第2話 息子だった人
金曜日の夕方、沙耶さんからメッセージが届いた。
『明日は体調がよさそう。もし時間があったら、ちょっと付き合ってほしいところがあるんだけど』
仕事を終え、帰り支度をしていたところだった。
先週の帰り道、俺から次の土曜日に会いたいと伝えていた。沙耶さんは前日に体調を知らせると言っていたから、連絡そのものは予想していた。
ただ、彼女の方から行きたい場所を指定してくるとは思っていなかった。
『大丈夫です。どこに行きたいんですか?』
『駅の向こうにある本屋さん。しばらく行ってなくて』
俺は少し考えてから返信した。
『欲しい本があるなら買っていきますよ。タイトルを教えてください』
返事はすぐに来た。
『そうじゃなくて、自分で見て選びたいの』
続けて、笑っている顔の絵文字が送られてきた。
画面を見て、思わず苦笑した。
沙耶さんは本屋へ行きたいと言っているのに、俺は勝手に買い物の代行を申し出ていた。病気のことを聞いて以来、彼女が何かを言うたびに、どうすれば負担を減らせるかを先に考えてしまう。
『分かりました。一緒に行きましょう』
『ありがとう。じゃあ、明日十一時くらいでどうかな』
『大丈夫です。楽しみにしてます』
送信すると、ほどなくして返事が届いた。
『私も楽しみ』
短い言葉だったが、それだけで翌日の予定が少し特別なものになった。
◇
土曜日は、よく晴れていた。
沙耶さんのマンションへ着くと、彼女はすでに外出の支度を済ませていた。淡い水色のシャツに薄手のカーディガンを羽織り、肩には小さなバッグを掛けている。
先週は部屋着に近い格好だったせいか、今日は少し印象が違った。短い髪もきれいに整えられていて、五年前の彼女を思い出す。
「おはよう、航平くん」
「おはようございます。調子はどうですか?」
「うん。今日は悪くないよ」
沙耶さんはそう答えてから、俺の肩に掛かった鞄を見た。
「ずいぶん大きな荷物だね」
「ああ、これですか。飲み物とか、折り畳み傘とか」
「今日は晴れてるよ?」
「天気が変わるかもしれないでしょう」
「遠足に行く小学生みたい」
「用意しておいて困ることはないですから」
沙耶さんはおかしそうに笑った。
「そういうところ、昔から変わらないね」
実際には、飲み物のほかに薄手の上着まで入れていた。もし途中で体調が悪くなったらどうしようと考え始めると、持っていきたいものが増えてしまったのだ。
玄関の鍵を閉めた沙耶さんが、エレベーターへ向かう。
「本屋までは歩くんですか?」
「うん。十五分くらいだから」
「駅前からバスも出てますよね」
「出てるけど、今日は少し歩きたいな。このところ、病院と家の往復ばっかりだったから」
廊下の窓から見える街路樹が、風に揺れていた。日差しは強くないし、途中には休める場所もある。帰りは無理に歩く必要もないだろう。
「じゃあ、歩いて行きましょう」
「うん。帰りは疲れ具合で考えようかな」
エレベーターが到着し、二人で乗り込む。
沙耶さんは階数表示を見上げながら、久しぶりに本屋へ行くのが楽しみだと話していた。俺が通勤途中によく立ち寄る大型書店の話をすると、そういうところも好きだけれど、今日は小さな本屋をゆっくり見たいのだと言う。
俺は彼女の横顔を見た。
先週は病気の話ばかりになってしまった。今日は、できればそんな話をしない時間も過ごしたかった。
◇
駅から少し離れると、商店が並ぶ通りに出た。
休日の午前中らしく、買い物袋を提げた人たちが行き交っている。八百屋の店先には季節の野菜が積まれ、開け放たれたパン屋の扉から焼きたての匂いが漂ってきた。
沙耶さんはゆっくり歩いていた。
俺も自然に歩幅を合わせながら、通りの向こうに見える店を眺めた。五年前は知らなかった街だし、先週はマンションと駅の間を往復しただけだったので、周囲をじっくり見るのは初めてだった。
「この辺り、結構お店があるんですね」
「うん。私もまだ全部は知らないんだけどね」
「引っ越してきて、どれくらいでしたっけ」
「もうすぐ一か月かな。最初は駅と病院の場所を覚えるだけで精一杯だったけど、少しずつ歩いてみようと思って」
