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母と呼ばなくていいと言ったあなたに、恋をした。  作者: 澄野 朔


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第5話 その先の土曜日

 恋人になって最初の土曜日、沙耶さんは俺のために昼食を用意してくれた。


 約束の時間より少し早くマンションに着いた俺を、彼女はエプロン姿で迎えてくれた。台所からは焼いたパンの香りが漂い、テーブルには二人分のサンドイッチと野菜のスープが並んでいる。


「今日は私の番」


 沙耶さんは少し得意そうに言った。


「この前はカレーを作ってもらったでしょう? だから今日は、私が作りたかったの」


「でも、体調は大丈夫なんですか?」


「うん。今日はいい日。朝から楽しみにしてたんだから、食べてくれないと困るな」


 そう言われては、もう何も言えなかった。


 椅子に腰を下ろすと、沙耶さんは俺の向かいに座り、どうぞ、と皿を勧めてくれた。パンは軽く焼かれていて、中には卵と薄切りのきゅうりが挟まっている。昔、実家で食べたものと同じだった。


「おいしいです」


「本当?」


「はい。懐かしい味ですね」


 沙耶さんは嬉しそうに笑った。


「航平くん、これ好きだったもんね。高校生の頃、朝から三つも食べてたでしょう?」


「成長期でしたから」


「今は二つで足りる?」


「……もう一つもらっていいですか」


「やっぱり」


 彼女は声を立てて笑い、自分の皿から一切れ分けてくれた。


 恋人になったといっても、二人の会話が急に変わるわけではなかった。仕事の話をすれば、沙耶さんは以前と同じように興味深そうに聞いてくれる。俺が失敗した話をすると、笑いながらも最後まで聞き、結局どうなったの、と続きを促してくれる。


 ただ、ふとした瞬間に目が合うと、どちらからともなく笑ってしまうことがあった。


 食事を終えて二人で台所に立ったときも、そうだった。


 沙耶さんが洗った皿を俺が受け取り、布巾で拭いて棚へ戻す。狭い台所なので、食器を受け渡すたびに手が触れた。


「……なんだか照れるね」


 沙耶さんが言った。


「何がですか?」


「こうして一緒に台所に立ってること」


 彼女は水を止め、濡れた手を布巾で拭いた。


「昔も似たようなこと、してたのにね」


 俺も覚えていた。


 食器を洗う沙耶さんの隣で、俺が拭く係を引き受けたことがある。あの頃は皿を片づけるのが面倒で、できれば早く部屋へ戻りたかった。


 今は、もう少しこのままでいたかった。


 最後の皿を棚へ戻すと、沙耶さんが俺の手にそっと触れた。振り向くと、彼女は少し見上げるように俺を見ていた。


 そのまま、空いている方の手を持ち上げかけた。


 けれど、指先が俺の肩のあたりまで来たところで動きを止め、何事もなかったように下ろした。代わりに、つないでいた方の手を少し強く握り直す。


「……お茶、淹れようか」


 沙耶さんが笑った。


「俺がやりますよ」


「いいの。今日は私の番なんだから」


 彼女は指をほどき、戸棚から二人分のカップを取り出した。俺が茶葉の入った缶を探していると、そっちじゃなくて右の棚、と教えてくれる。


 台所の窓からは、六月の明るい光が差し込んでいた。洗い終えた食器が水切りかごの中で乾き、居間の時計が小さく時を刻んでいた。


     ◇


 その日、沙耶さんから本を一冊借りた。


 食後に居間でくつろいでいると、彼女が本棚から文庫本を取り出してきたのだ。


「これ、面白かったよ」


「どんな話ですか?」


「知らない町へ行く話」


「旅行記ですか?」


「ううん。小説。でも、あんまり大きな事件は起きないの」


 沙耶さんは本を開き、何ページかめくった。


「主人公が知らない町を歩いて、いろんな人と出会うの。何でもない話なんだけど、読んでると自分もそこを歩いてるみたいでね」


 以前、一緒に本屋へ行ったときも、彼女は似たようなことを言っていた。


 知らない場所へ行くのが好き。自分の知らない町や店を見つけると、少し遠くても出かけたくなる。今は以前のように自由に歩き回れない日もあるが、本を読めば遠くへ行った気分になれるのだという。


