まずいカレー
寮の突き当たりの卓には、炊飯器と、蓋つきの電気の鍋が並んでいた。鍋の中身はカレーで、作ったのは芹沢だった。芹沢は上着を脱いで袖をまくり、玉杓子を持ったまま、鍋の中を難しい顔で見下ろしている。現場で車の止め方を決めるときより、ずっと迷っている顔だった。
「隊長、じゃがいもがまだ石です」
卓のいちばん手前で、両角が自分の皿を箸の先でつついていた。カレーを箸で食べようとしているのではなく、じゃがいもの固さを確かめているらしい。
「右は、根菜の加熱が足りないと消化に悪いって言ってる。左は、消化以前に味がしないって言ってる。……二人とも、順番に喋って。私は今、煮込み時間の話をしてるの」
「ルーは箱に書いてあるとおりに入れた」と芹沢が言った。
「箱に書いてあるのは四皿分です。この水の量は八皿分です。右、計算は合ってる? 合ってる。左は黙ってて。塩を足せばいいって話じゃないの」
両角は自分と、自分の右と、自分の左を相手に、一人で三人ぶん喋っていた。芹沢はそれを止めもせずに、玉杓子で鍋の底をさらっている。
錠は卓の、流しに近い側の端に座っていた。自分で選んだ席だった。廊下に並んだ戸のうち、三つ目の戸が開いていて、戸口の内側に雨宮が椅子を出して座っている。膝の上に皿を置き、もう片方の膝に端末を立てかけて、何かの映画を見ながら食べていた。錠の席からは、卓をはさんで、芹沢と両角の向こうになる。廊下でいちばん遠い場所を取るなら、ここだった。
端末からは、ときどき、誰かが息を殺して歩く音と、床板の鳴る音が小さく漏れてくる。誰もそれを止めなかった。
錠は匙でカレーをすくって、口に入れた。
水っぽかった。ルーが溶けきっていなくて、舌の上に粉の固まりが残る。じゃがいもは、両角の言うとおり、芯が固い。肉には火が通りすぎていて、噛むと繊維がほどけた。うまくはない、と錠は思った。それでも二口目をすくっていた。熱い飯の上に、熱いものがかかっている。皿は盆に載って部屋へ運ばれてきたものではなく、自分の前の卓に置かれていて、向かいでは人が、錠とは関係のない話をしている。
「久我」と芹沢が言った。「食えるか」
「食えます」
「正直に言え」
「……じゃがいもは、あと二十分です」
両角が箸を持ったまま、錠を指した。
「ほら。三対一」
「お前のは三人で一人だ」
「隊長、ご自宅では誰が作ってたんですか」
「女房だ」
芹沢はそれだけ言って、鍋の蓋を閉めた。
明かりが消えた。
冷蔵庫の唸りが止まり、鍋の下の小さな赤い灯も消えて、廊下の突き当たりがいっぺんに暗くなる。光っているものは、三つ目の戸口の、雨宮の膝の上の端末だけだった。画面の中では、やはり暗い廊下を誰かが歩いていて、その青白い光が、雨宮の顎と、匙を持ったまま止まった手を下から照らしている。
錠は息を止めていた。暗くなったら、白いものがあの戸口からせり上がってくるのではないか、と思ったのだった。左手が卓の縁を掴んでいる。
何も出なかった。雨宮は端末の画面から目を上げて、暗い卓のほうを一度見て、また画面に目を戻す。匙が皿に当たる音がした。食べている。
「……今のは、どちらのAIのせいでもない」
暗い中で両角が言うと、芹沢が笑った。短く、鼻から息が抜けるような笑い方で、一度きりだった。芹沢が笑うのを聞くのは、錠には初めてだった。それから椅子の脚が床を擦って、芹沢の足音が廊下を階段のほうへ遠ざかっていく。慣れた足どりだった。暗がりの向こうで蓋の開く音がして、かちん、と何かが上がり、明かりが戻った。冷蔵庫がまた唸りはじめる。
「毎回、ああなんですか」と錠は訊いた。
「飯のたびに一回」と両角が答えた。「右は月に二十九回って言ってる。左は数えるなって言ってる」
