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母と呼ばなくていいと言ったあなたに、恋をした。  作者: 澄野 朔


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第1話 母と呼ばなかった人

 父から離婚したと聞かされたのは、仕事を終えて帰宅したばかりの夜だった。


「沙耶と別れた」


 電話越しの声は、いつもと変わらなかった。


 俺は脱ぎかけていた上着を手にしたまま、しばらく返事ができなかった。聞き間違いかと思ったが、父は同じことを繰り返さず、黙って俺の反応を待っている。


「……どういうことだよ」


「言ったとおりだ。先月、離婚した」


「なんで今さら。七年も一緒にいたんだろ」


 父は小さく息を吐いた。


「いろいろあったんだ」


 その言い方に苛立った。仕事で何か問題が起きたとき、父は決してそんな曖昧な説明を許さない。少なくとも、俺の知る父はそういう人間だった。


「いろいろって何だよ。沙耶さんは?」


「もう家にはいない。今は一人で暮らしてる」


「一人って……」


 父が何か言いかけ、言葉を切った。受話口の向こうで物音がしたあと、低い声が続く。


「病気なんだ。がんが見つかってな」


 持っていた上着が床に落ちた。


「いつ?」


「半年前だ。見つかったときには、かなり進んでいた」


「なんで教えてくれなかったんだよ!」


 思わず声が大きくなった。隣の部屋に聞こえるかもしれないと思ったが、構っていられなかった。


「沙耶が、お前には言わないでくれって」


「だからって、今まで黙ってたのか?」


「お前にはお前の生活があるだろう。あいつも、それを気にしてた」


 それ以上は何を聞いても、父の答えは要領を得なかった。


 治療は受けているらしい。仕事は休んでいる。離婚後に住み始めた場所も、父は知っていた。ただ、病気の詳しい状態については、もう話せる立場ではないと言う。


「父さんから離婚を言い出したのか?」


 しばらく間があった。


「……そうだ」


「病気になったから?」


「そんな簡単な話じゃない」


 父の声に、初めて苛立ちが混じった。


「俺だって、できることはやったんだ。最初は何とかしようと思ってた。だけど、何をしても前みたいには戻らなくて……」


「前みたいにって、何が?」


「お前には分からんよ」


 その言葉を最後に、父は口を閉ざした。


 分からないのは当然だった。何も知らされていなかったのだから。


 それでも、父を問い詰め続ける気にはなれなかった。電話の向こうの沈黙からは、いつもの威厳も、仕事の話をするときの自信も感じられなかった。


 結局、詳しい事情を聞くことはできなかった。


 電話を切ってからも、しばらく床に落ちた上着を拾えずにいた。


 沙耶さん。


 その名前を声に出したのは、いつ以来だろう。


 スマートフォンの連絡先には、今でも番号が残っている。最後に交わしたメッセージを開くと、五年前の日付が表示された。


 大学の入学式を終えた俺に、彼女が送ってくれたものだった。


『入学おめでとう。ご飯はちゃんと食べてる?』


 俺の返事は、たった二行。


『ありがとう。食べてます』

『心配しなくて大丈夫です』


 それきり、直接やり取りはしていなかった。


 五年間。


 会おうと思えば会えたはずなのに、俺は一度も会いに行かなかった。


     ◇


 父が再婚したのは、俺が十六歳のときだった。


 相手は三十一歳。父より十四歳も若い、同じ会社で働く女性だった。


 初めて紹介された日のことは、今でもよく覚えている。


 父が連れてきた女性は、思っていたより小柄で、肩にかかる髪を後ろで一つにまとめていた。淡い色のブラウスに紺色のスカート。年齢より若く見えたが、話し方には落ち着きがあった。


「初めまして。沙耶です」


 彼女は少し緊張したように笑った。


「話は聞いてると思うけど、これからよろしくね」


「……よろしくお願いします」


 俺も緊張していた。知らない女性が父の妻になり、今日から一緒に暮らす。その事実をどう受け止めればいいのか、まだ分からなかった。


 母が亡くなってから、父と二人で暮らしてきた。


 父は仕事のできる人だった。部下からの信頼も厚く、会社では困っている人を放っておけないらしい。休日にも仕事の相談を受けていたし、俺が学校で何か問題を起こせば、忙しくても必ず時間を作ってくれた。


 ただ、母がいなくなってから、家の中では少し違っていた。


 夕食をどうするか、休日に何をするか。そんな小さなことさえ決めるのが面倒になったようで、俺に任せることが増えた。仕事の話はよくしてくれたが、家での父は疲れた顔をしていることが多かった。


