工具箱
評価担当の男は、建物の前に止めた車に戻ると、エンジンをかける前に、膝の上で書類の角をそろえた。打ち合わせは四十分で済んだ。室長は最後まで書類から顔を上げず、お渡しするのは数値です、本人ではありません、と二度言い、男は二度とも、引き渡しは求めていません、データだけです、と同じ言葉で返した。較正、という名目も、向こうの様式に合わせた手順書も、そのまま通った。軍からは他の試作の測定値の要約を送り、室は自分の設備で久我 錠を測って、比べた結果を返す。
そろえた束のいちばん下から、室長には見せなかった一枚を抜いて、男はハンドルに立てかけた。評価計画の、目的の欄。欄は狭く、書いてあるのは一文だけだった。
当該試作のみが宿主の都度の許可を要する理由を特定し、許可を要しない運用の方法を検討する。
病室で、銃口を額の前に置かれた十七歳は、四度とも「しない」と言い、四度とも腕は動かなかった。男はあのとき測定器の平らな線を見ていて、線が平らだったことを、平らだったと書いた。数字はいじっていない。ほかの試作は訊かずに動く。あの一体だけが宿主に訊き、宿主が断れば止まる。なぜそうなっているのかが分かれば、そうならない方法も分かる。分かったあとでそれをどう使うかは、この欄には書いていないし、男の書く欄でもなかった。
期限はある。男は一枚を束の下に戻し、もう一度角をそろえてから鞄に入れ、建物のほうを一度だけ見てから、エンジンをかけた。
九重は検査の部屋の前の廊下で、歩きながら読んでいた書類から一枚を抜き、論に端末を渡した。
「軍から、ほかの試作の測定値の要約が届いています。久我さんを測って、それと比べて、結果を返す。名目は較正です。うちの機械が測れるのは体の数値だけで、彼の中のものが許可を待っているあいだのことは拾えない。あなたは拾える。芹沢の報告にありました」
「待っている時刻を、私が書くんですね」
「入った時刻と、解けた時刻を。朝比奈先生の記録に書き添えます。彼の記録は、要る範囲で開けるようにしてあります」
「較正のあと、向こうは何をするんですか」
「較正です」九重は書類をめくった。「名目のほかのことは、この書類にはありません」
「……右、うるさい。理由を言わないのは、いつものことでしょう。左は黙ってて、いま訊いてない」論は端末を脇に挟み、九重の手元の書類を見た。「今日の一回だけ、やります。続けるかは、あとで決めます」
「結構です」
九重は一度も足を止めずに、廊下の角を曲がっていった。
論は壁にもたれて、端末を開いた。要約は表になっていて、行ごとに試作が一体、列ごとに測定の項目が並んでいる。項目の名前は軍のもので、論はどれも読めた。読めるのは、自分がその項目で測られる側にいたからだ。行のいちばん左に、系列の番号と、その中での番号がある。上から順に目で追っていくうちに、論の指は端末の縁で止まった。
自分のいた系列だった。
その下の行に、自分の番号がある。
論は端末の縁を、指で二回、少し置いてまた二回叩いた。番号の右には数値が並んでいる。熱、血の巡り、組織の反応、ほかの行と同じ項目が、ほかの行と同じ桁数で。それだけだった。いつ、何を入れられたのか。入れる前に誰が何を決めたのか。そういう欄は、表のどこにもない。行を横へ最後まで送っても、数値の列が終わるだけで、その先は白い。
「右は、要約なんだから当然だって。……分かってる。左も同じことを言わなくていい」
声は思ったより小さく出た。論は表を閉じ、九重が開けておいたという記録を開いた。久我 錠。受付の日付、検査の数値、処置。データを時刻で突き合わせるのに要るのは検査の欄だけで、ほかは読まなくていい。読まなくていい欄を、論は上から順に読んだ。
右肩の脱臼と、背中の熱傷。処置の欄は、冷却から固定まで細かく埋まっている。そのすぐ上の、負傷の場所と経緯の欄には、何も書かれていなかった。
書きかけて消した跡もない。ほかの欄の埋め方からすると、ここだけ手が抜けたようには見えないが、まだ誰も書いていないだけなのか、書かないことにした人がいるのかは、画面からは分からなかった。論は自分の番号の右に並んでいた数値と、その先の白いところを思い出し、指をもう二回、縁に当てた。
廊下の向こうから、吊り布の腕をした久我が、職員に連れられて歩いてくる。論は記録を閉じて、端末を伏せた。
朝比奈の部屋は、前に来たときと同じ、機械の熱と焦げた豆の匂いがした。違うのは、壁ぎわの椅子に両角が座っていることで、膝の上に端末と、小さな紙の綴りを載せている。
「今日は、何のために測るんですか」と錠は訊いた。
「較正のための測定」両角が先に答えた。「それだけ」
「何の較正」
「何の較正か、ということなら」朝比奈が固定具の留め具に手をかけながら言った。「向こうの数字と、あなたの数字を比べるための測定。項目は向こうの様式に合わせてある。この紙に書いてあるのは、そこまで」
「比べて、どうすんすか」
「それは、この紙に書いていないの」
向こう、が軍だということは、九重に聞いて知っている。測った数字が出ていくことも、自分で署名した紙に書いてあった。書いていないことのほうは、ここでも誰も言わない。朝比奈は留め具を見ていて、両角は膝の紙を見ている。
留め具が一つずつ外れ、固定具が開いた。朝比奈は錠の肘の下に手のひらを入れ、腕の重さを自分の手に移してから、台の上へ下ろした。首の後ろには、前と同じ冷たい板が当たっている。腕を上げるな、と言った医師の言いつけは、この人の手の中では守られている。肩の奥で鈍い痛みが動いた。
