第3話 好きになってはいけない人
待ち合わせの十二時半より、十分ほど早く映画館に着いた。
駅前の大通りから一本入った路地にある、小さな映画館。古い二階建ての建物で、入口の横には手書きの上映予定が掲げられている。何度も通っている場所なのに、今日は妙に落ち着かなかった。
沙耶さんを誘ったのは、先週の土曜日だった。
彼女の方から俺の好きな場所へ行きたいと言ってくれたことが嬉しくて、以前から観たかった映画を勧めた。古い邦画を集めた特集上映の一本で、雑誌には迫力のある銃撃戦や追跡劇の写真が載っていた。
昔のアクション映画には独特の魅力がある。大がかりな爆発や、今では考えられないような無茶な撮影。少々強引な展開も、役者の勢いで押し切ってしまうところが好きだった。
沙耶さんも、こういう映画は久しぶりだから楽しみだと言っていた。
「航平くん」
声のした方を向くと、沙耶さんが手を振っていた。
薄いベージュのカーディガンに、濃い色のロングスカート。短くなった髪が風に揺れている。先週より少し顔色がよく、歩き方にも余裕があるように見えた。
「こんにちは。体調はどうですか?」
「うん。今日はいい感じ。昨日も早く寝たしね」
彼女は映画館の建物を見上げた。
「本当に小さいんだねえ。もっと大きいところを想像してた」
「中も結構古いですよ。でも、椅子は新しくなってるので大丈夫だと思います」
「それはよかった。二時間も硬い椅子だったら、お尻が痛くなっちゃう」
沙耶さんが笑う。俺もつられて笑いながら、入口の方へ歩き始めた。
上映開始までは、まだ三十分ほどある。
チケットを購入して館内へ入ると、壁には古い映画のポスターが並び、奥の売店からコーヒーの香りが漂ってきた。ロビーの一角には小さな展示棚があり、昔のパンフレットや撮影風景の写真が飾られている。
沙耶さんは興味深そうにそれらを眺めていた。俺が飲み物を買って戻ると、彼女は一枚のポスターの前で足を止めていた。
「これ、昔テレビで観たことがある」
「結構有名な作品ですね」
「そうそう。途中からだったから、話はあんまり覚えてないんだけど」
公開年を見ると、俺が生まれるより前だった。
沙耶さんは懐かしそうにポスターを見上げ、当時の俳優の名前を挙げた。俺が知らないと言うと、あんなに有名だったのに、と笑う。
年齢が十五歳離れていれば、知らないものがあって当然だった。
昔はその違いがひどく大きく感じられたが、今は沙耶さんの知らない映画を俺が教えることもある。彼女の話を聞きながら、いつかその古い作品も一緒に観られたらと思った。
やがて上映室の扉が開き、俺たちは中へ入った。
中央より少し後ろの席に並んで座る。客席は半分ほど埋まっていて、年配の夫婦や一人で来ている男性の姿が目についた。
「思ったより座り心地いいね」
「でしょう?」
「疑ってごめんなさい」
沙耶さんがわざと丁寧に頭を下げたので、俺は笑ってしまった。
彼女は飲み物を肘掛けのホルダーに置き、背もたれに体を預けた。
ほどなくして照明が落ち、スクリーンに光が灯った。
◇
映画は、期待どおりの激しい銃撃戦から始まった。
暗い倉庫での格闘、街中を駆け抜ける車、次々と襲いかかる敵。主人公の男は、かつての仲間だった女性を救い出すため、危険な場所へ飛び込んでいく。
古い映画らしい派手な演出に、俺はすっかり引き込まれていた。隣の沙耶さんも、時折小さく息を呑んでいる。
ところが、物語が半分ほど進んだあたりから、様子が変わり始めた。
救出された女性と主人公は、かつて恋人同士だったらしい。
長い間、互いを思いながらも離れていた二人。再会しても本心を言えず、些細なことで言い争ってしまう。そんな場面が増えるにつれ、銃撃戦よりも二人の行方が気になってきた。
そして、雨の降る夜。
敵の追跡を逃れた二人が、古い建物の一室で向かい合う。
女が何かを言いかけ、男が近づく。