彼女は通りの先にあるパン屋を見て、あそこも気になっているのだと教えてくれた。店先の黒板には、焼き上がりの時間が手書きされている。
「いつも午前中に売り切れちゃうみたいなの」
「じゃあ、今日はまだあるかもしれませんね」
「帰りに寄れたら寄ろうかな」
そう言いながら、沙耶さんは少し歩調を緩めて店を覗いた。ガラス越しに並ぶパンを眺めてから、今日は本屋が先、と自分に言い聞かせるように笑う。
病気になり、父と離婚して、一人で暮らし始めた。
その事情を考えると、彼女が新しい街で気になる店を見つけ、休日の予定を楽しみにしていることに、少し意外な気持ちになった。
もっとも、沙耶さん自身は昔からそういう人だったのかもしれない。俺が知らなかっただけで。
やがて道は緩やかな下り坂になり、左手に小さな川が見えてきた。川沿いには遊歩道が整備され、ところどころにベンチが置かれている。
「少し休んでいこうか」
沙耶さんが橋の手前で足を止めた。
近くのベンチへ向かうと、彼女はゆっくり腰を下ろした。俺も隣に座り、鞄から飲み物を取り出す。
「水、飲みます?」
「ありがとう。少しもらおうかな」
彼女は受け取ったペットボトルの蓋を開け、二口ほど飲んだ。
川面には陽光が反射し、遊歩道を自転車が通り過ぎていく。対岸では犬を連れた男性が立ち止まり、犬が草むらの匂いを嗅ぎ終わるのを待っていた。
「ここ、昔はこんな道じゃなかったんだよ」
沙耶さんが川を見ながら言った。
「前にも来たことがあるんですか?」
「うん。まだお父さんと結婚する前だったかな。仕事の帰りに、この辺りを散歩したことがあるの」
彼女は川下の方を指さした。
「あっちに、小さな喫茶店があったんだよね。窓際の席から川が見えて、よくそこで本を読んでたの」
「今もあるんですか?」
「どうだろう。ずいぶん前だから、もうないかもしれないね」
沙耶さんは少し懐かしそうに笑った。
仕事帰りに知らない道を歩いたり、休日に電車で適当な駅まで出かけたりするのが好きだったらしい。気になる店を見つけては入ってみるのが、当時の楽しみだったそうだ。
「そういう話、初めて聞きました」
「そうだっけ?」
「はい。沙耶さんが一人で出かけてるところ、あまり見たことなかったので」
「結婚してからは、仕事も家事もあったしね。お父さんと一緒に過ごすことも増えたから」
彼女は少し考えてから、俺の方を向いた。
「でも、三人で暮らしてた頃も楽しかったよ」
「……俺も、楽しかったです」
「そっか。よかった」
沙耶さんは嬉しそうに笑い、水のボトルを俺に返した。
それから、実家にいた頃の話になった。
父が休日に仕事の電話を受けると、なかなか切り上げられなかったこと。沙耶さんが夕食の準備をしている間、俺が味見を頼まれるのを楽しみにしていたこと。
「あの頃、航平くんって何でもおいしいって言ってくれたよね」
「本当においしかったですから」
「でも、一度だけ変な顔してたよ。私が作った煮物」
「ああ……あれですか」
「覚えてる?」
「砂糖と塩を間違えたやつでしょう」
「やっぱり分かってたんだ」
「そりゃ分かりますよ」
彼女は声を立てて笑った。
「だったら言ってくれればよかったのに」
「沙耶さん、すごく自信ありそうだったから」
「気を遣わせちゃってたんだねえ」
そのときの彼女の顔を思い出し、俺も笑った。
沙耶さんは今でも、あれは調味料の入れ物が悪かったのだと主張している。父にも同じことを言っていたらしい。
どう考えても本人の不注意だと思ったが、せっかくの機嫌を損ねるのも惜しくて黙っておいた。
しばらくすると、沙耶さんが自分から立ち上がった。
「そろそろ行こうか。ここでずっと話してたら、本屋に着かなくなっちゃう」
俺も立ち上がり、飲み物を鞄にしまった。
橋を渡ると、川沿いの風が少し遠ざかった。沙耶さんは商店街の方へ歩きながら、昔よく読んでいた作家の名前を挙げ始めた。
そのうち何人かは、俺も知っていた。
◇
本屋は、商店街の一角にあった。