 俺は裏表紙のあらすじを読もうとして、沙耶さんに笑われた。


「航平くん、相変わらず真面目だねえ」


「どんな話か気になるじゃないですか」


「読めば分かるよ」


「それはそうですけど」


 彼女は楽しそうに笑い、本を俺に手渡した。


「貸してあげる。読み終わったら、感想を聞かせて」


「分かりました。次に来るまでに読んでおきます」


「急がなくていいよ。面白くなかったら途中でやめてもいいし」


 俺は本を鞄へしまった。


 そのあと、二人で近くの川沿いを散歩した。


 桜並木はすっかり葉が茂り、遊歩道には柔らかな木陰が続いていた。沙耶さんは俺の手を握り、時折立ち止まって川を眺めた。


 少し歩いたところで、彼女が木陰のベンチを指さした。


「ちょっと座っていこうか」


 隣に腰を下ろすと、頭上で葉が風に揺れる音がした。


 六月の日差しは強かったが、木陰に入ると涼しい。川の向こうでは、子どもたちが自転車を止め、水面を覗き込んでいた。


 沙耶さんは俺の肩に少し体を寄せた。


「こういうの、いいね」


「散歩ですか?」


「うん。それもあるけど」


 彼女はそこで言葉を切り、俺の手を握り直した。


 俺は少しだけ体の向きを変え、彼女が楽に寄りかかれるようにした。沙耶さんは何も言わず、しばらく川を眺めていた。


 十六歳の頃から好きだった人が、今は自分の隣に座っている。


 彼女の方から手をつなぎ、肩を寄せてくれる。まだ慣れないことばかりだったが、それを急いで変えたいとは思わなかった。


 沙耶さんの髪が風に揺れ、俺の肩に触れた。


 しばらくして彼女が立ち上がったので、俺も腰を上げた。


「もう少し歩けそうですか?」


「うん。今日は大丈夫」


 沙耶さんは笑い、俺の手を取った。


 桜の枝の間から、明るい空が見えていた。


     ◇


 七月になり、八月になった。


 暑さが厳しくなると、沙耶さんと外を歩く機会は減った。体調のよい日でも、日差しの強い時間に長く出かけるのは負担になる。俺たちは家で過ごすことが増えた。


 ときには一緒に料理を作り、ときには借りてきた映画を観た。


 沙耶さんは相変わらず、映画の途中でも遠慮なく感想を口にした。


「この人、絶対何か隠してるよね」


「まだ分かりませんよ」


「だって、さっきから怪しいもの」


「沙耶さん、最後まで観る気あります?」


「あるよ。だから気になるんでしょう?」


 結局、彼女の予想が当たることもあれば、まったく違う結末になることもあった。


 映画が終わると、二人で感想を話した。俺が気に入った場面を彼女はあまり覚えていなかったり、逆に、俺が見落としていた何気ない会話を面白がったりする。そういう違いを知ることも、楽しかった。


 あの古い映画館で、思わず本心を口にしてしまった日のことも、ときどき話題になった。


 沙耶さんは一度、あの映画をもう一回観てみたいと言った。


「今度は、ちゃんと恋愛映画だって分かってるから」


「それなら、前みたいに驚かなくて済みますね」


「そうかなあ」


 彼女はいたずらっぽく笑った。


「航平くんの隣で観たら、また違う気がする」


 俺が返事に困ると、沙耶さんは満足そうに笑い、次に観る映画を探し始めた。


 俺には仕事があり、沙耶さんにも通院や治療の予定があった。毎日会えるわけではなかったし、約束していた日に体調が悪くなり、会えなくなることもあった。


 そういう日は、無理に会いに行かなかった。沙耶さんが一人で過ごしたい日もあれば、電話で少し話したい日もある。調子の悪いことを隠さず教えてくれるようになったのが、俺にはありがたかった。


