白い体
荷物は紙袋一つに収まった。支給の着替えが二組と歯ブラシ、それに厚い封筒を袋のいちばん底に入れて、上から着替えで押さえてある。上着の内ポケットの紙は、そのままにした。
窓のない部屋の戸を閉めるとき、錠は一度だけ中を振り返った。机と、ベッドと、壁の時計。この部屋で過ごしたのは何日でもなかったのに、戸の取っ手の、左手で握ったときの引っかかりはもう手が覚えている。廊下の先の受付の前を通るとき、錠は書類の束を角でそろえる男の背中を探して、いないのを確かめてから歩いた。
芹沢は紙袋を持とうとはしなかった。錠の半歩前を、いつものゆっくりした足どりで歩いて、渡り廊下を一つ渡り、階段を上がって、別の棟へ入る。壁の色は同じ灰色なのに、ここには匂いがあった。洗剤と、何かを焦がした跡のような匂いと、誰かの部屋から漏れてくる埃っぽい暖房の匂い。廊下の片側に戸が四つ並んでいて、突き当たりに流しと、古い冷蔵庫が見えた。
「寮だ」と芹沢は言った。「俺の班が住んでる。お前の部屋は手前から二つ目。俺は奥だ」
「俺の部屋。……え、待って。俺、班に入るんすか。聞いてないんですけど」
「班に入れとは言ってない。寝る所の話だ」
「寝る所が班の寮なら、ほぼ入ってません?」
芹沢は答えずに歩いた。ここに残ると言ったのは自分だったが、残った先がどこになるのかまでは訊いていなかった。入れてくれと頼んだ覚えはない。それでも、評価担当が受付に来るあの棟から離れられるのなら、文句を言う筋合いでもなかった。言ったけど。
錠は芹沢の背中を見ながら歩いた。封筒の中の、空いていた二つの欄のことは、まだ誰にも訊いていない。訊くなら芹沢だろうと思う。そう記録しておいてください、と言ったのはこの人で、その記録が欄に残っていないのなら、この人は知っているのか、知らないのか、どちらかだ。室長の部屋で、あった、とは言ったくせに、どっちの味方なのかには答えなかった顔を思うと、知っていて黙っているほうもありそうで、それが錠には面白くなかった。ただ、紙袋を提げて歩きながら背中に訊くことでもない。部屋に荷物を置いて、向き合ってから訊こう、と錠は決めた。
二つ目の戸の前で芹沢が足を止め、錠も止まろうとしたとき、三つ目の戸が内側から開いた。出てきたのは錠と同じくらいの年の女で、片手に端末を持ち、画面を見ながら廊下に一歩出て、顔を上げて錠を見る。
女は、そこで固まった。
踏み出しかけた足が床に着かないまま、端末を持った手も、開きかけた口も、その形で動かなくなる。目だけが錠の顔から吊り布の中の右腕へ動いて、そこから離れなくなった。
女の後ろで、白いものが膨らんだ。
最初は、戸の内側に掛けてあった布団か何かが、押されてはみ出してきたのかと思った。けれども白いものは落ちてこない。女の肩の後ろからせり上がり、廊下の天井に届くと、天井に沿って前へ折れ曲がる。風呂場の戸を開けたときのような、生あたたかい空気が廊下を押してきた。それは体だった。背を丸めても天井につかえるほどの、白い、濡れた体で、両側から腕が下りてくる。腕は長すぎた。肩から下りて、手のひらが床につくと、濡れた重いものを置いた音がして床板が鳴り、それでもまだ肘が余って外へ張り出している。指が、床の上でゆっくり開いた。
顔のあるべき所には目があった。大きいのも小さいのも、縦に裂けたようなのも丸いのもあって、数えられないくらいの目が、ばらばらに瞬きをしている。そのうちの半分ほどが、錠の右腕を見ていた。
〈脅威を検知。右腕の戦闘使用を提案します。許可しますか〉
「しない」
〈了解しました〉
声は、自分でも驚くほどすぐに出た。病室でも、駐輪場でも、冷蔵室でも同じことを言ってきた口が、考えるより先に動いている。そのあとから、別の声が漏れた。