しばらく見つめ合ったあと、二人の唇が重なった。
俺は思わず背もたれへ体を預け直した。
こういう展開になるとは思っていなかった。
映画館の暗がりの中で、隣に沙耶さんがいることを急に意識してしまう。
さっきまでは何も気にならなかった。派手なアクションを楽しみ、面白い場面があればあとで感想を話そうと思っていただけだ。
ところが今、スクリーンいっぱいに映し出されているのは、長く離れていた男女のキスだった。
隣で衣服の擦れる音がした。
沙耶さんが座り直したのだろう。何となく顔を向けそうになったが、俺はそのままスクリーンを見続けた。
恋愛映画だと分かっていれば、もう少し心構えができたのかもしれない。
いや、最初から恋愛映画だと知っていたら、そもそも沙耶さんを誘わなかっただろう。
そんなことを考える自分が、ひどく情けなかった。
画面の中では、ようやく想いを確かめ合った二人が、互いの額を寄せていた。さっきまで荒々しかった男が、まるで別人のような声で何かを囁いている。
俺は飲み物に手を伸ばしたが、ほとんど残っていなかった。空のカップを元の場所へ戻し、座席へ深く腰を沈める。
沙耶さんは何も言わなかった。
もちろん、映画の上映中なのだから当然だ。それなのに、隣の沈黙まで気になってしまう。
やがて画面は再び激しい追跡劇へ戻った。
少しだけほっとしたものの、以前のように無心では観られなかった。
主人公が女性を庇えば、どうしてもその表情を追ってしまう。女性が危険を冒して男を助けに戻る場面では、二人が再び離れ離れになるのではないかと気が気ではなかった。
映画の最後、長い戦いを終えた二人は、夕暮れの駅のホームに立っていた。
行き交う人々の中で、女が男に尋ねる。
どうして、あのとき命令に背いてまで自分に会いに来たのか。
男は少し笑った。
『会いたかったんだ。ただ、それだけで』
それまで渋い声で大げさな決め台詞を言っていた主人公が、そのときだけは驚くほど静かに答えた。
女はしばらく彼を見つめ、何も言わずに手を差し出す。
男もその手を取った。
駅の雑踏に二人の姿が紛れていくところで、映画は終わった。
エンドロールが流れ始めても、俺はしばらくスクリーンを眺めていた。
あれほど派手な場面が続いた映画なのに、最後に残ったのは、たった一言だった。
館内の照明がゆっくり点き始める。
「……思ってたのと違ったね」
隣から沙耶さんの声がした。
彼女はまだスクリーンの方を向いていた。
「そうですね。もっと普通のアクション映画かと思ってました」
「途中から、すっかり恋愛映画だったもんね」
沙耶さんはそう言って、小さく笑った。
「航平くん、ちょっと困った?」
「……まあ、少し」
「私もびっくりしちゃった」
彼女が笑ったので、俺もようやく笑えた。
けれど、立ち上がって通路へ出るとき、先ほどまで何とも思わなかった彼女との距離が、少しだけ気になった。
◇
映画館を出た頃には、午後三時を過ぎていた。
沙耶さんは少し疲れている様子だったが、座って休んでから帰りたいと言った。そこで、映画館から近い喫茶店に入ることにした。
店内は落ち着いた雰囲気で、奥の窓際に二人掛けの席が空いていた。隣のテーブルとの間には背の高い仕切り棚があり、古いスピーカーから控えめな音量でジャズが流れている。
沙耶さんは紅茶を、俺はアイスコーヒーを注文した。
「でも、面白かったね」
メニューを閉じながら、沙耶さんが言った。
「はい。ちょっと意外でしたけど」
「私、あの女の人が好きだな。最後、ちゃんと自分で助けに戻るでしょう?」
「そうですね。結構強かったですよね」
「最初は守られてばっかりかと思ったのにね」
沙耶さんは笑いながら、テーブルの端に置かれた映画の半券を眺めた。
俺も、最後の戦いを思い出していた。主人公はどれほど強くても、結局一人では勝てなかった。そこが、単なるアクション映画とは違っていたのかもしれない。