 彼女も、俺の仕事の予定をよく覚えていた。


 大きな会議がある日の朝には、頑張ってね、とメッセージを送ってくれる。帰りが遅くなれば、ちゃんと夕飯は食べたの、と気遣ってくれた。


 八月の終わり、仕事が忙しくなった俺は、二週間ほど週末に顔を出せなかった。


 ある金曜日の夜、沙耶さんから電話があった。


「航平くん、まだ仕事?」


「いえ、今日はもう帰ってます」


「そっか。よかった」


 電話の向こうから、テレビの小さな音が聞こえた。


 彼女は俺が以前勧めた映画を観ていたらしく、途中で分からなかった場面について話し始めた。俺が説明すると、それなら最初からそう言ってくれればいいのに、と笑う。


 そんなやり取りをしているうちに、三十分近く経っていた。


「……あのね、航平くん」


「はい」


「明日のお仕事は?」


「今のところ休めそうです」


「じゃあ、会える?」


「もちろんです」


 沙耶さんは少し黙ったあと、嬉しそうに笑った。


「よかった。久しぶりだね」


 翌日、マンションへ行くと、彼女は俺の好きな飲み物を冷やして待っていてくれた。


 暑いでしょう、とグラスを渡され、二人で居間のテーブルを挟んで座る。窓の外では、強い日差しに照らされた建物の壁が白く光っていた。


 その日は映画も観ず、特別なことは何もしなかった。


 沙耶さんは俺が話す仕事の失敗談を面白がり、俺は彼女が最近読み始めた本の話を聞いた。冷たい飲み物をお代わりしているうちに、午後の陽が少し傾いていた。


 帰り際、沙耶さんは玄関で俺の手を握った。


「来週も会える?」


「はい。今度はちゃんと休めると思います」


「そっか」


 彼女は嬉しそうに頷いた。


「じゃあ、また来週」


 俺も頷き、手を振って玄関を出た。


 次に会う日が決まっている。それだけで、帰りの電車に乗るのが少し楽になった。


     ◇


 十月の終わり、久しぶりに二人で川沿いを歩いた。


 夏の間、濃い緑だった桜の葉は、赤や黄色に色づいていた。ところどころ枝が透けて見え、風が吹くたびに乾いた葉が遊歩道へ落ちてくる。


 沙耶さんは薄いコートを羽織り、俺の隣を歩いていた。


 歩く速さは、六月の頃より遅くなっていた。以前は木陰のベンチまで続けて歩けたのに、今は途中で立ち止まることが増えている。


「ちょっと、あそこで休もうか」


 沙耶さんが指さしたのは、川沿いの小さなベンチだった。


 俺は頷き、二人で腰を下ろした。


 風が吹き、足元を数枚の落ち葉が転がっていった。沙耶さんはバッグから小さな水筒を取り出し、一口飲んだ。


「今日は、ここまでかな」


「無理しなくていいですよ。帰りはタクシーにしましょう」


「うん。そうしようかな」


 彼女は水筒をしまい、桜並木を見上げた。


「ずいぶん葉っぱが落ちたね」


「もう秋ですからね」


「六月は、あんなに青かったのに」


 俺も頭上を見た。


 葉の少なくなった枝の間から、薄い雲が流れていくのが見えた。


「この道ね、春はすごくきれいなんだよ」


 沙耶さんが言った。


「桜がずっと向こうまで咲いて、花の下を歩けるの。昔、仕事の帰りに見に来たことがあるんだけど」


「そうなんですか」


「うん。昼間だと、もっときれいなんだろうなって思った」


 彼女は川の方へ目を向けた。


 水面には、赤く色づいた葉が一枚浮かんでいた。


「今年は見られなかったね」


 その言葉に、俺は少し考えた。


 春には、まだ沙耶さんと再会したばかりだった。二人で出かけるようになった頃には、もう桜の花は終わっていた。


「じゃあ、来年は一緒に見に来ましょう」


 口にしてから、彼女の顔を見た。


 沙耶さんは、少し驚いたように俺を見ていた。


 すぐに笑ってくれると思っていたのに、返事がなかった。俺は何か言い足そうとして、やめた。


 沙耶さんは桜の枝を見上げた。


「……うん」


 しばらくして、彼女が言った。


「来たいな」


 その声は小さかったが、はっきり聞こえた。


 俺は頷いた。


 彼女も少し笑い、俺の手を握った。


 ベンチの前を、小さな子どもを連れた夫婦が通り過ぎていく。子どもは落ち葉を踏むたびに大きな音を立て、両親に何かを話しかけていた。


 沙耶さんはその様子を眺めていた。


 やがて、俺の肩に軽く頭を預けた。


「もう少し、こうしてていい?」


「はい」


 俺は彼女の手を握り直し、川の向こうを眺めた。


 風が吹くたびに葉が落ちてきたが、ベンチの周りにはまだ陽が差していた。


 しばらくして、沙耶さんが自分から立ち上がった。


「そろそろ帰ろうか」


「もう大丈夫ですか?」


「うん。今日は十分歩いたもの」


 彼女は笑い、俺の手を取った。


 帰りは駅まで歩かず、途中でタクシーを拾った。


 車に乗り込む前、沙耶さんはもう一度、桜並木を振り返った。


 俺も同じ方を見た。


 色づいた葉が、川沿いの道に降り積もっていた。


     ◇


 十一月になると、沙耶さんは外出することが少なくなった。


 それまでは少し休めば出かけられた日でも、朝から体が重く、起き上がるのが難しいことが増えた。食欲も落ち、以前はおいしそうに食べてくれたカレーも、今は少し口にするだけで十分だと言う。


 それでも、調子のよい日には自分で食べたいものを選び、少しずつ食べていた。俺が何か買ってこようかと尋ねると、遠慮なく頼んでくれることもあった。


「今日は、あのパン屋さんのスープが飲みたいな」


「分かりました。帰りに買ってきます」


「でも、売り切れてたら別のものでいいよ」


 俺は彼女の希望を聞き、買い物を済ませてからマンションへ向かった。


 沙耶さんはソファに毛布を掛け、テレビを眺めていた。テーブルには読みかけの本があり、窓際には小さな鉢植えが置かれている。六月の頃からあまり変わっていない部屋だったが、以前より静かに感じられた。