大きな書店ではない。入口の横には雑誌の棚があり、奥へ進むと文庫本や単行本が並んでいる。店内には紙とインクの匂いが漂い、静かな音楽が流れていた。
沙耶さんは店に入ると、嬉しそうに棚を見回した。
「こういうところ、久しぶり」
彼女は文庫本の棚へ向かい、俺は少し離れたところで新刊を眺めた。
奥の棚には新しい本に交じって、ずいぶん前に刊行された文庫も置かれている。沙耶さんは何冊もの本を手に取り、裏表紙を確かしては棚へ戻していた。
目当ての本を探しているというより、棚を眺めながら気になるものを見つけているようだった。
「何か探してるんですか?」
「ううん。決めてないよ」
「じゃあ、どうやって選ぶんです?」
「面白そうだと思ったら」
あまりにも簡単な答えだった。
「それだと外れることもあるでしょう」
「あるよ。でも、当たりだったときは嬉しいじゃない」
彼女は手にしていた本を俺に見せた。
「これ、どう思う?」
「……読んだことないです」
「私も」
「じゃあ、分からないですよ」
「そうだよね」
沙耶さんは楽しそうに笑った。
「でも、表紙が好きだから買ってみようかな」
俺なら、先に評判を調べてから買うだろう。
面白いと分かっている本を選ぶ方が失敗も少ないし、限られた時間を無駄にせずに済む。けれど、彼女が棚の間を行ったり来たりしている様子を見ていると、そんな選び方も悪くない気がしてきた。
沙耶さんは気に入った一冊を手にしたまま、今度は別の棚へ移っていった。
俺も新刊の棚へ戻り、気になる本を何冊か手に取った。
映画に関する雑誌が並んでいる一角で足を止める。近くの小さな映画館で、来月から古い作品の特集上映が始まるらしい。
その中には、以前から観たいと思っていた作品もあった。
上映情報を確かめていると、背後から声がした。
「航平くん、映画も好きなの?」
振り返ると、沙耶さんが立っていた。
「はい。休みの日に、たまに観に行きます」
「へえ。昔はあんまり聞かなかったね」
「大学に入ってからですかね。友達に誘われて行った映画館が気に入って、それから一人でも行くようになりました」
沙耶さんは俺の手元の雑誌を覗き込んだ。
「結構古い映画も観るんだ」
「古いのも好きです。普段は配信でしか観られない作品が、映画館で上映されることもあるので」
「そうなんだ。面白そう」
彼女は雑誌に掲載された映画館の写真を眺めていた。
小さな建物の入口に、手書きの上映予定が貼られている写真だった。
「こういう映画館、まだあるんだね」
「ありますよ。俺がよく行くところも、こんな感じです」
「一人で?」
「大抵は。友達と予定が合えば一緒に行きますけど」
「ふうん」
沙耶さんはもう一度写真を見てから、俺の顔に視線を戻した。
「何だか、ちょっと意外」
「何がですか?」
「航平くんって、もっと家で過ごすのが好きなのかと思ってた」
「家にいるのも好きですよ」
「それは知ってる」
そう言って、彼女は笑った。
俺もつられて笑う。
昔の俺なら、休日に一人で映画館へ行くなんて、まず考えなかっただろう。知らない場所へ出かけるのは得意ではなかったし、何かをするなら友達と一緒の方が安心だった。
大学へ入ってからの五年間で、そんなところも少しずつ変わったのだと思う。
沙耶さんは俺の持っていた雑誌をもう一度眺めたあと、文庫本の棚へ戻っていった。
俺は雑誌を一冊手に取り、そのままレジへ向かった。
少しして、彼女も文庫本を二冊抱えてやって来た。
「結局、二冊にしたんですね」
「うん。もう一冊気になったんだけど、今日はこれだけ」
「どんな話なんですか?」
「一冊は分かるけど、こっちは読んでみないと分からないかな」
彼女はそう言って、最初に選んだ本を少し持ち上げた。
表紙には、雨の降る街角が描かれている。
「それで買ったんですか?」
「うん。だって、気になるでしょう?」
その顔を見ていると、何を言っても無駄な気がした。
俺が苦笑すると、沙耶さんも笑いながら会計を済ませた。
店を出ると、彼女は紙袋をバッグへしまい、近くの喫茶店を指さした。
「あそこ、入ってみない?」