 そんな父を支えてくれたのが、職場の部下だった沙耶さんだ。


 仕事で行き詰まったときに相談に乗り、帰りが遅くなれば夕食に誘い、亡くなった母の話にも耳を傾けてくれたという。


 父は以前、「一番つらかったときに、話を聞いてくれた人なんだ」と教えてくれたことがある。


 そのときの父は、少し照れくさそうだった。


 沙耶さんは初婚だった。


 だから、いきなり高校生の息子ができることについては、彼女の方にも戸惑いがあったと思う。


「今日から三人で家族になるんだからな」


 父がそう言ったとき、俺は何と返せばいいのか分からず、曖昧に頷いた。


 すると沙耶さんが、少し困ったように笑った。


「あのね、無理にお母さんって呼ばなくていいからね」


 予想していなかった言葉だった。


「私だって、急にお母さんらしくできるか分からないし。呼びやすいように呼んでくれたらいいから」


「それじゃ、いつまで経っても他人行儀じゃないか」


 父が苦笑すると、彼女は首を傾げた。


「でも、名前で呼んだからって家族じゃなくなるわけじゃないでしょう?」


 そう言って、俺の方を見た。


「何て呼びたい?」


 初対面の女性にそんなことを尋ねられても、すぐには答えられない。


 少し迷ってから、俺は言った。


「沙耶さん、でいいですか」


「うん。私もそれがいいな」


 彼女は嬉しそうに笑った。


 こうして、俺には母親になった人ができた。


 けれど、最後まで一度も、お母さんとは呼ばなかった。


     ◇


 沙耶さんとの暮らしは、思っていたほど気まずいものではなかった。


 彼女は必要以上に俺の生活へ踏み込んでこなかった。学校のことを根掘り葉掘り聞くわけでもなく、休日にどこへ出かけるのかと問い詰めることもない。


 ただ、夕食の時間が近づいても帰らなければ連絡をくれたし、試験前に遅くまで起きていると、台所から声をかけてきた。


「航平くん、お茶飲む?」


「大丈夫です」


「そっか。じゃあ、私の分だけ淹れよう」


 そんな調子だった。


 断れば、それ以上は勧めてこない。けれど、しばらくして俺が台所へ行くと、彼女は自分のお茶を飲みながら、まだ起きてたの、と笑う。


 俺が初めて彼女を頼ったのは、一緒に暮らし始めてから三か月ほど経った頃だった。


 冬の初め、学校から帰る途中で急に具合が悪くなった。


 朝から少し喉が痛かったのだが、部活動を終える頃には寒気までしていた。家に帰って熱を測ると、三十八度を超えている。


 その日は父の帰りが遅いと聞いていた。


 自室で寝ていれば治るだろうと思い、制服を着替えて布団に入った。ところが、しばらくすると吐き気までしてきた。


 階下へ降りようとして、廊下の壁に手をついたところを沙耶さんに見つかった。


「航平くん? どうしたの」


「ちょっと、気持ち悪くて……」


 彼女は俺の額に手を当て、すぐに部屋へ戻るように言った。水と体温計を持ってきて、症状を聞きながら、受診できる病院を調べてくれた。


「なんでもっと早く言わなかったの」


「寝てれば大丈夫かと思って」


「それで倒れたらどうするの。具合が悪いときくらい、ちゃんと頼ってよ」


 少し怒った声だった。


 沙耶さんは俺が落ち着くまでそばにいて、父にも連絡してくれた。病院で診てもらい、帰宅してからも、薬を飲む時間や水分のことを気にかけてくれた。


 夜になって父が帰宅すると、寝室まで様子を見に来た。


「大丈夫なのか? 明日は学校を休ませた方がいいのか」


「熱が下がるまでは休ませるよ。病院でもそう言われたから」


「そうか。食事はどうする?」


「お粥を作ってあるから。食べられそうなら少し食べてもらう」


 父は安心したように頷いた。


 俺には、仕事でも何でも自分で考えなさいと言う人なのに、沙耶さんがいると、細かなことまで彼女に尋ねる。その様子が少し不思議だった。


 父が部屋を出たあと、沙耶さんは枕元の水差しを確認してから立ち上がった。


「夜中に苦しくなったら呼んでね。遠慮しなくていいから」


「……ありがとうございます」


「こういうときは、ありがとうより、ちゃんと頼ってくれた方が嬉しいな」


 照れくさくて、俺は布団を少し引き上げた。


 彼女はそれ以上何も言わず、部屋の明かりを落として出ていった。


 翌朝、目を覚ますと枕元の水差しが新しいものに替わっていた。夜中に一度だけ、誰かが部屋へ入ってきた気がしたが、熱でぼんやりしていたので、はっきりとは覚えていない。


 後になって沙耶さんに聞くと、彼女はあっさり答えた。


「ちゃんと寝てたから、起こさなかっただけだよ」


 それから俺は、体調が悪いときだけでなく、何か困ったことがあったときにも、少しずつ彼女に相談するようになった。


 父に言いにくいことも、沙耶さんには話せた。


 ただし、彼女は何でも解決してくれる人ではなかった。


 俺の話を最後まで聞いたうえで、自分で考えなさいと言うことも多かった。時には父より厳しい意見が返ってくる。それでも、少なくとも話を聞いてもらえるという安心感があった。