 俺がスープを温めていると、沙耶さんが居間から声をかけてきた。


「航平くん、あとで少し座ってくれる?」


「はい。もちろん」


「台所の片づけは、明日でもいいから」


 食事のあと、俺は彼女の隣に腰を下ろした。


 沙耶さんは毛布を少し直し、俺の肩に頭を預けた。窓の外は、もう暗くなり始めている。


「今日は、何時までいられる?」


「明日は休みなので、急いで帰らなくても大丈夫です」


「そっか」


 彼女はそれだけ言って、目を閉じた。


 俺はテレビの音を少し下げた。


 しばらくすると、沙耶さんの呼吸がゆっくりになった。眠ったのかと思い、体を動かさずにいると、彼女が小さな声で言った。


「航平くん」


「はい」


「私ね、先生と相談してきたの」


 沙耶さんは目を開け、ゆっくり顔を上げた。


 今の治療では病気の進行を抑えることが難しくなっていること。これからは痛みやつらさを和らげながら、できるだけ楽に過ごせる方法を考えていくこと。


 彼女は、医師から聞いた話を少しずつ教えてくれた。


 俺は分からないところだけを尋ねた。沙耶さんは疲れると話を休み、水を飲んでから続きを話した。


 すべてを聞き終えたあと、俺はしばらく何も言えなかった。


「……怖くないですか」


 ようやく尋ねると、沙耶さんは俺を見た。


「怖いよ」


 少しも迷わず、そう答えた。


 彼女は膝の上で両手を組み、窓の方へ目を向けた。


「だって、まだやりたいことがあるもの」


 その声は、いつもと変わらなかった。


「読んでない本もあるし、行ってみたいお店もあるし。それに……」


 そこで沙耶さんは、俺の方を向いた。


「航平くんと、もっと一緒にいたい」


 俺は彼女の手を取った。


 少し冷たかった。


 握り返してくれた指に、以前より力がないことが分かった。


「……俺もです」


 それ以上、何も言えなかった。


 沙耶さんは俺の顔を見て、少しだけ笑った。


「困ったね」


「……はい」


「こんなに、欲張りになるとは思わなかった」


 彼女はそう言って、俺の手を軽く揺らした。


 俺も笑おうとしたが、うまくできなかった。


 しばらくして、沙耶さんはもう一度俺の肩へ頭を預けた。窓の外では、街灯が点き始めている。俺は彼女の手を握ったまま、暗くなっていく部屋に座っていた。


 痛みが少しでも和らいでほしかった。


 夜には眠れて、明日は少しでも食事ができて、できればまた外を歩けるようになってほしかった。


 沙耶さんが苦しそうに息をするたび、俺は何かできることを探した。水は足りているか、毛布は重くないか、薬を飲む時間は大丈夫か。彼女に尋ねては、もう何も必要ないと笑われた。


 それでも、もう少しだけここにいたかった。


 やがて沙耶さんが眠ると、俺は毛布を掛け直し、彼女が目を覚ますまで隣にいた。


     ◇


 十二月に入って間もなく、沙耶さんは入院した。


 痛みが強くなり、自宅で過ごすのが難しくなってきたためだった。入院については、以前から医師と相談していたらしい。沙耶さんは、自分で決めたことだから心配しないで、と言った。


 入院の手続きには、俺も付き添った。


 書類を書いている途中、沙耶さんが緊急連絡先の欄を指さし、ここは航平くんでいいかな、と尋ねてきた。もちろんですと答えると、彼女は俺の電話番号を一桁ずつ確かめながら書き込んだ。


