鉋屑
作業場に鉋の音がしない。老人は作業台の前の木箱に腰を下ろして、膝の上で手の布を巻き直している。前に来たときより布が太く、人差し指の横の一本のさらに外に、まだ爪の柔らかい指がもう一本、布の端から先だけ覗いていた。
「前より早う出る」老人は芹沢のほうを見ずに言った。「縛っても、台を握ると絡む。絡んだまま引くと、付け根が割れるように痛む」
作業台には、鉋のかかっていない桟が一本載ったままになっている。老人は布の端を歯でくわえて結び、結んだ手を握ろうとして、途中でやめた。
「もう無理か」
誰に言ったのでもない声で、芹沢は入口から動かず、雨宮は土間に近い戸のそばで端末を持ったまま老人の手を見ている。誰も何も言わないのかよ、と思ったときには、錠はもう作業台の横まで来ていた。
「無理じゃないでしょ」
「何が分かる」
「分かんないっすよ。分かんないから、手、見せてください。布取って」
「見てどうする」
「握るから痛いんでしょ。握らなきゃ絡まない」
「握らんで鉋が引けるか」
「引けるようにすりゃいいじゃないですか。台のほうを」
老人は錠の顔ではなく、吊り布から出ている左手のほうを見た。値踏みされてるな、と錠は思う。できるかどうかは錠にもまだ分からないが、それをここで言うつもりはなかった。
「取ってくださいって。見ないと寸法が出ない」
老人は鼻を鳴らし、結んだばかりの布を歯でほどいた。布の下の手は指の付け根が赤く張って、余った指がそれぞれ勝手なほうを向いている。錠は作業台の隅の紙を一枚もらって老人の手を載せてもらい、鉛筆で縁をなぞった。紙が逃げないよう、固定具の先の指で端を押さえる。指の股まで鉛筆を入れると老人は顔をしかめ、それでも手は引かない。左手で引く線はみみずが這ったようになった。
「……字じゃねえな、これ」
「線だ。線なら読める」と老人は言った。「そこは股が浅い。もう一遍」
言われたとおりになぞり直す。二度目のほうがましだった。
「鉋、どれに付けます」
老人は黙って立ち、棚のいちばん上から、油の染みた布にくるんだ一丁を下ろした。布を開くと、台の樫が飴色に光る。
「仕上げだ。手の利くうちに裏を出して、仕込んで、この戸の最後にかけるつもりで取ってあった。握れんようになって、出せんだった」
「うわ」声が出た。「これ、いいやつでしょ。俺でも分かる。いいんすか、これに付けて」
「付けんで、どれに付ける」
「いや、失敗したら」
「失敗する気で来たんか」
「……しないっすけど」
「なら訊くな」
錠は台の幅と高さを、紙の端に写した。写しながら、口の端が上がるのを止められなかった。
車に戻る前に、芹沢は表通りの角で端末を耳に当てた。
「芹沢です。戸川の件で。指の増え方が、前より速い。布の外に、新しいのが一本。……はい。……明日ですか。分かりました」
端末を下ろして、芹沢は錠に言った。
「朝比奈先生が、明日、自分で見に来る。それまでに作れるか」
「部品があれば。あと、俺の左手がもうちょい賢ければ」
「左手は」
「鍛えます。今夜」
芹沢は笑わなかったが、車のドアを開ける手が一拍遅れた。
雨宮を寮の前で降ろし、芹沢は錠の言う大須の商店街へ車を回した。どの角で曲がるかは、錠が口で言うより先に指でさしていた。
日比野電材はシャッターが上がっていた。ガラスの引き戸を左手で開けると、両側の壁が床から天井まで小引き出しで、そのあいだを人が一人通れる。奥のカウンターで、つぐみが抵抗器を袋に数えて入れていた。手は止まらず、口だけが先に動く。
「いらっしゃ——」
手が止まった。
「錠」
「おう」
「おう、じゃない。生きてんの。何それ、その腕。連絡は。私、何回も送ったんだけど。矢作さんに訊いたら、事故だ、としか言わないし」
「生きてる。腕もついてる。ほら」錠は吊り布の中で指先だけ動かしてみせた。「端末、預けたままでさ。返事できなかった。悪い」
「悪い、で済ますな。棚に戻すって言ったやつ、私、戻せなかったんだからね」
つぐみはカウンターを回って出てきて、吊り布と固定具を上から下まで見た。後ろで芹沢が引き戸を閉め、入口の脇の棚に体を寄せて立つ。つぐみはそっちを一度見て、錠に目を戻した。
「誰」
「付き添い。いま、専門の部署ってとこに預けられてて、外に出るのに要るんだ」
「預けられてるって、犬じゃないんだから。なんで」
錠は引き出しの列を見た。どの引き出しにも、つぐみの字で型番が書いてある。こいつの字は昔から右上がりだ。
「配達の途中で事故に遭って、運ばれた。病院で、寝てるあいだに入れられた。体内AI」