「……冗談だろ」
ほとんど息だった。
白い体は錠に向かっては来ずに、女の前に、女を覆うように立っている。長い腕の片方が、女と錠のあいだの床に、柵を下ろすように置かれている。それだけなのに、錠の足は床に貼りついたようで、首の後ろから背中の包帯の下まで、冷たい汗が一息に流れた。怖い、と錠は思った。駐輪場で銃を向けられたときよりも、冷蔵室で肩を外されたときよりも、はっきり怖い。あれは人間のすることで、次に何が来るかは見当がついた。目の前のこれが何をするのかは、錠にはまるで分からなかった。
それでも、女の目が錠の右腕から動かず、白い体の目の半分も同じ所を見ているのを見ているうちに、もう一つのことが分かってきた。怖がられているのは、こっちだ。
「下がれ」
芹沢の声は低く、短かった。芹沢は錠と女のあいだには入らなかった。錠の斜め後ろに立ったまま、白い体から目を離さずに、もう一度言った。
「久我。下がれ。ゆっくりだ」
錠が紙袋を左手に提げたまま後ろへ一歩下がると、白い目のいくつかがその動きを追ってくる。もう一歩下がり、三歩目で背中が廊下の壁に当たって、包帯の下の火傷が一度に熱くなる。錠は声を飲みこんで、壁に沿って横へずれ、上がってきた階段のほうへさらに下がった。
白い体は、消えなかった。
錠はそれを、階段の上がり口のあたりから見ていた。横へずれたぶん、女の首の後ろが見える。襟から出たうなじの皮膚が、切れ目もなく、そのまま白いものへ続いていた。背負っているのでも、後ろに立たれているのでもない。あれは、あの女から出ている。下がれば引っこむのだろうとどこかで思っていたのに、白い体は女の前に立ったままで、長い腕も床に置かれたままで、目だけが、少しずつ錠を見るのをやめていく。一つが瞬きをして、女のほうを向く。もう一つが、天井を見る。女はまだ固まっていて、端末を持った手の指が細かく震えているのが、ここからでも見える。
どのくらいそうしていたのか、錠には分からなかった。廊下の奥の冷蔵庫が、低く唸って、止まって、また唸った。そのあいだに女の指の震えが少しずつ小さくなっていき、それにつれて、白い体の腕が床から少し浮いては、置き場所を探すように揺れて、また下りるようになった。動きが、さっきより鈍い。
女の顔が赤くなっていた。額から流れた汗が顎の先から落ち、息は浅く、速くなっている。熱があるのだ、と錠は思った。自分が腕を使ったあとの、あの芯から焼けるような熱と、たぶん同じ種類のものだった。
白い体が、萎みはじめた。指の先が丸くなり、腕が細くなり、目が一つずつ閉じて、閉じた所から白い表面に埋もれていく。天井につかえていた背中が下がり、肩が落ちて、女のうなじのほうへ、たぐり寄せられるように引いていった。全部は戻らなかったらしい。腕の置かれていた床に、濡れた薄皮のようなものが、手のひらの形に少し残っている。
女の足が、ようやく床に着いた。それから膝が折れて、女は戸の枠に背中をつけたまま、廊下に座りこんだ。
芹沢が動いたのは、そのときだった。奥の戸を開け、すぐに毛布を一枚持って出てきて、女の肩にかける。女には触れなかった。毛布の端が床についたのを確かめて、芹沢は一歩下がった。
「雨宮」と芹沢は言った。「今日から、ここに入る。久我だ。……先に言っておくべきだった」
女は毛布の中で、しばらく息を整えていた。それから顔を上げずに、低い声で言った。
「聞いてた。今日だとは、聞いてない」
「すまん」
女はそれには答えなかった。毛布の端を握って、階段の上がり口に立っている錠のほうへ、目だけを向けた。
「近づかないで」
「……分かった。分かったけど、俺、何もしてねえからな。立ってただけで」