「これなら、何かあっても連絡がつくね」


 沙耶さんはそう言って、書類を揃えた。


 俺は仕事を終えてから、できるだけ病院へ通った。


 毎日行けるわけではなかった。残業になった日は電話で話し、彼女が疲れているときには、短いメッセージだけにした。


 病室へ行くと、沙耶さんは笑って迎えてくれた。


「いらっしゃい、航平くん」


 いつもの言葉だった。


 ベッドの横に椅子を置き、仕事の話や最近読んだ本の話をする。彼女は途中で疲れると目を閉じたが、しばらく休むと、また続きを聞きたがった。


 ある日、俺は映画雑誌を一冊持っていった。


 昔の邦画を特集していて、見覚えのある俳優の写真が大きく載っていた。


「これ、覚えてます?」


 ページを開いて見せると、沙耶さんは少し考え、それから笑った。


「ああ、あの映画の人だ」


「そうです。あのとき観たやつ」


「懐かしいねえ」


 彼女は写真を眺め、少し目を細めた。


「もうずいぶん前みたい」


「まだ一年も経ってないですよ」


「そうなんだけどね」


 沙耶さんは、俺が持っている雑誌へ手を伸ばした。受け取って何ページかめくったものの、やがて疲れたらしく、枕元へ置いた。


「今度、また一緒に観たいな」


「はい」


 俺は頷いた。


 彼女は少し笑い、窓の外へ目を向けた。


 その日の空はよく晴れていた。病室の窓は大きく、遠くに街の建物が見える。窓際の小さな棚には、沙耶さんが家から持ってきた本が数冊並んでいた。


「そういえば、この前貸した本、読み終わった?」


「まだです。半分くらいまでは読んだんですけど」


「そっか」


「最近、帰るとすぐ寝ちゃって」


「お仕事、忙しいもんね」


 沙耶さんは少し考え、それから笑った。


「じゃあ、楽しみが残ってるね」


「感想を聞くのがですか?」


「うん」


 俺も笑った。


「ちゃんと読みますよ」


「急がなくていいからね」


 彼女はそう言って、俺の手を握った。


 窓の外では、冬の陽がゆっくり傾いていた。


     ◇


 入院してから、沙耶さんは眠っている時間が増えた。


 以前は病室を訪ねると、俺が来る前から本を読んでいたり、テレビを観ていたりした。今は、椅子を引く音でようやく目を覚ますこともある。


 それでも、俺の顔を見ると、少し笑ってくれた。


「航平くん、来てたんだ」


「はい」


「そっか。よかった」


 仕事であったことを聞いてくれる日もあれば、好きな映画の話をしてくれる日もあった。何も話さず、手を握っているだけの日もあった。


 俺は病室へ行くたび、ベッドの横に椅子を寄せた。廊下から聞こえる足音や、病室に差し込む光の具合で、時間が少しずつ過ぎていくのが分かった。


 沙耶さんは自分でできることを大切にしていたが、必要なときには看護師や俺の手も借りた。以前なら何でもないようにしていた動作に、時間がかかることも増えていた。


 年末が近づいたある日の夕方、仕事を終えて病院へ向かうと、沙耶さんはベッドの上で起きていた。


 いつもより顔色が悪かった。


 俺が声をかけると、彼女は少し遅れて顔を向け、小さく笑った。


「今日は早かったね」


「ちょうど仕事が片づいたので」


「そっか。よかった」


 俺はコートを脱ぎ、いつもの椅子に腰を下ろした。


 沙耶さんは枕元のコップへ目を向けた。


「お水、少し取ってくれる?」


「はい」


 ストローのついたコップを渡すと、彼女は俺の手元を見ながら、ゆっくり水を飲んだ。以前より少し時間がかかり、飲み終えたあとも、しばらく自分の手を見つめていた。


「……今朝ね」


 沙耶さんが口を開いた。


「お水を飲もうとしたら、コップを落としそうになっちゃった」


 俺は彼女を見た。


「手に力が入らなくて。看護師さんがすぐ来てくれたから、何ともなかったんだけど」


 沙耶さんは、布団の上に置いた手を少し持ち上げた。


 指を握ってから、またゆっくり開く。


「昨日は、ちゃんと持てたんだよ」


 そう言って笑おうとしたが、途中でやめた。


 俺は何か言おうとして、言葉を探した。


 疲れているだけかもしれない。明日には、また少しよくなるかもしれない。そんなことが頭に浮かんだが、どれも口にはできなかった。


 沙耶さんは自分の手を布団へ戻し、窓の方を向いた。


 俺はその手に、そっと自分の手を重ねた。彼女の指がわずかに動き、俺の手に触れた。


 病室の外では、食事を運ぶワゴンの音がしていた。廊下を歩く人の声が近づき、やがて遠ざかっていく。


 沙耶さんはしばらく窓の外を見ていた。