 一方、父も沙耶さんをずいぶん頼りにしていた。


 仕事から帰ると、その日の出来事を彼女に話した。部下の失敗や、上司との意見の食い違い。仕事の相談を持ちかけられることもあった。


 沙耶さんは料理の手を止め、父の話を聞いた。


 ある晩、夕食を終えて自室へ戻ろうとしたとき、父が居間から彼女を呼んだことがある。


「沙耶、ちょっと聞いてくれないか」


「今、お皿を片づけてるんだけど」


「五分でいいから」


 沙耶さんは手を拭き、父の隣へ座った。


 結局、話は五分では終わらなかった。


 俺が風呂から上がったときも、父はまだ仕事の愚痴をこぼしていた。沙耶さんは相槌を打ちながら聞いていたが、テーブルには飲みかけのお茶がすっかり冷めて残っていた。


「あなた、そろそろお風呂に入ったら? 明日も早いんでしょう」


「ああ。でも、さっきの話なんだが」


「うん。続きは明日にしよう。私もそろそろ眠いから」


 沙耶さんが立ち上がると、父は少し残念そうな顔をした。


「お前に聞いてもらうと、気持ちが落ち着くんだよ」


「それは嬉しいけど、私も明日仕事だからね」


 そう言って笑う沙耶さんに、父もつられて笑った。


 父は外では立派な大人だったけれど、家では沙耶さんに甘えているように見えた。


 もっとも、当時の俺は、それを夫婦というものなのだろうと思っていた。


 沙耶さん自身も、父に頼られることを嫌がっている様子はなかった。父が仕事でうまくいった日は自分のことのように喜び、疲れて帰ってきた日には好物を作ることもあった。


 家の中には、母が亡くなって以来ずっと欠けていたものが、少しずつ戻ってきているように感じられた。


 俺が沙耶さんに惹かれ始めたのも、そんな毎日の中だった。


 きっかけになるような、特別な事件があったわけではない。


 彼女は優しかった。


 でも、何でも俺の言うことを聞いてくれるわけではなかった。


 間違っていれば注意するし、意見が違えば自分の考えを言う。俺が不機嫌なときは無理に機嫌を取ろうとせず、かといって避けることもしなかった。


 たまに冗談を言って、俺を困らせることもあった。


「航平くんって、考えてることが顔に出るよね」


「そんなことないです」


「今、絶対にそんなことないって思ってる顔してる」


「……言ったじゃないですか」


「あ、そうだった」


 彼女は声を立てて笑った。


 そんな他愛のない会話が、いつの間にか楽しみになっていた。


 学校から帰って、玄関に彼女の靴があると少し嬉しい。休日に父と二人で出かけると聞けば、仕方のないことだと分かっているのに、妙に落ち着かなくなる。


 父と沙耶さんが並んで夕食の支度をしている姿を見て、慌てて目をそらしたこともあった。


 父の妻なのだから、当たり前の光景だった。


 それなのに、胸の奥がざわついた。


 彼女は父の妻だった。


 そして俺にとっては、義理とはいえ母親だった。


 だから、好きだなんて言えるはずもなかった。


     ◇


 高校三年になる前、進学先をめぐって父と意見がぶつかったことがある。


 俺は遠方の大学を希望していたが、父は地元から通える大学を勧めていた。


「わざわざ家を出る必要はないだろう。似たような学部なら、こっちにもある」


「でも、俺がやりたい勉強は向こうの方が――」


「大学は遊びに行くところじゃないぞ。先のことも考えて決めなさい」


 父は一度決めたことを、なかなか変えない人だった。


 それが仕事では頼もしさにつながっているのだろうが、息子としては厄介だった。俺が理由を説明しても、父は自分の経験から正しいと思う答えを繰り返す。


 夕食の席で黙り込んだ俺を見て、沙耶さんが口を開いた。


「航平くん、その大学で何を勉強したいの?」


 父の味方をするのだと思っていた俺は、少し驚いた。


 用意していた資料のことを話すと、彼女は興味深そうに質問してきた。俺がうまく答えられないところでは、そこも調べた方がいいんじゃない、と指摘された。


 一通り話し終えると、彼女は父に向き直った。


「ちゃんと考えてるみたいだよ。もう少し話を聞いてあげてもいいんじゃない?」


「しかしなあ……」


「心配なのは分かるけど、航平くんの進路でしょう?」


 父は困った顔をして、それ以上は何も言わなかった。


 その日の夜、部屋で資料を整理していると、沙耶さんが声をかけてきた。