「でも、雨のところはびっくりしたなあ」
沙耶さんが何気なく言った。
俺は思わず顔を上げた。
「……ああ、あそこですか」
「うん。急に雰囲気が変わるんだもの」
彼女はそれ以上言わず、運ばれてきた紅茶に手を伸ばした。
俺もコーヒーを飲む。
スクリーンの中の二人が、また頭に浮かんできた。
あれだけ近くで恋人たちのキスを観ていたのだから、当然だろう。それでも、沙耶さんと目が合うと、何となく落ち着かなかった。
彼女の方はいつもどおりに見えた。
「最後の駅の場面もよかったね」
沙耶さんがカップを置いた。
「あの人、ずっと格好つけてたのに、最後だけ普通のことを言うんだもの」
「そこがよかったんじゃないですか」
「うん。声もね。急に優しくなって」
彼女は少し喉を鳴らし、主人公の渋い声を真似しようとした。
しかし、出てきたのは妙に低くて間延びした声だった。
俺は思わず吹き出した。
「今の、全然違いますよ」
「ええ、結構似てたと思うけど」
「どこがですか。あんなに偉そうな言い方じゃなかったでしょう」
「そうだった?」
沙耶さんは納得していない顔で、もう一度低い声を出してみせた。
相変わらず似ていなかった。
おかしくなって笑っていると、彼女が少しむきになったように眉を上げる。
「そんなに違った?」
「違いますって。最後だけ、もっと普通だったじゃないですか」
言いながら、俺は映画の主人公の声を思い出した。
あの、少し照れたような、静かな声。
「……会いたかったんだ。ただ、それだけで」
何気なく口にした。
真似をしたつもりだった。
けれど、最後の言葉を言い終える頃には、目の前にいる沙耶さんから目を離せなくなっていた。
五年前、家を出る朝に手を振ってくれた人。
離れていれば忘れられると思っていた人。
再会してからは、次に会える日を何より楽しみにしていた人。
ずっと会いたかった。
映画の台詞が、まるで自分の言葉のように聞こえた。
沙耶さんは笑っていなかった。
さっきまで面白がっていた表情のまま、少し不思議そうに俺を見つめている。
「……航平くん?」
名前を呼ばれて、ようやく我に返った。
しまった、と思った。
こんなところで、何をしているのだろう。
似てなかったでしょう、と笑えばよかった。いつものように軽口を返せば、沙耶さんもきっと笑ってくれたはずだった。
けれど、口を開いても言葉が出てこなかった。
店の奥では食器の触れ合う音がしていた。仕切り棚の向こうから、隣の客の笑い声が聞こえる。窓の外では信号が変わり、買い物袋を持った人々が横断歩道を渡っていった。
俺たちのテーブルだけが、さっきまでの会話から取り残されていた。
「……今の」
自分でも、何を言おうとしているのか分からなかった。
沙耶さんは俺の言葉を待っていた。
彼女の前には、まだ半分ほど残った紅茶がある。映画館で買ったパンフレットがバッグから少し覗いていた。
今日、彼女は俺との外出を楽しみにしてくれていた。
それなのに、こんな気まずい思いをさせている。
今ならまだ、引き返せる。
そう思った。
けれど、沙耶さんの顔を見ていると、冗談だったと言うことだけはできなかった。
「……映画の真似だけじゃないです」
声は、自分でも驚くほど小さかった。
沙耶さんの表情から、笑みが消えた。
俺は一度視線を落とし、テーブルの上で両手を組んだ。指先に力が入っていることに気づいて、ゆっくりほどく。
「俺、本当に沙耶さんに会いたかったんです」
彼女は何も言わなかった。
「五年間、会わないようにしてました。そうすれば、いつか忘れられると思ってたから」
「……忘れるって、何を?」
沙耶さんの声は、さっきまでよりずっと静かだった。
俺は顔を上げた。
「沙耶さんのことが、好きなんです」
言ってしまった。
胸の奥に隠していたものを口にして、一瞬だけ息がしやすくなった。けれど、目の前の沙耶さんを見ると、その感覚はすぐに消えた。