 俺も同じ方を見たが、窓ガラスに映っている彼女の横顔が気になって、何度かそちらへ目を向けた。いつもなら、俺が黙っていると何か話しかけてくれる人だった。


 その日は、なかなか口を開かなかった。


 やがて、沙耶さんが自分から顔を戻した。


「航平くん、今日は寒かった?」


「結構寒かったですよ。川沿いの木も、もう葉っぱが全部落ちてました」


「そっか」


 彼女は少し懐かしそうに笑った。


「あの道、冬は空が広く見えるんだよね」


「そうですね。枝の向こうまでよく見えました」


 十月に一緒に歩いたときには、まだ赤や黄色の葉が残っていた。


 今はもう、枝だけになっている。病院へ向かう途中、俺は何度かあの道を通ったが、沙耶さんと並んで歩いたときよりも、ずいぶん広く感じられた。


「……春になったら、また歩きたいね」


 沙耶さんが言った。


 俺は彼女の方を向いた。


「はい」


 彼女は小さく頷き、握っていた俺の手を見た。


 しばらく、何も言わなかった。


 俺も急いで話題を変えようとはせず、彼女が顔を上げるのを待った。窓から差し込む夕方の光が、ベッドの端に届いていた。


「……航平くん」


「はい」


「もう少し、近くに来て」


 俺は椅子をベッドへ寄せた。


 沙耶さんは、まだ足りないというように手を伸ばしてきた。


 その手を取ろうとすると、彼女は俺の頬に触れた。


 少し冷たい指先だった。


 俺が顔を上げると、沙耶さんはじっと俺を見ていた。何か言おうとしているようにも見えたが、言葉は出てこなかった。


 彼女の指が、俺の頬をゆっくり撫でた。


 沙耶さんはそのまま手を離さず、もう少し顔を近づけてほしいというように、俺をそっと引き寄せた。


 俺は彼女の負担にならないよう、椅子から少し身を乗り出した。


 沙耶さんが目を閉じた。


 唇が触れた。


 ほんの短い時間だった。


 離れたあとも、俺はしばらく動けなかった。沙耶さんは頬に手を添えたまま、俺を見ていた。


 目が合うと、少し困ったように笑った。


「……びっくりした?」


「……はい」


 俺が答えると、沙耶さんは小さく笑った。


「私も」


 彼女はそう言って、少し照れくさそうに目を伏せた。


 俺はようやく息を吐いた。


 沙耶さんが俺の頬から手を下ろしたので、その手を取った。指先に触れると、彼女はゆっくり握り返してくれた。


「……嬉しかったです」


 やっと言えたのは、それだけだった。


 沙耶さんは俺を見た。


 何か言いかけたように唇が動いたが、声にはならなかった。代わりに、握った手に少しだけ力がこもった。


 俺も握り返した。


 しばらくして、沙耶さんはゆっくり体を戻し、枕に頭を預けた。呼吸を整えるまで、俺は椅子を寄せたまま待っていた。


 彼女は目を閉じていたが、眠ってはいなかった。


 俺の手を握ったまま、時折、指先に小さく力が入る。


 窓の外は、少しずつ暗くなっていた。


「……航平くん」


 沙耶さんが目を開けた。


「はい」


「好きだよ」


 俺は彼女の手を握り直した。


「俺も、好きです」


 沙耶さんは小さく頷いた。


 そのあとも、しばらく俺の顔を見つめていた。俺が少し照れて笑うと、彼女も口元を緩めた。


 帰る時間が近づいていたが、俺は立ち上がれなかった。


 沙耶さんも、手を離そうとはしなかった。


 やがて彼女のまぶたが重くなり、呼吸がゆっくりになっていった。眠ったのを確かめてから、俺は握っていた手をそっと布団の上へ戻した。


 離れようとしたとき、彼女の指がわずかに動いた。


 俺はもう一度だけ手を握り、しばらくしてから椅子を引いた。


 病室を出ると、廊下の窓には夜の街が映っていた。建物の向こうには小さな明かりがいくつも灯り、外を歩く人たちは厚いコートの襟を立てていた。


 俺はコートを着直し、エレベーターへ向かった。


     ◇


 翌日も病院へ行った。


 沙耶さんは前日より話すのがつらそうだったが、俺が来たことには気づいてくれた。ベッドの横に座ると、少し目を開け、いつものように笑おうとした。


 俺は仕事の話を少しだけした。


 大きな案件がようやく落ち着いたこと。年末には何日か休めそうなこと。


 沙耶さんは、ときどき小さく頷いてくれた。途中で眠ってしまったので、俺はしばらく彼女の手を握り、窓の外が暗くなるまで病室にいた。


 その翌日には、ほとんど会話ができなくなった。


 病室に入ると、沙耶さんは目を閉じていた。いつもの椅子に腰を下ろして手を取ると、以前より指が細く感じられた。手の甲には点滴のための処置があり、触れ方に気をつけながら、指先を包むように握った。