「さっきは途中で終わっちゃったけど、航平くんはどうしたい?」


「……あの大学に行きたいです」


「うん。だったら、ちゃんと調べて、お父さんが安心できるくらい説明できるようになろうか」


「沙耶さんは、反対じゃないんですか」


「私が決めることじゃないでしょう?」


 彼女は俺の机に広げられた資料を見て、学費の欄を指さした。


「でも、ここはちゃんと考えないとね。遠くで暮らすなら、生活費もかかるんだから」


 それから一時間ほど、二人で大学の資料を調べた。


 学費、奨学金、下宿先の家賃。俺が考えていなかった問題もいくつも見つかった。沙耶さんは答えを教えるのではなく、俺が調べたことを聞き、足りない部分を指摘してくれた。


 すっかり遅くなった頃、彼女が椅子から立ち上がった。


「じゃあ、あとは航平くんの仕事だね」


「父さんを説得することですか?」


「説得っていうより、ちゃんと話し合うことかな。お父さんだって、航平くんに失敗してほしいわけじゃないんだから」


 彼女はそう言って、資料を揃えるのを手伝ってくれた。


「ありがとうございます。助けてくれて」


「まだ何も決まってないでしょう?」


「でも、父さんに話してくれたから」


 沙耶さんは少し考えるように俺を見た。


「困ったときに手を貸すくらいはするよ。でも、航平くんの人生だから、最後は自分で決めなきゃね」


「……はい」


「それに、調べ方がちょっと甘かったよ。さっきの家賃なんて、光熱費が入ってなかったでしょう」


 思わず顔をしかめると、彼女は楽しそうに笑った。


「ほら、そういう顔する。怒ってないんだから」


 彼女が部屋を出ていったあとも、俺はしばらく机の前に座っていた。


 自分の希望を認めてもらえたことが嬉しかった。


 俺のために時間を使ってくれたことも。


 けれど、一緒に資料を覗き込んだときの横顔や、笑ったときに少し細くなる目を思い出してしまうのは、それとは別の理由だった。


 あの人が父の妻でなければ。


 そんなことを考えて、ひどく嫌な気分になった。


 父は俺のことを大切にしてくれていたし、沙耶さんと結婚してからは以前より明るくなっていた。


 その幸せを壊したいわけではなかった。


 だから俺は、自分の気持ちを誰にも話さなかった。


 結局、父も俺の希望を認めてくれた。


 もちろん、沙耶さんが間に入ってくれたことは大きかったと思う。それでも、最後に父へ説明したのは俺自身だった。


 高校卒業後、俺は希望していた大学へ進学した。


 家を出る朝、沙耶さんは玄関まで見送りに来てくれた。


「困ったことがあったら連絡してね」


「はい」


「でも、何でも人に頼らないこと。自分でできることは自分でやるんだよ」


「どっちなんですか」


「そこは自分で考えて」


 最後まで、そんな人だった。


 俺は笑って、行ってきますと言った。


 彼女も笑って手を振ってくれた。


 あのとき、家を離れることに寂しさはあった。


 でも、少し安心してもいた。


 離れて暮らせば、きっとこの気持ちも薄れていく。大学に入れば新しい出会いもあるだろうし、いつか彼女のことを、ただの懐かしい家族として思い出せるようになる。


 そう考えていた。


 実際、大学生活は忙しかった。勉強もアルバイトも、それなりに充実していたし、友人もできた。


 彼女のことを考えない日も増えていった。


 帰省しようと思えばできたはずだ。


 けれど、大学の休みにはアルバイトを入れ、就職してからは仕事を理由にした。父とは電話で話していたから、実家の近況はある程度分かっていた。


 沙耶さんは元気だと聞いていた。


 それで十分だと思うことにしていた。


 今になって考えれば、ずいぶん都合のいい言い訳だったと思う。


     ◇


 父からの電話があった翌日、俺は沙耶さんに連絡した。


 呼び出し音が三回鳴ったところで、懐かしい声が聞こえた。


『はい』


「……沙耶さん。航平です」


『航平くん?』


 驚いた声だった。


『久しぶり。どうしたの、急に』


「父さんから聞きました」


 その一言で伝わったらしい。電話の向こうが静かになった。


『……そっか。聞いちゃったか』


「どうして教えてくれなかったんですか」


『ごめんね。大学も卒業して、仕事も始まったばかりでしょう? 余計な心配かけたくなくて』