彼女は、まるで意味の分からない言葉を聞いたような顔で俺を見ていた。
「航平くん、それは……」
彼女は何か言いかけたあと、カップへ視線を落とした。
しばらくして、もう一度俺を見る。
「いつから?」
俺は短く息を吸った。
「十六歳の頃からです」
沙耶さんの指が、カップの取っ手から離れた。
「……あの頃から?」
「はい」
彼女は椅子の背に体を預けた。
窓から差し込む午後の光が、テーブルの木目を照らしている。氷が溶けたのか、グラスの中で小さな音がした。
つい先ほどまで、二人で映画の感想を話していた。
沙耶さんの妙な声真似がおかしくて、笑いを堪えられなかった。
その時間が、もうずいぶん遠く感じられた。
「……私は、あなたのお母さんだったのよ」
ようやく沙耶さんが言った。
普段の「航平くん」とは違う呼び方だった。
声に責めるような調子はなかった。ただ、ひどく戸惑っていることは伝わってきた。
「分かってます」
「分かってるって……」
沙耶さんはそこで言葉を止め、片手を額に当てた。
俺は何も言えなかった。
熱を出したとき、病院へ連れていってくれたこと。進路に悩んだとき、俺の話を聞いてくれたこと。
沙耶さんにとっては、息子のためにしてくれたことだった。
「私……何か、間違えたのかな」
沙耶さんが呟いた。
思わず顔を上げる。
「違います」
自分でも驚くほど、はっきりした声が出た。
「沙耶さんは何も間違ってません。あの頃、俺のことを大切にしてくれたの、ちゃんと分かってます」
彼女は困ったように眉を寄せていた。
「だから、言わないつもりだったんです。大学へ行って、離れて暮らせば、そのうち忘れられると思ってた」
話すうちに、言い訳をしているような気がしてきた。
それでも、あの二年間を彼女に後悔してほしくなかった。
「俺が勝手に好きになっただけです。沙耶さんは、何も悪くありません」
沙耶さんはそれ以上、自分のことを責めるような言葉を口にしなかった。
隣の席に新しい客が来たらしく、椅子を引く音が聞こえた。店員が注文を取り、厨房へ戻っていく。いつもなら気にも留めない物音が、妙にはっきり耳に入ってきた。
沙耶さんは飲みかけの紅茶を見つめていたが、やがて顔を上げた。
「……ごめんね」
その声を聞いた瞬間、答えが分かった。
「私、航平くんのこと、大切に思ってるよ。一緒にいて楽しいし、最近また会えるようになって、本当に嬉しかった」
彼女はそこで少し言葉を切った。
「でも、そういうふうには見られないと思う」
俺は頷いた。
「……はい」
覚悟していた答えだった。
高校生の頃から、何度も考えたことがある。
もし気持ちを伝えたら、彼女は何と言うだろう。困らせるだけだろうか。怒るだろうか。それとも、何も聞かなかったことにしてくれるだろうか。
どんな答えも想像していたつもりだった。
けれど、実際に彼女から断られると、胸の奥が痛くて仕方がなかった。
沙耶さんは自分のカップへ手を伸ばしたものの、すぐには飲まなかった。俺もグラスに残っていたコーヒーを飲む。氷がほとんど溶けていて、最初よりずいぶん薄い味がした。
「……ごめんなさい。急にこんなこと言って」
しばらくしてから、俺はそう言った。
「ううん」
沙耶さんは小さく首を振った。
「びっくりしたけど……ちゃんと聞いたから」
俺は頷いた。
さっきまで一緒に笑っていた人が、今は何を話せばいいのか分からない顔をしている。
そのことが、何よりつらかった。
◇
喫茶店を出ると、夕方の空気が少し冷たくなっていた。
沙耶さんは疲れているはずだった。タクシーを呼ぼうかと尋ねると、駅前の乗り場までなら歩けると言ったので、二人で大通りへ向かった。
短い道だった。
けれど、行きに歩いたときよりも、ずっと長く感じられた。
途中、靴屋のショーウインドーに並んだ商品を見て、沙耶さんが少し足を緩めた。