ガラス張りの入口から、木製のテーブルがいくつか見える。店内には客が数組いるだけで、静かに過ごせそうだった。
「いいですね。少し休んでいきましょうか」
沙耶さんは嬉しそうに頷いた。
◇
喫茶店の奥には、通りに面した窓際の席があった。
沙耶さんはそこを選び、バッグを隣の椅子に置いた。俺がメニューを広げる間、彼女は窓の外を眺めている。
「何にします?」
「紅茶かな。航平くんは?」
「俺はカフェオレにします」
「へえ。昔は甘いココアばっかり飲んでたのに」
「今でもココアは好きですよ」
「そうなんだ」
「大人になったら苦いものしか飲めなくなるわけじゃないですから」
「それもそうだね」
注文を済ませると、沙耶さんは買ってきた本を取り出し、しばらく表紙を眺めていた。
先ほどの雨の街角が描かれた本だった。
「そんなに気に入ったんですか?」
「うん。読むのが楽しみ」
彼女は表紙を指先でなぞってから、バッグへしまった。
ちょうど飲み物が運ばれてきた。
カフェオレは思っていたより少し苦く、砂糖を入れようか迷っていると、沙耶さんがこちらを見て笑った。
「苦かった?」
「……少し」
「昔と変わらないねえ」
「だから、今でも甘いものは好きなんですって」
俺が砂糖を取ると、彼女はおかしそうに笑った。
それからしばらく、仕事の話になった。
今はどんな仕事をしているのか、一人暮らしは大変ではないか。沙耶さんは思いつくままに尋ねてきた。
俺が最近初めて取引先で説明を任された話をすると、彼女は身を乗り出した。
「一人で説明したの?」
「先輩も一緒でしたけど、説明するのはほとんど俺でした」
「緊張したでしょう」
「前の日はあんまり眠れませんでしたね。資料を何回も見直してたら、気づいたら夜中で」
「航平くんらしいね」
「当日はもっと大変でしたけど」
説明自体は何とか終わったものの、終わった途端に力が抜けてしまい、取引先の建物を出るときに入館証を返し忘れた。駅へ向かう途中で気づいて慌てて引き返し、同行していた先輩にずいぶん笑われた。
沙耶さんも声を立てて笑った。
「大事なところはちゃんとできたのにね」
「そうなんですよ。先輩にも、最後まで気を抜くなって言われました」
「でも、返し忘れに気づいてよかったね」
「危うく会社まで持って帰るところでした」
そう言うと、彼女はまた笑った。
仕事で失敗した話をしているのに、こんなに楽しそうに聞かれるとは思わなかった。けれど、沙耶さんに笑われるのは昔からそれほど嫌ではなかった。
話は自然と、大学生活や一人暮らしのことへ移っていった。
洗濯物を干したまま雨に降られたこと。初めて作った料理が思った以上の量になり、三日続けて同じものを食べたこと。社会人になってからは、週末にまとめて買い物をするようになったこと。
そんな話をしているうちに、沙耶さんの紅茶はすっかり冷めてしまっていた。
「ちゃんと料理してるんだね」
「毎日じゃないですけど。外食ばっかりだとお金がかかりますから」
「得意料理は?」
「得意ってほどじゃないですけど、カレーは失敗しなくなりました」
「それ、昔から好きだったよね」
「はい。でも、最近は少し辛いのも食べられるようになりました」
「じゃあ、いつか作ってもらおうかな」
「いいですよ。沙耶さんのカレーには負けると思いますけど」
「そんなことないよ。私のは普通のカレーだもの」
「その普通のが難しいんですよ」
沙耶さんは少し得意そうに笑った。
昔、実家で彼女が作ってくれたカレーの味を思い出す。特別な材料を使っているわけでもないのに、なぜか自分で作るものとは違っていた。
何度か作り方を聞いたことがあるが、返ってくるのは、普通に作っているだけだよ、という答えばかりだった。
今なら、もう少し詳しく聞けば分かるかもしれない。
そう思ったところで、彼女がテーブルの上に置いた映画雑誌へ手を伸ばした。
「さっきの、ちょっと見てもいい?」
「どうぞ」
沙耶さんは表紙を開き、掲載された映画館の写真を眺めた。
古い作品の紹介が並ぶページで手を止め、ひとつの写真を指さす。
「これ、知ってる」