「……は?」
「同意は、してない。寝てたから」
つぐみは何か言おうとして、一度息を吸い直した。
「何それ。寝てる人間に。訊きもしないで。それ、あんたの体でしょ。なんで他人が決めるの。病院って、どこの。誰が入れるって決めたの。名前は」声が棚に当たって返ってくる。つぐみは芹沢のほうへ顔を向けた。「あんた、その部署の人でしょ。あんたたち、それ知ってて預かってんの」
芹沢は何も言わなかった。目もそらさなかった。
「その人に言っても、しょうがないって」
「しょうがなくない。しょうがないって言うから、勝手にやられるんじゃん」
つぐみは肩で息をしている。錠はその顔を見ていた。父は同じ話を聞いて、助けてもらったんだな、と笑った。あの卓で錠の喉から出なかったものが、いま、棚に当たって返ってきている。
「……お前、すげえ怒るな」
「当たり前でしょ。あんたが怒んないから」
「怒ってるよ。怒ってるけど、相手がいねえんだよ。寝てたし」
「だから私が怒ってんの」
笑いそうになって、錠は鼻の頭をこすった。腹の底で固まっていたものが、少しゆるんでいた。
つぐみはカウンターの上の端末を手に取り、何もせずにまた置いた。奥の戸の向こうで、食器の触れる音がしている。つぐみはそっちを見ないで、声を落とした。
「うちのお父さんも、受けてから、ずっと機嫌いいよ。お母さんの命日にも笑うんだよ」
錠は頷いた。同じだ、と思った。つぐみも、錠が頷いたのを見て、それ以上は言わなかった。
「で、何が要るの。まさか顔見せに来たわけじゃないでしょ」
「顔見せのついでに、蝶ねじ。長いのと、受けのナット。四組。あと、古い機械のレバーの握り、丸いやつ」
「ついでが逆。蝶ねじは、六ミリの、首下六十」型番のところだけ、つぐみの口はゆっくりになる。「握りは、ベークの、三十二ミリ。旋盤の送りのやつが二つ残ってる。何に使うの」
「鉋」
「鉋にレバー?」
「付ける。見たら笑うぞ」
「見せに来なよ、じゃあ」
つぐみは脚立も使わずに引き出しを三つ開けて紙袋に入れ、それから棚のいちばん下の奥から、もう一つ袋を出してきた。袋には太い字で、錠、と書いてある。
「例のやつ。五時は過ぎたけど、戻してない」
「……何日過ぎてんだよ」
「数えてない。数えてたら腹立つから」
錠は袋を受け取って、左手で口を少し開け、閉じた。礼を言う前に、芹沢が横から代金を置いていた。つぐみは釣りを数えながら、もう一度だけ言った。
「絶対おかしいからね、それ」
次の日、錠は工具箱を左手に提げて作業場に入った。
端材は老人が選んだ。よく乾いた樫の、目の通った切れ端を二枚と、少し厚いのを一枚。錠は昨日の紙を厚いほうに当て、手のひらの付け根が掛かる所と、余った指が逃げる所に鉛筆で印をつけていく。右の指先は、紙の端に触れているだけだ。
「ここを欠きます。指が三本、こっちへ抜ける」
「浅い。もう五分、取れ」老人は印を爪で引き直した。「引くとき、手は前へ転ぶ」
「五分って、何ミリっすか」
「一分が三ミリだ。学校で何を習っとる」
「ミリっすよ」
「なら十五だ。計算はできるんだろう」
鋸は錠が左手で引いた。老人が増えた指を板の上に広げて、材を作業台に押さえつけている。握れない手も、押さえるぶんには、指が多いだけ広く利く。
「曲がっとる」
「左なんで!」
「左でも線は真っ直ぐだ。鋸を見るな。線を見ろ」
「見てますって。見てて曲がるんすよ」
老人はそれ以上言わずに、曲がったぶんを鑿で払った。切り欠きは、老人が材を足の裏で踏み、鑿を指で添えて立てて、錠がその頭を玄翁で叩く。
「強い。半分でええ」
半分にすると、鑿は素直に入っていった。
穴は老人があけた。材を踏んだまま、揉み錐を両の手のひらで挟んで、すり合わせる。錐の先から、細い粉が巻いて出てくる。
「握らんでええ道具は、まだ使える」
「それ、先に言ってくださいよ。握らないで使える道具、ほかに何があります。全部出して」
「うるさい小僧だ」
そう言って、老人は顎で棚の下の段を示した。
二枚の樫で鉋の台を両側から挟み、蝶ねじを台の上へ渡して締める。台には穴を一つもあけなかった。挟んだ板の上に、切り欠きのある握りを木ねじで留めるとき、錠はいちばん使うドライバーを左手で握った。樹脂の角はやはり指に合わない。くそ、と小さく言いながらねじの頭に押しつけて回し、四本目で、ようやく手首の返し方が分かってきた。
台の頭の側にはもう一枚の樫を渡して、その上にベークの握りを立てる。丸い頭に手のひらを載せるだけで、台が板に押しつけられる。
「できた。……できた、と思う。たぶん」
