めてもらったことはあったのにね。あの日は、何だかすごく恥ずかしくなっちゃって」
俺も、あのときの彼女の顔を思い出した。
ありがとう、と言ったあと、少し目をそらしていた。
俺が黙っていると、沙耶さんはカップから手を離した。
「……航平くんのこと、好きになったみたい」
すぐには返事ができなかった。
沙耶さんは、困ったように笑っていた。
けれど、目をそらさなかった。
「自分でも、いつからなのか分からないの。でも、今は……航平くんと一緒にいたい」
俺はテーブルの下で手を握りしめた。
十六歳の頃から、ずっと好きだった。
忘れようとして、五年間も会わずにいた。
もう二度と会えないかもしれないと思ったこともあった。
その人が今、自分を好きだと言ってくれている。
けれど、嬉しさと同じくらい、彼女の言葉の重さが胸に残った。
「……俺は」
声が少し震えた。
沙耶さんは、黙って続きを待っていた。
「俺も、沙耶さんと一緒にいたいです」
ようやく、それだけ言えた。
彼女は小さく頷いた。
「うん」
沙耶さんの目元が、少しだけ緩んだ。
俺も、ようやく息を吐いた。
窓の外では、川沿いを歩く人たちが行き交っている。水鳥はいつの間にか姿を消し、代わりに小さな子どもが橋の上から川を覗き込んでいた。
店員が隣のテーブルへコーヒーを運んできた。
いつもと変わらない午後だった。
それなのに、向かいに座る沙耶さんの顔を、これまでとは少し違う気持ちで見ていた。
彼女も、少し照れくさそうに笑っていた。
「……ねえ、航平くん」
「はい」
「これからも、会いに来てくれる?」
「もちろんです」
沙耶さんは頷いた。
「私も、会いたいときは連絡するね」
「はい」
「でも、体調が悪い日は、また予定を変えてもらうかもしれないけど」
「それは構いません」
彼女は安心したように息をついた。
俺はカップを手に取り、残っていたコーヒーを飲んだ。
少し苦かった。
けれど、その味を忘れたくないと思った。
◇
喫茶店を出ると、午後の日差しが川面に反射していた。
沙耶さんは入口の前で一度立ち止まり、ゆっくり周囲を見回した。
「変わってなかったね、あのお店」
「そうですね。いいお店でした」
「うん。また来たいな」
彼女はそう言って、俺の隣へ並んだ。
川沿いの道を、駅の方へ向かって歩き始める。
まだ、何を話せばいいのか分からなかった。
沙耶さんも少し照れているのか、さっきから何度か俺の顔を見ては、すぐに前を向いていた。
しばらく歩いたところで、彼女が口を開いた。
「ねえ、航平くん」
「はい」
「さっきのこと、後悔しない?」
俺は彼女の方を見た。
沙耶さんは、前を向いたままだった。
川沿いの風が、彼女のカーディガンの裾を揺らしている。
俺は少し考えた。
これから先、何が起きるかは分からない。
沙耶さんの病気がどうなるのかも、二人でどれくらいの時間を過ごせるのかも。
けれど、今、彼女と一緒に歩いていることだけは確かだった。
「……後悔は、しません」
俺が答えると、沙耶さんはこちらを向いた。
「本当に?」
「はい。沙耶さんと会わなかった五年間の方が、ずっと後悔してます」
彼女は少し驚いた顔をした。
それから、困ったように笑った。
「もう。そんなこと言って」
俺も笑った。
しばらく歩くと、川沿いの道が少し狭くなった。
向こうから自転車が近づいてきたので、俺は端へ寄ろうとした。
そのとき、沙耶さんが俺の袖を軽くつまんだ。
振り返ると、彼女は少し照れくさそうに笑っていた。
「……手、つないでもいい?」
俺は答える代わりに、手を差し出した。
沙耶さんの指が、ゆっくり俺の手に触れた。
そのまま、彼女の手を握る。
思っていたより、小さな手だった。
以前、体調を崩した沙耶さんを支えたときにも、手を取ったことはある。
けれど、今日は違った。
彼女は自分から俺の手を握り、並んで歩き始めた。
川沿いの道には、午後の穏やかな風が吹いていた。
俺は歩幅を少し緩め、沙耶さんと同じ速さで歩いた。