「心配くらい、させてくださいよ」


 自分でも驚くほど、情けない声が出た。


 しばらく沈黙が続いたあと、沙耶さんが小さく笑った。


『そうだね。勝手に決めちゃったね』


 その言い方が昔と変わらなくて、胸が詰まった。


「会いに行ってもいいですか」


『私は構わないけど……仕事、大丈夫?』


「土曜日なら休みです」


『じゃあ、土曜日にしようか。住所、送るね』


 あまりにも簡単に話が決まって、拍子抜けした。


 もっと遠慮されると思っていたし、会うこと自体を断られる可能性も考えていた。


『でも、あんまり驚かないでね』


「何をですか?」


『ちょっと痩せちゃったから。昔の私を想像して来ると、びっくりするかも』


 冗談めかした口調だった。


 俺は笑えなかった。


「……分かりました」


 電話を切る前に、彼女はもう一度、土曜日ね、と言った。


 その声を聞いて、俺はようやく、五年ぶりに彼女と会うのだと実感した。


     ◇


 土曜日の午後。


 沙耶さんが暮らしているのは、駅から少し離れた住宅街にある、小さなマンションだった。


 教えられた部屋の前に立ち、インターホンを押す。


 足音が近づいてきた。


 鍵の開く音がして、ドアがゆっくり開いた。


「はい……」


 顔を出した女性を見て、息が止まりそうになった。


 沙耶さんだった。


 髪は以前より短くなり、頬も少し痩せていた。化粧も薄く、顔色は決してよいとは言えない。


 けれど、目元の優しい雰囲気は昔と変わらなかった。


「沙耶さん、お久しぶりです」


 俺が声をかけると、彼女は一瞬、返事をしなかった。


 視線が俺の顔から肩のあたりへ移り、また顔に戻ってくる。何か言いかけたように唇が動いたが、すぐには声にならなかった。


「……航平くん?」


「はい」


「ああ、そっか。そうだよね」


 沙耶さんは少し慌てたように笑った。


「ごめんね。なんだか、ずいぶん雰囲気が変わったから」


「五年も経ってますからね」


「そうだよね。もう社会人なんだもんね」


 彼女はもう一度俺を見た。


 それから、思い出したようにドアを大きく開けた。


「とにかく入って。玄関で立ち話もなんだし」


 案内された部屋は、こぢんまりとした一人暮らし用の間取りだった。


 窓際には小さな観葉植物が置かれ、低い棚に本が並んでいる。家具は少ないが、きちんと手入れされていることが分かった。


 見覚えのあるマグカップが、テーブルの上にあった。


 昔、実家で沙耶さんが使っていたものだ。


「お茶でいい?」


「あ、俺がやりますよ」


「どこに何があるか知らないでしょう?」


「教えてくれれば」


「今日はお客さんなんだから、座ってて」


 そう言って台所へ向かう後ろ姿を見ながら、俺は少しだけ安心した。


 痩せてはいたけれど、沙耶さんは沙耶さんのままだった。


 ただ、湯を沸かしている間、彼女は何度か流し台に手をついていた。立っているのがつらいのだろうかと気になったが、声をかけるべきか迷ってしまう。


 結局、俺が立ち上がったのは、彼女がお盆を持って振り返ったときだった。


「持ちますよ」


「ありがとう。じゃあ、お願いしようかな」


 差し出されたお盆を受け取る。


 昔なら、俺が勉強している間に彼女が飲み物を運んできてくれた。そう思い出したところで、沙耶さんが俺を見上げた。


「本当に大きくなったねえ」


「さっきも言ってましたよ」


「そうだっけ?」


「玄関で」


「ああ、そうだった」


 彼女は笑いながら椅子に座った。


「でも、なんだかまだ慣れないな。昔はもっと、こう……」


 沙耶さんは手を自分の肩のあたりにかざし、首を傾げた。


「十八の頃には、もう俺の方が背は高かったと思いますけど」


「そうなんだけどね。背だけじゃなくて、雰囲気かな」


 彼女はそれ以上うまく説明できなかったらしく、困ったように笑った。


 俺も何と返せばいいのか分からず、お盆をテーブルに置いた。


 お茶を飲み始めて間もなく、俺は病気のことを尋ねた。


 沙耶さんは、完治が難しいことを伝えてくれた。


 がんが見つかったときには、すでに進行していたこと。治療は続けているが、以前のように働くことは難しくなったこと。体調には波があり、普通に生活できる日もあれば、ほとんど横になって過ごす日もあること。