「ああ、有名な作品ですからね」
「昔、テレビで観たことがあるの。でも途中からだったから、結末は知らないんだよね」
「それ、今度上映されるみたいですよ」
「そうなの?」
俺が上映予定のページを開くと、沙耶さんは隣から覗き込んだ。
雑誌を彼女の方へ向け、見やすい位置に置く。沙耶さんは日程を指で追いながら、小さく声を上げた。
「へえ。平日だけじゃなくて、土曜日もやってるんだ」
「はい。この映画館、週替わりで古い作品を上映するんです」
「そういうところに、航平くんは一人で行ってるんだね」
「たまにですけどね」
彼女はもう一度写真を眺めた。
その横顔を見ながら、俺は少し妙な気分になっていた。
沙耶さんは俺の知らない街を歩き、知らない本を選んでいる。
俺も彼女の知らない場所へ出かけ、自分の好きなものを見つけてきた。
こうして話してみると、五年間というのは思っていた以上に長い時間だった。
「航平くん」
「はい」
「今度、その映画館の話も聞かせてね」
「いいですよ。結構古い建物なんですけど、雰囲気が好きなんです」
「そうなんだ。楽しそう」
彼女は雑誌を俺の方へ戻し、残っていた紅茶を飲んだ。
窓の外では、昼近くになって人通りが増えていた。日差しを受けた店先の看板が、通りを歩く人々の影を落としている。
沙耶さんは少し疲れたのか、しばらく窓の外を眺めていた。
俺も急いで話題を探さず、カフェオレの残りを飲んだ。
◇
喫茶店を出た頃には、昼を少し過ぎていた。
商店街は午前中より賑わっていた。買い物帰りの人たちに交じって、近くの学校の制服を着た学生が何人か歩いている。
沙耶さんは来た道をゆっくり戻り始めた。
本屋で買った本をバッグにしまい、店先を眺めながら歩いていたが、商店街を抜ける頃には口数が少なくなっていた。
信号待ちで立ち止まったとき、彼女は少し長く息を吐いた。
「沙耶さん、川のところで少し休みましょうか」
彼女は俺を見て、素直に頷いた。
「うん。そうさせてもらおうかな」
川沿いのベンチまで戻り、二人で腰を下ろした。
沙耶さんはバッグを膝の上に置き、しばらく目を閉じていた。俺は隣に座り、彼女が呼吸を整えるのを待った。
風が吹くたび、川面に小さな波が立つ。午前中に見かけた犬連れの男性の姿はなく、代わりに小さな子どもを連れた家族が遊歩道を歩いていた。
しばらくすると、沙耶さんが目を開けた。
「思ったより疲れちゃった」
「本屋でも結構歩きましたからね」
「うん。ちょっと夢中になっちゃったかな」
彼女は照れくさそうに笑ったが、声には疲れが滲んでいた。
「帰りはタクシーにしようかな。航平くん、呼んでもらってもいい?」
「もちろんです」
スマートフォンを取り出し、配車を手配する。
車は五分ほどで到着するらしい。川沿いの道は車が停めにくいため、少し先の大通りで待ち合わせることにした。
沙耶さんに場所を伝えると、彼女は頷き、水を一口飲んだ。
それから、膝の上のバッグを開き、買ってきた本を確かめる。
「せっかくだから、帰ったら少し読もうかな」
「まず休んでくださいよ」
「うん。横になって読む」
「それなら、気づいたら寝ちゃってそうですね」
「そうかも」
沙耶さんは笑って、本をバッグに戻した。
午前中にあれほど楽しそうに歩いていた彼女が、今はベンチの背もたれに体を預けている。
病気になってからは、こうして予定どおりにいかない日が増えたのだろう。今日だって、本屋へ行くこと自体はできても、帰り道まで元気でいられるとは限らない。
俺がそのことを知っているのと、実際に目の当たりにするのとでは、ずいぶん違っていた。
しばらくして、沙耶さんが隣から俺を見た。
「何か、難しい顔してる」
「……そうですか?」
「うん。昔から考えてることが顔に出るんだから」
俺は少し笑った。
「そんなに変わらないですかね」
「そこはね」
彼女はそう言って、俺の鞄に目を向けた。
「でも、今日はいろいろ助かったよ。ありがとう」
「まだ帰ってないですよ」
「あ、そうだった」
沙耶さんはおかしそうに笑った。
そのとき、スマートフォンに車の到着予定を知らせる通知が届いた。