先週なら、どの靴が気になったのか尋ねただろう。沙耶さんも、きっと楽しそうに答えてくれた。
今日は、そんな何でもない会話を始めることさえ難しかった。
彼女も無理に話そうとはしなかった。
信号待ちで並んだとき、沙耶さんが小さく咳をした。俺は鞄から飲み物を取り出そうとしたが、彼女は大丈夫だと首を振った。
それでも、横断歩道を渡るときには、俺の歩幅に合わせようとして少し急いだように見えた。
「ゆっくりでいいですよ」
「うん。ありがとう」
たったそれだけの会話だった。
駅前のタクシー乗り場には、幸い車が一台停まっていた。
沙耶さんは財布を取り出しながら、俺の方を向いた。
「航平くん、今日はありがとう。映画、楽しかったよ」
「……俺もです」
それは本当だった。
映画も、沙耶さんと交わした感想も、楽しかった。ただ、もう同じように笑って話せるのかどうか、今は分からなかった。
「それと、さっきは……」
俺が言いかけると、沙耶さんは小さく首を振った。
「うん。聞いたから、大丈夫」
彼女はそれ以上何も言わず、タクシーの後部座席へ乗り込んだ。
俺がドアのそばから離れると、窓が少し下がった。
「航平くんも、気をつけて帰ってね」
「はい。沙耶さんも」
車が走り出してからも、俺はしばらくその場に立っていた。
人通りの多い駅前だった。買い物袋を提げた人たちが横を通り過ぎ、信号が変わるたびに車が流れていく。
ようやく歩き始めたとき、ポケットの中で映画の半券が折れ曲がっていることに気づいた。
取り出してみると、座席番号の印字された部分に皺が寄っていた。
以前から楽しみにしていた作品なのに、しばらくはもう一度観る気になれそうもなかった。
◇
週が明けると、いつもより仕事が忙しくなった。
月曜日は残業になり、夕食を駅前の店で済ませた。火曜日には先輩から新しい仕事を任され、帰宅してからも資料を確認していた。
仕事をしている間は、余計なことを考えずに済んだ。
けれど、帰りの電車でスマートフォンを取り出すと、沙耶さんとの最後のやり取りが目に入る。
映画へ行く前日、彼女が送ってくれたメッセージだった。
『明日、楽しみにしてるね』
俺も、楽しみにしていると返していた。
告白してから、沙耶さんには連絡していない。
体調が悪くなっていないだろうか、困っていることはないだろうか。気になるたびにメッセージを送ろうとしたが、今までどおりに連絡すれば、彼女も返事に困るかもしれなかった。
何度も謝るのも違う気がした。
結局、何も送れずにいた。
水曜日の帰り道、駅の構内に新作映画のポスターが貼られているのを見つけた。
見覚えのある俳優が主演していて、来月から公開されるらしい。少し立ち止まって眺めていると、面白そうだと思った。
スマートフォンを取り出しかけて、手が止まった。
沙耶さんに送ろうとしていた。
先週なら、迷わず写真を撮っていただろう。彼女も、面白そうだね、とか、今度観に行ってみたいね、とか、そんな返事をくれたはずだった。
俺はスマートフォンをポケットへ戻し、改札へ向かった。
ホームへ下りる階段は、帰宅する人たちで混み合っていた。少しずつ進む列に加わりながら、もう一度だけポケットの上からスマートフォンを確かめる。
通知は来ていなかった。
木曜日には、仕事が少し早く終わった。
帰宅して冷蔵庫を開けると、週末に買った食材が残っていた。久しぶりに自炊することにして、野菜を取り出し、まな板の上に並べる。
包丁を手にしたところで、先日沙耶さんとカレーの話をしたことを思い出した。
喫茶店で、いつか俺の作るカレーを食べてみたいと言ってくれたのだ。
あれは映画へ行く前だった。
何気ない約束だったから、日付も決めていなかった。次に会ったときにでも話せばいいと思っていた。
俺はまな板の上の玉ねぎを見つめ、それから包丁を動かし始めた。