錠は匙を置いて立ち上がった。戻ってきた芹沢と入れ違いに、廊下の手前の、階段の上がり口の脇まで歩いていく。壁に埋めこまれた分電盤の蓋は、手で引くと開いた。中には小さなつまみが並んでいて、端の一つだけが、ほかより新しい。そのつまみから出ている線は、ほかの線の束には入らずに、壁の表を、留め具で止めながら廊下の奥へ這わせてあった。あとから足した線だ。錠はその線を目で追って、突き当たりまで歩いた。線は冷蔵庫の裏へ下りて、同じ差し込み口の列に、炊飯器と鍋がつながっている。
「お前さあ……」
線に向かって言っていた。一本の細い線に、冷蔵庫と、熱を出すものが二つ。冷蔵庫が回りはじめる瞬間に、炊飯器と鍋が両方温めていれば、落ちる。分電盤のつまみに書いてある数字を見るまでもなかった。
「隊長。これ、元からやり直さないと駄目です。線が一本しかない」
「設備には言ってある」と芹沢は言った。
「洗濯機のとこの差し込み、こっちとは別の線ですよね」
「別だ」
「延長の線、どっかにあります? 長いやつ」
「空き部屋にある」
「鍋だけ、そっちにつなぎ替えていいですか。応急ですけど。洗濯機と一緒に使ったら、今度はあっちが落ちます」
芹沢は錠の顔を見て、それから吊り布の中の右腕を見た。
「片手でやれるか」
「巻いてあるのをほどいて、差すだけなんで」
「やれ」
空き部屋は廊下の反対側にあって、古い椅子と段ボールのあいだに、巻き取り式の延長コードが転がっていた。錠はそれを左手で提げて洗濯機の置き場まで行き、差し込み口に差して、コードを繰り出しながら廊下を戻った。三つ目の戸口の手前で、足を止める。
「前、通す。線だけ」
雨宮は端末から目を上げた。錠ではなく、錠の手もとのコードを見た。
「……どうぞ」
錠は戸口には寄らずに、コードの巻き取りを床に置いて、廊下の向こうの壁ぎわへ足で押しやった。巻き取りは壁に沿って転がっていき、突き当たりの手前で芹沢が拾い上げる。芹沢は黙って鍋の線を抜き、延長コードの口に差し直した。鍋の下の赤い灯が点いた。
「君」両角が、さっきよりも面白そうな顔でこっちを見ていた。「今の、中のやつは一度も待たなかったね。線をつなぎ替えてるあいだ」
「あいつが訊いてくる用事じゃないんで」
「そう。静かだった」
「だから、聞くなって。……静かなのは普通なんすよ。うるさいのは、あいつが何か欲しがるときだけで」
「へえ。欲しがるんだ」
余計なことを言った、と錠は思った。両角は右のほうへ小さく頷いて、それから突き当たりの芹沢を見た。
「隊長からは、何も聞こえないんだけどね。ここに来てから一度も」
「聞くなって」
「聞こえない、と言ってる。聞こえないだけで、いないとは言ってないよ」
錠は芹沢を見た。芹沢は延長コードの余りを巻き直していて、こっちの話が聞こえていない背中ではなかった。
「……隊長。入ってないんすか。体の」
「入れてない」
芹沢はコードから目を上げなかった。
「なんで」
「冷めるぞ」
それで終わりだった。この人もか、と錠は思った。思って、そこから先が続かなかった。
錠は卓に戻って皿を持ち上げ、鍋の前に立った。蓋を開けると、さっきよりは少し煮詰まっている。誰にも勧められていないのに、錠は玉杓子で二杯目をよそい、自分で席に運んで食べた。じゃがいもはまだ固く、うまくはないままで、それでも皿が空になるまで匙は止まらない。腹の底が、熱ではなく重さで満ちていく。交差点で握り飯を口に押しこんでいたときの、止めようとしても止まらなかった手とは違って、止めようと思えば止められる手で、錠は最後の一口をすくった。
片づけが済むと、両角は自分の部屋に戻り、雨宮の戸は閉まった。芹沢だけが卓に残って、罫の入った紙を広げていた。ボールペンで、一字ずつ、角ばった字を書いている。錠は流しで皿を洗いながら、肩ごしにそれを見た。