「そろそろ行きましょうか。ゆっくりで大丈夫です」
「うん」
彼女はベンチの端に手をつき、立ち上がろうとした。
途中で少し体勢が崩れたので、俺は手を差し出した。
沙耶さんは一瞬その手を見てから、素直に取った。
思っていたより細い手だった。
俺が立ち上がるのを手伝うと、彼女は足元を確かめ、バッグの位置を直した。
「ありがとう。ちょっと足に力が入らなくて」
「まだ時間ありますから、急がなくていいですよ」
「うん」
沙耶さんは俺の腕に軽く手を添えた。
そのまま、二人で大通りへ向かう。
昔、熱を出して病院へ連れていってもらったとき、沙耶さんに肩を支えられたことがあった。
あの頃は、彼女に体を預けるのが少し恥ずかしかった。高校生にもなって情けないと思っていたし、何より好きな女性に弱いところを見られたくなかった。
今は俺の方が背も高く、体も大きい。
彼女が腕に添えた手の重さは、ほとんど感じなかった。
大通りへ出ると、ちょうどタクシーが近づいてきた。
俺は運転手に合図を送り、車が停まるのを待った。
後部座席のドアが開くと、沙耶さんは俺の腕から手を離した。
「大丈夫ですか?」
「うん。ありがとう」
彼女はゆっくりと車に乗り込んだ。
俺も隣に座り、運転手にマンションの住所を伝えた。
車が走り出すと、沙耶さんは窓の外へ目を向けた。
少しして、俺の方を見る。
「航平くん」
「はい」
「今日は、一緒に来てくれてよかった」
彼女はそれだけ言って、また窓の外を見た。
俺も何も言わなかった。
運転手の流すラジオの音が、小さく聞こえていた。
◇
マンションへ戻ると、沙耶さんは少し疲れた顔をしていた。
玄関で靴を脱ぎ、居間へ向かう。俺は彼女から預かったバッグをテーブルのそばへ置き、台所で水を用意した。
「何か飲みます?」
「お水がいいな。冷たすぎないやつ」
「分かりました」
コップに水を注いで持っていくと、彼女はソファに腰を下ろしていた。
「ありがとう。助かる」
沙耶さんは水を飲み、少し落ち着いたように息をついた。
俺は向かいの椅子に座り、鞄から映画雑誌を取り出した。帰りに折れ曲がってしまったページを直していると、沙耶さんがその表紙に目を留めた。
「それ、今日買ったやつだよね」
「はい」
「さっきの映画館、もう一度見せてもらってもいい?」
雑誌を渡すと、彼女は喫茶店で見ていたページを探し始めた。
俺が横からページを示すと、ああ、これこれ、と嬉しそうに言う。
「小さい映画館なんだね」
「そうですね。席もそんなに多くないですし」
「こういうところ、行ったことないなあ」
沙耶さんは掲載された写真をしばらく眺めていた。
それから、俺の方を見た。
「今度は、航平くんの好きなところにも行ってみたいな」
何気ない言い方だった。
けれど、俺はすぐに返事ができなかった。
「……映画館、ですか?」
「うん。それでもいいし、ほかのところでも」
彼女は雑誌を閉じ、テーブルに置いた。
「今日、いろいろ話を聞いてたら、ちょっと興味が湧いちゃった」
そう言って笑う。
「航平くん、昔は一人で知らないところに行くの、苦手だったでしょう?」
「そうですね。大学に入ってから、少しずつ慣れました」
「そっか」
沙耶さんは短く頷いた。
それから、さっきまで見ていた映画館の写真へ視線を落とした。
「私も、久しぶりに映画館へ行ってみようかな」
「いいですね。上映時間を調べておきます」
「でも、あんまり長いのは途中で寝ちゃうかも」
「そこは勘弁してくださいよ」
「だって、暗くて静かなところって眠くなるでしょう?」
「せめて映画が終わるまでは起きててください」
沙耶さんは声を立てて笑った。
俺もつられて笑う。
少し疲れているはずなのに、彼女は映画雑誌をもう一度手に取り、上映予定のページを開いた。
俺は椅子を移動させ、隣から日程を確認した。
気になっていた作品の上映は、来週末から始まるらしい。ただ、沙耶さんの体調によっては、その日に出かけられるとは限らない。
「来週の土曜日からですね」
「そうなんだ」
