布で縛った指
朝、流しで顔を洗おうとして、錠は三つ目の戸の手前で足を止めた。
「通る」
戸の向こうで何かが動く気配がして、少し間があってから、低い声が返ってくる。
「どうぞ」
それだけのやりとりを、寮に来てからもう何度かしている。錠は戸の前を、壁の反対側に寄って通り過ぎ、流しで左手だけで顔を洗った。吊り布が濡れないように首を曲げるのにも、少し慣れてきていた。
廊下に戻ると、奥の戸の前に芹沢が立っていた。上着を着て、車の鍵を持っている。
「現場だ。来るか」
「行きます」
「症例は、七十過ぎの建具屋だ。手の指が増える。人に害はない」芹沢は必要なことだけを言った。「室の方針は、施設に移すことだ。今日は、それを本人に伝えに行く」
「伝えに、すか」錠は濡れた顔を袖で拭いた。「聞きに、じゃなくて」
芹沢は車の鍵を持ち直しただけで、答えなかった。調査協力の紙の二行目の横に引かれた短い線が、まだ目の裏に残っている。
三つ目の戸が開いた。雨宮は上着の襟を立てて、端末を上着のポケットに押しこみながら出てきて、錠のいるほうは見ずに、芹沢にだけ言った。
「私も行く。記録、要るから」
芹沢は雨宮の顔を少し見て、うなずいた。
「後ろに乗れ。久我は前だ」
いちばん手前の戸の中からは、誰かと言い合うような声が、一人ぶん聞こえていた。両角は出てこなかった。
白い車の中で、雨宮は運転席の後ろに座り、窓のほうへ体を寄せていた。助手席の錠からは、斜め後ろのいちばん遠い場所になる。錠は一度も振り返らなかった。振り返らないことが、今の自分にできるいちばんましなことのような気がした。
芹沢は車を表通りの角に止めた。円頓寺の近くだった。矢作の店の配達で、錠は自転車で何度か来たことがある。
「ここから歩く。家の前に止めると、道がふさがる。近所の目につく」
表通りから一本入った道は、車がすれ違えないくらいの幅で、古い家と小さな作業場が交じって並んでいた。どこかの家の軒先で洗濯物が揺れ、どこかの作業場で機械が回っている。その音のあいだから、別の音が聞こえてきた。乾いた木の上を、刃が走る音だった。長く引いて、止まり、また長く引く。錠は歩きながら、その音の長さを数えていた。一度の引きが、ずいぶん長い。
音のする家は、木造の二階建てで、奥に長かった。芹沢が玄関の引き戸を開けて声をかけると、音は止まらずに、奥から返事だけが来た。
「開いとる」
土間を上がり、居間と台所の横を抜けると、突き当たりの戸が開けたままになっていて、その向こうが作業場だった。木の匂いがした。路地側の高い窓から光が斜めに入り、その中を細かい木の粉が漂っている。壁には組みかけの格子戸が何枚も立てかけてあり、頭の上には梯子で上がる中二階があって、寝かせた板の木口がこちらを向いて並んでいた。
老人は作業台の前で、鉋を引いていた。
振り向きもしなかった。背中を丸め、腰を落として、鉋を体ごと手前へ引いてくる。鉋の口から、薄い屑が帯になって出て、途中で切れて床に落ちた。老人は屑を見て、小さく舌を打った。
錠が先に見たのは、屑ではなく手だった。老人の両手には、細く裂いた布が何重にも巻いてある。布の下で、指が余っていた。人差し指の付け根の横から、もう一本、爪のある指が斜めに生えていて、それが隣の指と一緒に布で縛られている。小指の側面にも、手の甲の縁にも、布を押し上げるふくらみがあった。縛っていない一本は、鉋の台の上でどこにも力を入れられずに、ただ伸びている。布の端から見える指の付け根は赤く腫れていて、老人は鉋を引き終えるたびに、その手を一度、開いて、握った。
「戸川さん」と芹沢は作業場の入口で言った。「芹沢といいます。あんたのような手になった人を、保護している所の者です」
「役所か」老人は鉋の刃の出を、木槌で軽く叩いて直した。「どこぞへ来い、いう話だろう」
「うちの施設に移ってもらう、というのが、うちの方針です。その手は、放っておいても止まらない。人目にもつく。施設なら、医者が診られる」
「止まらんのは、知っとる」
老人はようやく振り向いた。芹沢の顔を見るより先に、芹沢の手を見た。それから錠の吊られた右腕を見て、左手を見て、最後に、土間に近い戸のそばに立っている雨宮の、ポケットに入れたままの両手のあたりを見た。
「三人も寄こして、連れて行く気か」
「今日は、伝えに来ただけです」芹沢は言った。「そのうえで、あんたがどうしたいかを聞きたい」