いちばん上に書いてあるのは、戸川の家へ行った日の日付だった。その下に、行き先と、会った相手と、相手の言ったことが続いている。同行した者として、雨宮の名前と、その隣に、久我 錠、と書いてあった。紙の終わりには、芹沢 巌、と、同じ角ばった字で自分の名前が入っている。
錠は皿を持ったまま、少しのあいだ動かなかった。工場のときも、この人はそう記録しておいてくださいと言った。そのあとで錠が受け取った写しでは、怪我をした場所と経緯の欄が空いていた。この人の報告がどこへ行ったのかは、錠は見ていない。けれども今、芹沢は顔も上げずに、錠の名前を自分の名前と同じ紙に書いている。錠が後ろで見ていることを、気にしている様子はない。隠す人間の書き方には見えなかった。見えなかった、というだけで、それ以上のことは分からない。
「それ、残るのか」
芹沢はペンを止めずに答えた。
「出す」
残る、とは言わなかった。錠は皿を水切りに立てた。出したあとで、あの紙がどうなるのか。それは、訊くことではなくて、見ることだ、と錠は思った。自分の記録は、求めれば写しがもらえることになっている。
夜中になっても、錠は布団の中で目を開けていた。腹はいっぱいで、廊下は静かで、三つ目の戸の向こうの映画の音も止んでいる。静かだと、首の後ろにいるもののことを考える。
「なあ」
声に出したが、返事はない。こいつは、訊かれたことにしか答えない。
「お前さ。出ていけねえの。自分で」
〈その指示は、実行できません〉
「指示じゃねえよ、訊いてんの。……じゃあ、抜き方。知ってんの、お前は」
〈摘出の手順は、保持していません〉
「持ってねえのかよ。自分のことだろ」
今度は何も返ってこなかった。訊いていないからだ。錠は天井に向かって息を吐いた。隠しているようには聞こえなかった。そのぶん、余計に始末が悪い。
眠れないまま、今度は別のことが頭に引っかかってくる。延長の線でつないだだけの鍋のことだった。応急は応急で、元からやり直さなければ、また誰かが別の所で同じことをする。やり直せるだけの余裕が、この棟の元の盤にあるのかどうか。それが分かれば、設備に何と言えばいいかが分かる。錠は布団を出た。
分電盤の蓋を開け、いちばん太い線が壁の中へ入っていく向きを確かめて、錠は階段を下りた。下りきった所の、階段の裏に、鉄の扉がある。鍵はかかっていなかった。壁を探るとスイッチがあって、裸の明かりが一つ点いた。箒とバケツの奥に、盤が二つ並んでいる。
手前の盤の蓋は開いた。太い線が何本も入ってきて、そこから枝が分かれている。錠は左手の指で、枝を一本ずつたどった。寮へ上がっていく線は、いちばん端の、いちばん細い一本だった。
「細っ。……これかよ、うち」
指が、そこで止まった。
寮の枝の何倍も太い線が一本、盤の外へ出ている。線は隣の盤へ入っていた。隣の盤には鍵がかかっていて、札には番号しか書いていない。扉の外側に、紙が一枚貼ってあった。点検の記録だった。月ごとに日付と判があって、昼間の使用量と、夜間の使用量の欄が並んでいる。
錠は数字を上から読んだ。
「……は?」
寮の全部の部屋で、全部の明かりと鍋と洗濯機を一日じゅう回しても、こうはならない。桁が違う。それよりも、昼の欄と夜の欄の数字が、どの月もほとんど同じだった。人が寝ている時間に、減っていない。
何かが、ずっと動いている。
錠は紙から目を離して、鍵のかかった盤の扉に、左の手のひらを当てた。鉄は、夜中の階段の下にあるものにしては、温かかった。耳を寄せると、扉の奥で、低い唸りが切れ目なく続いている。冷蔵庫のように、止まって、また回りだす音ではなかった。
太い線は盤の裏から壁の中へ入っていて、その先は、ここからは見えなかった。