「知ってる」
女はそれだけ言って、目を毛布の中へ戻した。知ってる、と言われると、ほかに言えることがなかった。悪かった、と言うのは違う気がした。錠はここでは何もしていないし、何もしていないのに怖がられるのは、してしまったあとで怖がられるのとは別の重さで、どこに置けばいいのか分からない。駐輪場で、兵士の横の穴を見ながら自分の手の関節を押さえていたとき、錠は、これがまた誰かに向くのだと思っていた。向けなくても、こうなるとは思っていなかった。
「へえ」
声は、いちばん手前の戸からした。戸が半分開いていて、その隙間に、女がもう一人立っている。年は錠より少し上に見えた。壁に肩をもたせかけて、錠ではなく、錠の首のあたりを見ている。
「待つんだ、それ」
「……何が」
「君の中のやつ。さっき、待ってた。それから、止まった」女は首を少し傾けた。「あれを見て待ったんなら、出るかどうか、かな。違う?」
「なんで分かんの」
「聞こえるから」女は当たり前のことのように言った。「何を待ってたのかまでは聞こえない。待ってた、ってことだけ。……右はうるさいって言ってる。左は、もっと近くで聞けって言ってる。私は、今日はここまでにしておく」
最後のほうを、女は錠にではなく、自分の右と左に順番に答えるように喋って、小さく笑った。
「両角」と芹沢が言った。
「はい、隊長。挨拶はしました」両角と呼ばれた女は、戸の隙間から片手だけ出して、錠に向かって軽く振った。「両角 論。また聞かせて。面白い音がするから」
「音って何だよ。聞かせてねえよ、勝手に聞くな——」
戸が閉まった。言い終わる前だった。
雨宮と呼ばれた女は、毛布をかぶったまま立ち上がり、壁に手をついて、自分の部屋へ戻っていった。戸を閉める前に、端末を拾い上げる。画面はまだ点いていて、暗い廊下を誰かが歩いている映像が、音もなく流れていた。
芹沢は、閉まった二つの戸を順に見てから、錠のところへ歩いてきた。
「あれは、雨宮が怖いと思ったときに出る。雨宮にも止められん。出たら、今みたいに離れろ。それで収まるとは限らんが、近くにいるよりはいい」
「俺が怖いんですか」
「お前の腕がな」芹沢は言葉を選ばなかった。「交差点の件を、あいつは聞いてる」
「吊ってんですけど。肩から」
「吊ってても、だ」
誰から、どこまで聞いたのだろう、と錠は思った。白い体の男が最後に手を伸ばしていたほうのことまで、聞いているのだろうか。それは、たぶん誰の話にも入っていない。
芹沢は二つ目の戸を開けた。窓のある部屋だった。窓の外は隣の棟の壁で、空は上のほうに細く見えるだけだったが、それでも光が入っていた。ベッドと、机と、壁に打たれた釘が一本。
「流しは、あいつの部屋の前を通った先だ」と芹沢は言った。「通るときは、声をかけてから通れ。黙って近づくな」
「声って、何て言えば」
「通る、でいい」
「……通る」
言ってみると、間抜けな響きだった。
芹沢はそれだけ言って、奥の自分の部屋のほうへ歩いていった。空欄のことを訊くつもりだったのを、錠はその背中が戸の向こうに消えてから思い出した。追いかけて戸を叩くほどの勢いは、もう残っていない。錠は紙袋を机の上に置き、ベッドに腰を下ろして、左手で首の後ろに触った。
待ってた、と言われた。自分の中のものが、自分の返事を待っているあいだの、あの一瞬を、戸の隙間から聞いていた人間がいる。病室でも、駐輪場でも、冷蔵室でも、あれは頭の中だけのやりとりだと思っていた。外に漏れているとは、考えたこともなかった。
首の後ろには、何の手触りもない。隣の部屋から、壁越しに、誰かの低い悲鳴が小さく聞こえてくる。映画の音だった。