 彼女は一つずつ、落ち着いた口調で話してくれた。


 俺は何度か質問したが、途中で言葉が出なくなった。


 聞きたいことはいくらでもあった。


 でも、答えを聞くのが怖かった。


「そんな顔しないで」


 沙耶さんが静かに言った。


「今すぐどうにかなるってわけじゃないんだから。こうしてお茶だって飲めるし、買い物にも行ける日があるんだよ」


「でも……」


「先のことは、私にも分からないよ」


 彼女は自分のカップを両手で包んだ。


「ただね、今できることは、できるうちに楽しみたいなって思ってる」


 その言葉を聞いたとき、さっき彼女が台所で流し台に手をついていた姿を思い出した。


 以前なら、俺が何も言わなくても、彼女は必要なものを用意してくれた。熱を出したときも、進路に悩んだときもそうだった。


 今は、お茶を淹れるだけでも負担になる日があるのかもしれない。


 だからといって、彼女が何もできなくなったわけではない。


 実際、沙耶さんは自分の病状を説明しながら、俺が必要以上に心配しないよう、何度か冗談まで交えていた。


「……離婚のことも、聞いていいですか」


 しばらくしてから尋ねると、彼女はカップを置いた。


「うん」


「父さんから言い出したって」


「そうだね」


「病気になったから、ですか」


 沙耶さんはすぐには答えなかった。


 窓の外に目を向け、それから静かに首を振った。


「病気だけが理由じゃないと思うよ。いろいろあったから」


 父と同じ言葉だった。


 けれど、彼女の声からは、父のような苛立ちは感じられなかった。


「お父さんも、最初は頑張ってくれたんだよ」


「だったら、どうして……」


「うん。そこは、私もずいぶん考えた」


 沙耶さんは少し困ったように笑った。


「でもね、夫婦でいられなくなることもあるんだと思う。どっちが悪いって話だけじゃなくて」


 彼女が話を続けるまで、俺は黙って待った。


 しばらくして、沙耶さんはカップを持ち直した。


「お父さんね、私が病気になってから、すごく心配してくれたの。治療のことも一生懸命調べてくれて」


「……はい」


「でも、私が思ったように元気にならないと、どうしていいか分からなくなっちゃったみたいで。私も、自分のことで精一杯だったから」


 そこで彼女は口を閉じ、少し冷めたお茶を飲んだ。


 俺には、まだ理解できなかった。


 病気になった妻を一人にする。


 しかも、その相手は自分がつらかったときに支えてくれた女性だ。


 父がどんな事情を抱えていたとしても、簡単に納得できることではなかった。


 ただ、沙耶さんが今、それ以上の話をしたがっていないことは分かった。


 俺は話題を変えた。


 大学を卒業してからの仕事のこと。今住んでいる部屋のこと。初めて任された仕事で失敗した話。


 沙耶さんは興味深そうに聞いてくれた。


「へえ。航平くんが、そんな仕事してるんだ」


「まだ覚えることばっかりですけどね」


「そっかあ。なんだか不思議」


「何がですか?」


「だって、私の知ってる航平くんって、進路のことでお父さんと喧嘩してた高校生だもの」


「あれ、喧嘩ってほどじゃなかったでしょう」


「そう? 食卓で二人ともすごい顔してたよ」


 彼女が当時の父の顔を真似てみせたので、思わず笑ってしまった。


 沙耶さんも笑った。


 それからしばらく、昔の話になった。


 俺が受験勉強をしていた頃のこと。彼女が作った料理を、父と俺が揃って褒めた日のこと。俺が大学へ出発する朝、玄関に忘れ物をしたこと。