 名前を呼ぶと、沙耶さんは一度だけ目を開けた。


 俺の方を見たように思った。何か言おうとしているようにも見えたが、声にはならなかった。


「……ここにいますよ」


 俺はそう言い、彼女の手を握った。


 少しして、沙耶さんはまた目を閉じた。


 そのあとは、ほとんど眠っていた。何度か看護師が様子を見に来て、俺は邪魔にならないよう椅子を動かした。


 窓の外は、夕方になるにつれて少しずつ色を変えていった。


 病室の明かりがついた頃、看護師が来て、沙耶さんの体の向きをゆっくり変えた。俺はベッドから離れて見守り、処置が終わってから、また椅子を戻した。


 苦しくないようにしてほしかった。


 眠れるなら眠っていてほしかったし、痛みがあるなら少しでも和らいでほしかった。それなのに、目を開けて俺の名前を呼んでくれないかと、何度も彼女の顔を見てしまった。


 帰る時間になっても、手を離すのが難しかった。


 しばらく迷った末、俺は布団を直し、沙耶さんの手をそっと戻した。


「また明日、来ます」


 返事はなかった。


 それでも、いつものように声をかけてから病室を出た。


 翌朝、病院から電話があった。


 急いで駆けつけたが、間に合わなかった。


 病室のカーテンは開いていて、窓から冬の朝の光が差し込んでいた。昨夜まで使っていた椅子がベッドの横に置かれ、枕元には俺が持っていった映画雑誌が残っている。


 沙耶さんは静かに横たわっていた。


 俺はベッドのそばに立ち、しばらくその顔を見つめていた。


 何度も見てきた顔だった。笑っているときも、怒っているときも、困っているときも知っている。疲れているときには少し眉を寄せ、嬉しいときには目元から笑う人だった。


 俺は椅子に腰を下ろし、布団の上に置かれていた手に触れた。


 昨日まで、握れば指が動いていた。弱い力でも、触れたことが伝わっていると分かった。


 今は、何も返ってこなかった。


 手の位置を少し変え、指先に触れてみた。沙耶さんが眠っているとき、起こさないように何度もそうしたのと同じように。


 けれど、もうその指は動かなかった。


 廊下では人の足音がしていた。


 看護師が静かに出入りし、必要なことを説明してくれた。俺は聞かれたことに答えたが、自分が何を話しているのか、よく分からなかった。


 窓の外では、朝の街を車が走っていた。


 病室へ来るたび、沙耶さんは俺の顔を見て笑ってくれた。疲れていても、声が小さくなっても、目が合えば少しだけ表情が変わった。


 俺はまた彼女の顔を見た。


 何も変わらなかった。


 手を離してしまうと、二度と触れられなくなるような気がした。誰かが声をかけてくれるまで、俺は椅子に座ったまま、その手を握っていた。


     ◇


 葬儀が終わってからも、生活は続いていった。


 朝になれば起きて、仕事へ向かう。会社では資料を作り、会議に出て、同僚と話した。帰りが遅くなれば、駅前で夕食を済ませる。


 以前と変わらない日々だった。


 ただ、ときどき、当たり前のようにスマートフォンを取り出してしまう。


 新しい映画のポスターを見つけたとき。仕事で大きな問題が片づいたとき。スーパーで、沙耶さんが好きだったパンを見つけたとき。


 写真を撮ろうとしてから、手が止まる。


 以前なら何も考えずに送っていたものを、今は誰に見せればいいのか分からなかった。


 仕事が終わって家に帰ると、ほとんど何もする気になれなかった。買ってきた弁当をそのまま食べ、風呂に入って寝る。洗濯物を片づけるのが面倒で、干したままの服を翌朝着ることもあった。


 休みの日は、何をして過ごせばいいのか分からなかった。


 沙耶さんが貸してくれた本は、鞄の中に入ったままだった。何度か取り出したが、続きを読む気になれず、結局また元の場所へ戻した。


 ある土曜日の朝、いつもの時間に目が覚めた。


 仕事は休みだった。カーテンの隙間から、冬の薄い光が差し込んでいる。以前なら、沙耶さんに会いに行く準備を始めていた頃だ。


 俺は布団の中でスマートフォンを手に取り、沙耶さんとのやり取りを開いた。


 最後の方には、病院へ行く時間を知らせる短いメッセージが並んでいた。少し前には、仕事の話や映画の話。さらに遡ると、川沿いの喫茶店で待ち合わせた日のやり取りが残っていた。