切った野菜を鍋に入れ、火にかける。台所に立っている間にも、冷蔵庫の上に置いたスマートフォンが何度か気になった。
好きだと伝えたことを、後悔しているわけではなかった。
ただ、あの人と話せなくなることが、思っていた以上につらかった。
夕食を終えて食器を洗い、翌日の準備をする。
いつもどおりの生活は続いていく。
それなのに、夜の時間だけが妙に長く感じられた。
◇
映画を観た日から六日が過ぎた、金曜日の夜。
仕事から帰って上着を脱いでいると、スマートフォンが震えた。
画面に表示された名前を見て、手が止まった。
沙耶さんだった。
『航平くん、こんばんは』
短いメッセージだった。
俺は上着を椅子に掛け、テーブルの前に座った。
何もなかったように返事をしていいのだろうか。それとも、まず先週のことを謝るべきなのだろうか。
迷った末に、いつもどおりの言葉を打った。
『こんばんは。体調はどうですか?』
ほどなくして返事が来た。
『今日はいいよ。航平くんは元気?』
『元気です。仕事も少し落ち着きました』
『そっか。よかった』
そこで、いったんやり取りが止まった。
俺はスマートフォンをテーブルに置き、冷蔵庫から飲み物を取り出した。蓋を開けて一口飲み、もう一度画面を見る。
新しいメッセージはまだ届いていなかった。
沙耶さんは、何か話したいことがあるのだろうか。
あるいは、以前のように、何となく近況を尋ねてくれただけなのかもしれない。
しばらくして、もう一度通知音が鳴った。
『この前、川沿いに昔の喫茶店があったって話したでしょう?』
俺は、先日一緒に本屋へ向かった道を思い出した。
途中で休んだ川沿いのベンチ。沙耶さんは、父と結婚する前、仕事帰りによく立ち寄っていた喫茶店があると話していた。
『覚えてます。まだあるか分からないって言ってましたよね』
『そう。それがね、調べてみたらまだ営業してたの』
続けて、店のホームページが送られてきた。
画面には、川沿いに建つ小さな喫茶店の写真が表示されている。大きな窓があり、その向こうに遊歩道と川が見えた。
建物は古そうだったが、店内はきれいに手入れされている。窓際には小さな丸いテーブルが並び、壁際には本棚が置かれていた。
『懐かしくなっちゃった。久しぶりに行ってみたいなって思って』
俺は写真を眺めた。
沙耶さんが若い頃、一人で本を読んでいた場所。
父と結婚する前の彼女が、どんな顔でその窓から川を眺めていたのか、少し想像してしまった。
返事を考えていると、新しいメッセージが届いた。
『航平くん、明日って空いてる?』
俺は思わずスマートフォンを持ち直した。
土曜日は休みだった。予定も入っていない。
けれど、すぐには返事を送れなかった。
沙耶さんは、先週のことを覚えているはずだ。
そのうえで、俺に連絡してくれた。
『空いてます』
ようやく送信すると、すぐに既読がついた。
しばらくして、返事が表示された。
『よかったら、一緒に行かない?』
俺は画面を見つめた。
この誘いに、特別な意味があるとは限らない。
それでも、一緒に行きたいという気持ちは本当だった。
『行きたいです。明日、体調がよければ一緒に行きましょう』
送信すると、少ししてから返事が来た。
『うん。ありがとう』
それから、もう一通。
『あのお店、昔はいつも一人で行ってたんだけど』
そこで文章が途切れた。
俺はペットボトルをテーブルに置き、続きを待った。
やがて、画面が明るくなった。
『今度は、航平くんと行ってみたいな』
俺はもう一度、店の写真を開いた。
窓際の丸いテーブルには、二つの椅子が向かい合うように置かれていた。
何時頃がいいか尋ねると、沙耶さんからすぐに返事が届いた。
『十一時くらいかな。明日の朝、調子を知らせるね』
『分かりました。連絡待ってます』
返信を終えても、すぐには画面を閉じなかった。
川の見える窓際の写真をもう一度眺め、それから明日の天気予報を開いた。