「予約が必要かどうかも調べておきます。体調がよければ、行ってみませんか」
彼女は少し考え、頷いた。
「うん。そうしようかな」
そのあとも、沙耶さんは掲載されている映画の写真をいくつか眺めていた。
俺が好きな作品について話すと、彼女は興味深そうに耳を傾けた。知らない俳優の名前を尋ねたり、上映時間を確認したりする。
やがて、ページをめくる手が止まった。
沙耶さんは雑誌を閉じ、ソファの背もたれへ体を預けた。
「……ちょっと眠くなってきちゃった」
「今日は結構歩きましたからね」
「うん。久しぶりに出かけたからかな」
彼女は小さく欠伸をして、慌てて口元を押さえた。
その様子がおかしくて、俺は少し笑ってしまった。
「あ、ごめんね」
「謝らなくていいですよ。そろそろ帰ります」
「うん。そうしてもらおうかな」
俺は立ち上がり、飲み終えたコップを台所へ運んだ。
流し台に置くと、沙耶さんがソファから腰を浮かせようとしているのが見えた。
「見送りはいいですよ。そのままで」
「でも、玄関くらいは」
「今日くらいは、ゆっくりしててください」
そう言うと、彼女は少し困ったように笑った。
「じゃあ、お言葉に甘えようかな」
俺は鞄を肩に掛け、玄関へ向かった。
靴を履いていると、居間から沙耶さんの声が聞こえる。
「航平くん、今日はありがとう」
「こちらこそ。また連絡します」
「うん。気をつけてね」
俺は玄関の扉を開けた。
外へ出る直前、もう一度だけ居間の方を見る。
沙耶さんはソファに座ったまま、買ってきた本を手に取っていた。ページを開く前にこちらへ顔を上げ、小さく手を振ってくれる。
俺も手を振り返し、静かに扉を閉めた。
◇
マンションを出ると、夕方の風が少し涼しくなっていた。
駅へ向かう道を歩きながら、来週の映画館のことを考えた。
沙耶さんを連れていくなら、普段よく利用している小さな映画館がいいだろう。駅から近いし、周囲には喫茶店もある。上映時間によっては、映画だけ観て帰ることもできる。
ただ、彼女が気に入るかどうかは分からない。
俺自身が好きな場所だからこそ、少し緊張する。
沙耶さんは昔から、俺の話をよく聞いてくれる人だった。
けれど、当時の俺は彼女に自分の趣味を話すことさえ、どこかためらっていた。年齢が離れていることもあったし、何より嫌われたくなかった。
今日、彼女は俺が知らない本を選ぶのを楽しんでいた。
俺も彼女が知らない映画の話をした。
そのどちらも、家族として暮らしていた頃にはなかった時間だった。
駅前の信号が赤に変わり、俺は立ち止まった。
スマートフォンを取り出し、映画館の上映予定を開く。
来週末の上映作品はいくつかあった。そのうちの一本は、俺が以前から観たいと思っていたものだった。
上映時間を確認すると、少し長い。
別の作品にした方がいいかもしれないと考え、ほかの候補も調べてみた。短い作品もあるし、時間帯が選べるものもある。
信号が青に変わるまでの間に、候補を二本に絞った。
駅へ向かって歩きながら、沙耶さんへメッセージを送る。
『映画、二本候補を見つけました。上映時間を送るので、体調がよければ行きませんか』
すぐに返事が来るとは思わなかった。
沙耶さんは疲れていると言っていたし、家に帰ってから横になるつもりだとも話していた。
駅の改札を通り、ホームへ向かう階段を下りる。
ちょうど電車が到着したところだった。
乗り込んで空いている席に座ると、スマートフォンが震えた。
『ありがとう。楽しみにしてるね』
それに続けて、もう一通。
『ところで、航平くんはどっちが観たいの?』
俺は画面を見つめた。
二本のうち、以前から観たかった方を選ぶ。
『こっちです。ずっと観たかった映画なので』
送信してから、少し迷って付け加えた。
『でも、沙耶さんが観たい方でも大丈夫ですよ』
返事は、思っていたより早かった。
『じゃあ、それを観ようよ』
電車がゆっくりと動き始めた。
窓の外では、駅前の建物が夕方の光を受けている。
俺は上映予定をもう一度開いた。
来週の土曜日、午後一時から。
それが、今度の約束になった。