『十一時くらいでどうかな』


『分かりました。現地で待ち合わせましょう』


 その下には、待ち合わせ場所を確かめるために送った店の写真があった。


 俺は画面を指で広げ、写真を大きくした。窓際に丸いテーブルがあり、二つの椅子が向かい合っている。


 あの日、沙耶さんは俺より少し遅れて店に来た。


 笑いながら、本当に今来たところなの、と尋ねた。俺が十分くらいですと答えると、やっぱり、と笑った。


 その声を、まだ覚えていた。


 もう一度だけ聞きたくなって、何度もやり取りを遡った。けれど、どこまで戻っても、画面に残っているのは文字だけだった。


 俺はスマートフォンを布団の上に置いた。


 窓の外から車の走る音が聞こえ、隣の部屋では誰かが掃除を始めたらしく、壁越しに小さな物音がした。部屋の時計は、もうすぐ九時になるところだった。


 布団を頭まで引き上げたが、すぐに息苦しくなって顔を出した。


 起き上がって何かをする気にはなれなかった。朝食のことを考えたものの、冷蔵庫の中に何が入っているのかも思い出せない。


 天井を眺めているうちに、窓から差し込む光の角度が変わっていった。


 昼近くになって、ようやく布団から出た。


 洗面所で顔を洗い、鏡を見ると、ひどい顔をしていた。沙耶さんなら、ちゃんと寝てるの、と呆れただろう。


 そんなことを思った途端、目の前がぼやけた。


 俺は洗面台に両手をつき、しばらく顔を上げられなかった。


     ◇


 冬が終わり、春になった。


 駅へ向かう途中、街路樹に桜の花がつき始めていることに気づいた。まだ満開ではなかったが、枝の先には薄い桃色の花がいくつも開いている。


 通勤途中の人たちが足を止め、スマートフォンで写真を撮っていた。


 俺も少し立ち止まった。


 十月の終わり、沙耶さんと歩いた川沿いの道を思い出した。


 来年は一緒に見に来ようと話したとき、彼女は少し驚いた顔をした。それから桜の枝を見上げて、来たいな、と言ってくれた。


 俺はしばらく花を眺めてから、駅へ向かった。


 翌週の土曜日、俺は鞄に一冊の文庫本を入れて家を出た。


 沙耶さんから借りた本だった。


 電車に乗り、以前二人で歩いた川沿いの道へ向かう。駅を出ると、春の柔らかな風が吹いていた。


 遊歩道へ下りたところで、俺は足を止めた。


 六月には青い葉が茂り、十月には赤や黄色に色づいていた木々が、今は薄い桃色の花をつけている。枝は川沿いの道を覆うように伸び、風が吹くたびに花びらが舞っていた。


 思っていた以上に、きれいだった。


 遊歩道には多くの人がいた。写真を撮る人、ベンチで弁当を広げる人、手をつないで歩く恋人たち。子どもたちが落ちた花びらを集め、楽しそうに走り回っている。


 俺は人の流れに混じり、ゆっくり歩き始めた。


 あの日、沙耶さんと休んだベンチが見えた。


 今は年配の夫婦が座り、並んで川を眺めている。俺は少し離れたところで足を緩めた。


 十月には、沙耶さんが途中で休もうと言った。


 六月には、手をつないでこの道を歩いた。もっと前には、まだ恋人ではなかった二人で本屋へ向かい、途中のベンチで休んだこともあった。


 あの頃、沙耶さんと同じ速さで歩くことが嬉しかった。


 今は、一人だった。


 風が吹き、桜の花びらが肩に落ちた。俺はそれを払わず、しばらく川を眺めていた。


 ベンチに座っていた夫婦が立ち上がり、二人でゆっくり歩き出した。


 俺も、また歩き始めた。


 桜の下を通り抜けると、見覚えのある喫茶店が現れた。


 大きな窓のある、古い建物。入口の横には、手書きの看板が置かれている。


 俺は扉を開けた。


 コーヒーの香りが漂ってきた。店内には何組か客がいたが、窓際の丸いテーブルは空いていた。


 店員に案内され、俺はその席へ向かった。


 椅子は二つあった。


 以前、沙耶さんが座っていた椅子と、その向かいの椅子。


 俺は前と同じ席に腰を下ろした。


 窓の外には、桜並木と川が見えた。沙耶さんがここへ通っていた頃も、春にはこんな景色が広がっていたのだろう。


 メニューを開き、ブレンドコーヒーを注文した。


 運ばれてきたコーヒーは、あの日と同じように少し苦かった。沙耶さんは、この味が懐かしいと言っていた。


 俺はカップを両手で包み、窓の外を眺めた。


 花びらが、風に乗って川面へ落ちていく。


 しばらくして、鞄から文庫本を取り出した。


 しおりを挟んでいたページを開くと、主人公は知らない町の小さな宿に泊まっていた。翌朝、どこへ行くかも決めずに外へ出て、偶然見つけた店で朝食を食べる。


 大きな事件は起きない。


 ただ、知らない町を歩き、そこで出会った人たちと話をする。


 俺は少しずつ読み進めた。


 窓の外から子どもたちの声が聞こえ、ときどきカップを運ぶ食器の音がした。店員が水を足しに来たときには、もうかなり読み進めていた。


 最後の方で、主人公は静かな海沿いの町へ着いた。


 そこで何日か過ごしたあと、また別の町へ向かう。


 結局、主人公が何を探して旅をしていたのか、はっきりした答えは出なかった。


 それでも、読み終えたときには不思議と満足していた。


 俺は本を閉じ、しばらく表紙を眺めた。


 沙耶さんなら、この結末をどう思っただろう。


 きっと、俺とは違うところを面白がったかもしれない。


 感想を話そうと顔を上げかけて、向かいの椅子が目に入った。


 そこには、誰も座っていなかった。


 俺は開きかけた口を閉じ、もう一度本の表紙へ目を落とした。


 窓の外では、花見帰りらしい人たちが店の前を通っていく。楽しそうな声がガラス越しに聞こえ、店内の奥では新しく入ってきた客が注文をしていた。


 俺は冷めたコーヒーを飲みながら、もう少しだけ席に座っていた。


 やがて本を鞄へしまい、会計を済ませた。


 店を出ると、春の陽射しが川面に反射していた。桜の下を歩く人たちの声を聞きながら、俺は駅へ向かった。


 途中、小さな書店の前で足を止めた。


 店先には、見知らぬ作家の文庫本が並んでいた。その中の一冊に、何となく目が留まった。


 表紙には、海沿いの町が描かれている。


 俺は本を手に取り、裏表紙のあらすじを読もうとした。


 けれど、ふと思い直した。


 その本を持ったまま店内へ入り、レジで会計を済ませた。


 買ったばかりの本を鞄へしまい、俺は駅へ向かって歩き始めた。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。


航平と沙耶、二人の物語を最後まで見届けていただけたことを嬉しく思います。


澄野(すみの) 朔(さく)です。


義姉・義妹・義母など、少し特別な関係から始まる現代恋愛を中心に、全5話完結の物語を書いています。


甘い恋愛も、切ない恋愛も、時には少し不思議な物語も。


ほかにも独立した恋愛作品を公開していますので、気に入っていただけましたら、シリーズ「5話で完結する、少し特別な恋愛物語」も覗いてみてください。


作品への評価や感想、作者のお気に入り登録なども、今後の創作の励みになります。


また別の物語でお会いできたら嬉しいです。

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