錠は芹沢の横顔を見た。聞きたい、と言った。室長の部屋で、約束はできん、と言った人が、ここでは聞くと言う。聞いて、そのとおりにできるのかどうかは、言わなかった。冷蔵室で自分が言ったことを思うと、錠には、言わないほうがまだ正直に見えた。
老人は立てかけてある格子戸の一枚を、顎で指した。
「この戸を納めるまでは行かん。納めたら、そのとき考える」
「いつ、納まりますか」
「仕上がったときだ」
「それでは、報告ができん」
「なら、手が言うことを聞いたとき、と書いとけ」
老人はまた作業台に向き直った。芹沢は何も言わずに、その背中を見ている。雨宮は戸のそばから動かない。白いものが出てくる気配はなくて、錠は、この老人の手は雨宮には怖くないのだ、と思った。雨宮は目をそらしもせずに、布の下の指を見ている。
錠は作業場の隅の研ぎ場に目をやった。水桶と、砥石が三つ。砥石の横に、鉋から抜いた刃が一枚、濡れたまま置いてある。研ぎかけだった。錠は二歩寄って、刃を手に取らずに、上から覗いた。表は研げている。裏は、刃先のほうだけが白く光っていて、その光り方が端から端まで揃っていない。片側は幅があるのに、もう片側は糸のように細くなって、途中で消えていた。
矢作の店に持ちこまれる刃にも、こういうのがあった。持ち主は切れないと言ってくる。表ばかり何度も研いで、裏を見ていない。
「刃の裏、押してないだろ」
言ってから、相手が七十過ぎの建具屋だということを思い出した。老人の手が止まった。作業場の中で、動いているものが木の粉だけになる。
老人は振り向いて、今度は錠の顔を見た。
「押せんのだわ」
怒った声ではなかった。老人は布を巻いた右手を、錠に見えるように持ち上げて、指を開こうとした。開かなかった。縛られた余分な指が、隣の指を横へ引っぱっていて、手のひらが平らにならない。
「刃を寝かせて、押さえが利かん。指が勝手に浮いてまう」
「……すいません」
「何を謝る。合っとる」老人は手を下ろした。「あんた、研ぎをやるのか」
「店で。持ちこまれたやつを」
「鉋もか」
「鑿も、鉋も。……今は、これなんで」
錠は吊り布の中の固定具を、顎で指した。老人はその固定具と、錠の左手を、さっきよりも長く見た。
「利き手か」
「利き手です」
「そうか」老人はそれだけ言って、研ぎ場の刃のほうへ目をやった。「裏が出とらんのは、分かっとる。分かっとって引いとる。それでも、納めにゃならん」
それから老人は、訊かれてもいないのに、立てかけた格子戸の桟の話を始めた。どこの家の、どの間口に入る戸で、桟の見付けをいくつに割ったか、前の戸がなぜ四十年で狂ったか。話しながら手は鉋の刃を抜いていて、さっきまでの倍くらい口が動いている。
「四十年もったんなら、狂ったって言わなくないすか。寿命でしょ、それ」
「狂ったもんは狂ったんだ。五十年もつように作るのが建具だ」
「五十年。……ラジオなんか、十年もてば御の字なんすけど」
「ラジオと戸を一緒にするな」
老人は怒ってはいなかった。錠は半分も分からなかったが、分からないなりに、聞いていて飽きない。分かる所だけ相槌を打つと、老人はそこをもう一段細かく話した。
「戸川さん」と芹沢が言った。「また来ます。上には、納めるまで待つよう、俺から言う」
「言うて、通るんか」
「分かりません」
老人は鼻で笑い、布を巻いた手を一度、開いて、握った。
「正直な役人だ」
表通りの角まで戻るあいだ、後ろで鉋の音がまた始まった。長く引いて、止まる。屑が途中で切れているのかどうかは、ここからは分からない。
錠は歩きながら、左手を開いたり握ったりしていた。
「あの刃の裏、右が使えりゃ半日で出せるんすけどね。俺」
「頼まれたのか」
芹沢は前を向いたまま訊いた。
「……頼まれてないっす」
「なら、待て」
言い返す言葉はなかった。右手は布の中で、肩から下が動かない。それに、あれは老人の刃だった。頼まれてもいないのに研いで返すようなことを、錠は店で何度かやっている。喜ばれたこともあるし、そうでなかったこともある。
車の後ろの座席に乗りこむ前に、雨宮が芹沢に訊いた。
「今日の、記録にはどう書くの」
「見たとおりに書く。本人は、仕事を納めるまで移らないと言った。危険はない」
「それ、通るの」
「分からん」
「さっきも聞いた、それ」
後ろの戸が閉まった。錠は助手席で前を向いたまま、その音を聞いて、雨宮はまた窓のほうへ体を寄せているのだろう、と思った。車が動きだしてからも、耳の奥で、鉋の音がしばらく続いていた。