 沙耶さんは、俺が覚えていないような細かなことまで覚えていた。


 逆に、彼女自身は忘れている出来事もあった。


「あのとき、沙耶さんに言われたんですよ。自分でできることは自分でやれって」


「私、そんな偉そうなこと言った?」


「言いました。出発する日の朝に」


「ひどいねえ。これから一人暮らしする子に」


「自分で言ったんでしょう」


 彼女はおかしそうに笑った。


 そのあと、俺の顔を見て少し首を傾げた。


「でも、本当に大人になったね。前だったら、私にそんな言い返し方しなかったでしょう?」


「そうですか?」


「うん。昔はもっと遠慮してた気がする」


 言われてみれば、そうだったかもしれない。


 沙耶さんの前では、いつも少し緊張していた。嫌われたくなくて、変なことを言わないように気をつけていた。


 今も彼女を意識していないわけではなかったが、五年間の生活を経て、仕事の失敗談くらいなら笑って話せるようになっていた。


 沙耶さんは、そんな俺の話を楽しそうに聞いてくれた。


 病気のことを話していたときとは違い、彼女の声にも自然と張りが戻ってきたように感じられた。


 気づけば、訪ねてから二時間近く経っていた。


 窓から差し込む光も、来たときよりずいぶん傾いている。


「そろそろ帰ります」


「もう?」


 沙耶さんはそう言ってから、時計を見た。


「あ、本当だ。ずいぶん話しちゃったね」


「疲れてませんか?」


「少しね。でも、楽しかった」


 彼女は椅子から立ち上がろうとして、テーブルに手をついた。


 俺は反射的に腰を浮かせたが、彼女は自分で立ち上がった。


「大丈夫。ゆっくりなら歩けるから」


 言われて、俺は座り直した。


 沙耶さんはそんな俺を見て、少し笑った。


「昔と逆だね」


「何がですか?」


「航平くんが私のこと心配してる」


「心配くらいしますよ」


「そうだよね」


 彼女はそれ以上何も言わず、先に玄関へ向かった。


 俺も立ち上がり、空になったカップを流し台へ運んだ。水ですすごうとすると、廊下から声が飛んでくる。


「航平くん、そのままでいいから。あとで私が洗うよ」


「これくらいやらせてください」


「じゃあ、すすぐだけね。洗剤はそこにあるけど、場所変えないでよ」


「分かってますって」


 昔なら、彼女に言われるまま台所を離れていただろう。


 今は、そのくらいのことなら遠慮せずにできた。


 カップを元の位置へ戻し、玄関へ向かう。


 沙耶さんは靴箱のそばに立って、俺を待っていた。


「あの、また来てもいいですか」


「もちろん」


 即答だった。


 驚いて顔を上げると、沙耶さんは少し不思議そうに俺を見ていた。


「そんなに遠慮しなくてもいいのに」


「でも、もう家族じゃないですし」


 口にした途端、しまったと思った。


 沙耶さんの表情が、ほんの少し変わったからだ。


 彼女は何かを考えるように視線を落とし、それから俺を見た。


「そういうこと、気にしてたの?」


「……少し」


「そっか」


 沙耶さんは小さく頷いた。


「私はね、航平くんと一緒に暮らせてよかったと思ってるよ。離婚したからって、その二年間までなくなるわけじゃないでしょう?」


 胸の奥が熱くなった。


 彼女の言うとおりだった。


 父と離婚したからといって、一緒に暮らした二年間まで消えてしまうわけではない。俺が熱を出した夜も、進路のことで悩んでいた日も、彼女がそばにいてくれたことは変わらない。