〈右腕の損傷の治療を提案します。許可しますか〉
「しない」
〈了解しました〉
いつもの一言だった。朝比奈は訊き返さず、機械を回しはじめた。壁ぎわで、鉛筆が紙の上を短く走る音がして、それから端末の縁を指で叩く音が二回、少し置いて二回した。錠は首を動かせないので、目だけをそちらへやった。両角は壁の時計を見て、また紙に目を落としている。面白い音がする、と前に言われたのを思い出したが、今日の両角は面白がっている顔ではなく、何かを数えそこねた人のように口を結んでいた。
測り終えた腕に新しい固定具が巻かれ、最初の留め具が締まったところで、頭の中の声がもう一度同じことを訊いた。
「しない。お前、巻き直すたびに訊くのな」
鉛筆がまた走った。
「両角さん。いま、何書いたんすか」
「較正」
「それ、さっき聞いた」
両角は答えずに、端末の縁を指で二回叩いた。今日のこの人は、言い返してこない。
「終わり」と朝比奈が言った。両角は立ち上がって綴りから一枚を破り、朝比奈の机の、画面の横に置いた。朝比奈はそれを見て、数字をいくつか打ち込んでいる。錠の腕の数字のそばに、両角の書いた何かが足されていくのを、錠は吊り布を首にかけ直しながら見ていた。何が足されたのかは、画面が遠くて読めなかった。
夕方、部屋の戸が二回叩かれた。
「久我」芹沢の声だった。「面会だ。親父さんが来てる。室長の許可は出てる」
錠はベッドの上で起き上がったまま、しばらく返事をしなかった。通知が行く、と九重は言っていた。行けばまた一行送ってくるのだろうと思っていたが、端末は預けたままで、一行が来たのかどうかも知らない。本人が来るとは思っていなかった。
「……会わないってのは、ありですか」
「ありだ」と芹沢は言った。「お前が決めろ。受付で待たせてある」
戸の向こうで、芹沢は動かずに待っている。錠は吊り布の結び目を左手で直し、直す必要のない結び目をもう一度直して、立った。
「卓で」
父は、芹沢の後ろについて階段を上がってきた。両手で、鉄の箱を提げている。角の塗装が剥げて、取っ手に黒い布の巻いてある、錠の工具箱だった。父はそれを卓の上にそっと置き、置いてから手のひらを二、三度握って開いた。重かったのだ。芹沢は何も言わずに階段のほうへ下がっていき、分電盤のあたりで背中を向けて立った。
「矢作さんから、預かってきた」父は笑って、ゆっくり言った。「戻る場所は空けとく、って。そう伝えてくれって」
錠は箱を見た。取っ手の布は自分で巻いたもので、巻き終わりのほつれまで覚えている。矢作が、わざわざ人に物を頼んだのだ、と思うと、喉のあたりが妙に詰まった。
父の目は箱から、吊り布の腕へ移っていた。固定具の先から出ている指を見て、顔を見て、また笑う。この人はもう、責めるということをしない。
「痛むか」
「動かさなきゃ、別に」
「そうか。よかった」
父は椅子に座らず、卓の端に片手をついて立っている。錠も座らなかった。流しの蛇口から、水が一滴落ちた。
「聞いたんだろ」と錠は言った。「勝手に入れられたって。俺が寝てるあいだに」
「聞いたよ」父は頷いた。「助けてもらったんだな」
「頼んでない」
「うん」
父は否定しなかった。頷いて、笑ったまま、錠の言葉を最後まで聞いている。聞いてから、少し間を置いて言った。
「ここの先生たちに任せたら、楽になれるよ。父さんもそうだった」
楽になりたいわけじゃない。
そう言うつもりで息を吸った。
声は出なかった。
父の顔は穏やかで、目尻に皺が寄っていて、こっちが何を言っても、そうか、と受け取る用意ができている。怒鳴れば、怒鳴られたまま頷くのだろう。この顔に向かって何かを投げても、当たる所がない。錠は口を開けたまま、吸った息をどこへやればいいのか分からなくなって、結局、鼻から細く出した。
「……箱、重かっただろ」
「重かった」父は嬉しそうに言った。「お前、あんなのを毎日提げてたんだな」
父は吊り布の肩のあたりを、触らずに一度見て、冷やすなよ、と言い、階段のほうへ歩いていった。芹沢が先に立って下りていく。父は上がり口で振り返り、片手を上げた。錠は左手を上げかけて、途中でやめ、卓の上の箱の取っ手を握った。
箱は左手で提げると、肩がそちらへ下がるほど重かった。錠は部屋の床に箱を下ろし、その前にあぐらをかいた。
「……箱の話かよ」
誰もいない部屋で、自分に言った。言うことはほかにあった。頼んでない、の続きが、喉のどこかにまだ引っかかっている。あの顔の前では出なかったくせに、一人になると出てきそうになるのが、腹立たしかった。
留め金を親指で弾いた。蓋の裏から、油と鉄の匂いが上がってくる。
いちばん上の段に、ドライバーが寝ていた。その下にもまだ物が詰まっているのが、段の隙間から見える。錠は上の段の一本を取って、床に置いた。次の一本を、その隣に。プラスの大きいのから小さいのへ、マイナスの大きいのから小さいのへ、店の作業台でいつもそうしていた順に、握りを手前にそろえて並べていく。握りの色はどれも褪せていて、いちばん使う一本は、樹脂の角が丸く減っている。
その一本を、錠は左手で握ってみた。指が、減ったところに合わない。握りは右手の形に減っていて、左の指は、すり減っていない硬い角に当たる。錠はそれを握り直し、握り直してもやはり合わないのを確かめてから、列のいちばん端に置き、箱の中の次の一本に手を伸ばした。