 それでも、今の彼女にとって自分がどんな存在なのか、俺にはまだ分からなかった。


「でも、来るときは連絡してね。寝てる日もあるし、部屋が散らかってるかもしれないから」


「掃除くらいしますよ」


「そうやって勝手に人の部屋を片づけようとしない」


「まだ何もしてないでしょう」


「今、しようとしてた」


 俺が苦笑すると、彼女も笑った。


 その笑顔を見て、また来たいと思った。


 心配だからというだけではない。


 彼女と話している時間が、単純に楽しかった。


「じゃあ、また連絡します」


「うん。今度は、航平くんの話ももっと聞かせて。五年間、何してたのか全然知らないんだから」


「退屈な話ばっかりですよ」


「それは聞いてから決める」


 沙耶さんはそう言って、手を振った。


 俺も手を振り返し、玄関を出た。


     ◇


 マンションから駅へ向かう道は、緩やかな下り坂になっていた。


 住宅街を抜ける途中、小さな公園の前を通った。ベンチには買い物袋を足元に置いた年配の女性が座り、少し離れたところで子どもたちが遊んでいる。


 どこにでもある土曜日の午後だった。


 沙耶さんも、以前はこんなふうに買い物へ出かけたり、休日に父と散歩したりしていたのだろう。


 今も、体調のよい日には外出できると言っていた。


 けれど、今日の彼女は二時間話しただけで少し疲れていたし、椅子から立ち上がるときにはテーブルに手をついていた。


 五年前の彼女しか知らなかった俺には、その変化が思っていた以上につらかった。


 それでも、病気のことを話しているときの落ち着いた声や、俺をからかって笑う顔は、昔と変わらなかった。


 彼女が何を楽しみにしているのか、今はどんな生活を送っているのか。


 今日聞けたのは、そのほんの一部にすぎない。


 次に会ったら、もっと話を聞きたいと思った。


 昔の思い出ばかりではなく、今の沙耶さんのことを。


 駅のホームに着くと、ちょうど電車が出たところだった。


 次の電車までは十分ほどある。


 ベンチに腰を下ろし、スマートフォンを取り出した。メッセージを開くと、沙耶さんとのやり取りが五年前のものから今日のものへと続いていた。


 大学へ入ったばかりの俺に、彼女はご飯をちゃんと食べているかと尋ねていた。


 あの頃は、それを少し煩わしく思うこともあった。子ども扱いされたくなかったし、彼女から心配されるたびに、母親と息子という関係を思い知らされる気がしていた。


 けれど、今なら違う返事をするだろう。


 心配してくれてありがとう、と。


 あるいは、そっちは元気にしているのか、と。


 そんな当たり前のやり取りを、五年間一度もしなかった。


 ホームへ電車の接近を知らせるアナウンスが流れた。


 立ち上がろうとしたとき、スマートフォンが震えた。


 沙耶さんからだった。


『今日は来てくれてありがとう。久しぶりにたくさん笑ったよ』


 画面を見つめているうちに、電車がホームへ滑り込んできた。


 乗り込んで空いている席に座り、返信を考える。


 楽しかったです、と打ってから、少し迷って消した。


 楽しかったのは本当だった。


 ただ、それだけを伝えて終わりにしたくなかった。


 五年前の俺は、彼女からの連絡に必要なことだけを返し、自分から話しかけることはほとんどなかった。


 距離を置くことで、いつか気持ちが整理できると思っていた。


 実際、大学へ進学してからは新しい生活に追われ、彼女を思い出さない日も増えた。


 それなのに、今日会ってみれば、思い出の中の沙耶さんより、目の前で笑っていた彼女の方がずっと気になっている。


 知らなかった五年間のことを聞きたい。


 これからの話もしたい。


 俺は一度息を吐いてから、メッセージを打ち直した。


『こちらこそ、ありがとうございました。来週の土曜日、体調がよければまた会えませんか』


 送信ボタンを押したところで、電車が動き始めた。


 すぐに返事が来るとは思わなかった。沙耶さんは疲れていると言っていたし、少し休んでいるかもしれない。


 スマートフォンをポケットにしまい、窓の外へ目を向ける。


 住宅街の屋根がゆっくりと流れていく。


 沙耶さんの部屋で、俺は昔の話ばかりしていた。


 彼女は俺が熱を出した夜のことも、進路のことで父と話したことも、懐かしそうに聞いてくれた。


 けれど、今日一番嬉しかったのは、昔のことを覚えていてくれたことではない。


 今の俺の仕事に興味を持って、話を聞いてくれたことだった。


 昔のように守られるばかりの子どもではなくなった。


 そのことを、彼女にも少しは分かってもらえただろうか。


 もう一度スマートフォンが震えた。


『うん。来週も土曜日なら大丈夫だと思う。前の日に調子を知らせるね』


 それに続けて、もう一通。


『今度は航平くんの話をもっと聞かせてね。楽しみにしてる』


 返信を打とうとして、指が止まった。


 五年間、会わない理由ならいくらでも見つけられた。


 大学の授業、アルバイト、就職活動、そして仕事。


 どれも嘘ではなかったけれど、会いたくないわけではなかった。


 むしろ、会いたかったからこそ、距離を置いていた。


 沙耶さんは、そんな俺の事情を知らない。


 今日も昔と変わらない笑顔で迎えてくれたし、来週も会えることを楽しみにしてくれている。


 それが嬉しかった。


 嬉しいと思ってしまう自分の気持ちは、五年前と少しも変わっていなかった。


 ただ、今度はそれを理由に、彼女から離れようとは思わなかった。


 窓の外を流れる景色から視線を戻し、短い返事を打った。


『分かりました。来週、また連絡します』


 送信すると、沙耶さんからすぐに返事が届いた。


『うん。待ってるね』


 俺はそのメッセージをもう一度読み、スマートフォンをしまった。


 次の土曜日まで、あと七日あった。

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