「どっちだ」
「引いてみないと分かんないっす」
老人は治具の付いた鉋を持ち上げ、裏返して刃の出を見て、木槌で頭を一つ叩いた。布は巻かない。右の手のひらの付け根を握りに掛けると、余った指が切り欠きから外へ抜けて、どこにも触らずに浮いている。左の手のひらを、丸い握りの上に置く。
腰が落ちた。
鉋が動いた。
音が違った。昨日までの途中で引っかかる音ではなく、板の端から端まで同じ高さで続いている。鉋の口から屑が出てくる。透けるほど薄い帯が、切れずに伸びて老人の肘を越え、膝の横まで垂れて、鉋が板の端を抜けたところでふわりと床に落ちた。
一本だった。
「——っしゃ!」
声が先に出ていた。
「出た。戸川さん、出た。切れてない、これ。一本」
「見りゃ分かる」
「見てくださいよ、ちゃんと。膝まであんだぞ」
「屑を褒めてどうする」老人は削った桟を取り上げ、木口から目を通して、それを錠のほうへ突き出した。「こっちだ。触ってみい」
錠は左手の指の腹で桟の面を撫でた。木なのに濡れた石のように冷たくて、指がどこにも掛からない。端まで行って、もう一度戻る。
「うわ、何これ。気持ち悪いくらい引っかかんねえ」
「気持ち悪い言うな」
「褒めてんすよ」
「褒め方を習え」
老人は桟を取り返して、次の一本を作業台に載せた。載せる手つきが、さっきより早い。雨宮が戸のそばから二歩入ってきて、床の屑を拾い、明かりに透かしている。
「……透ける」
誰に言ったのでもない小さな声で、錠は聞こえなかったふりをした。近づくなと言われている相手に、だろ、と言うわけにもいかない。
朝比奈は昼前に来た。表通りに白い車がもう一台止まり、運転してきた職員は車に残る。朝比奈は作業場に入ると、挨拶より先に老人の手を取り、小さな機器を指の付け根に一本ずつ当てていった。
「それを付けて、一枚。それから、外して、一枚。引いてもらえますか」
「外して引くと、痛い」
「痛いほうも見たいの。一枚だけ」
「先生、それ、やらせる必要あります?」錠は口を出していた。「痛いって言ってんのに」
「あります」朝比奈は機器から目を上げなかった。「比べないと、この人がここで仕事を続けていいかどうかを、私は言えない」
錠は黙った、というより黙らされた。
老人は治具で一枚引いた。屑はまた一本で出た。朝比奈は鉋ではなく老人の手首と指の付け根を見ていて、引き終えるとすぐ機器を当てる。それから老人は蝶ねじをゆるめて治具を外し、布を巻き、縛った指ごと台を握って引いた。台の縁に余った指が絡み、老人の喉が鳴って、屑は板の半分で切れた。錠は自分の左手を握っていた。朝比奈はもう一度機器を当て、端末に何かを打ちこんだ。
錠は横から画面を見ていた。朝比奈が打った行の下に、少し間をおいて、文字が返ってくる。朝比奈はそれを最後まで読み、手元の数値をもう一度見てから、芹沢のほうへ向いた。
「私はこれまで、移すべきだと言ってきました。握るたびに進むなら、ここで仕事を続けるのは本人に危ない、という理由で」朝比奈は端末を伏せた。「握る負荷が下がるなら、自宅でも進み方は緩やかになる見込みです。自宅でも可。ただし、検査の間隔を詰めること。見込みは見込みで、外れたら、また言います」
「つまり、ここにいていいってことっすよね」
「『自宅でも可』と言ったの。『いていい』を決めるのは、私じゃない」
「報告に書きます」と芹沢は言った。
朝比奈は機器をしまいながら、錠の前で足を止めた。
「さっきの二枚。付けたほうは、付け根の熱が上がらなかった」
訊いてもいないのに、それだけ言って、朝比奈は出ていった。錠はしばらく戸口を見ていて、それから老人のほうを向いた。
「聞きました? 熱、上がらなかったって」
「聞いた。わしの手だ」
老人は治具を付け直して、蝶ねじを指の股で挟んで締めた。それから、作業台から顔を上げずに言った。
「役所。明後日の朝、納める」
「明後日の朝」芹沢は上着から手帳を出して、その場で書いた。「報告にも、そう書きます」
帰りぎわ、錠は戸のそばの雨宮に、左手を出した。
「それ、一本くれ」
雨宮は手の中の屑を見て、錠の手を見て、いちばん長いのを残し、二番目に長いのを錠の手のひらに落とした。
「……どうぞ」
「いちばん長いの、取ったな」
「拾ったの、私だから」
巻くと指の先ほどの輪になる。錠はそれを工具箱の上の段の、ドライバーの横に入れて蓋を閉めた。車まで歩くあいだ、芹沢が前を向いたまま言った。
「四本目で、手首が返った」
「は?」
「ねじだ。見てた」
シャッターを下ろした店のカウンターで、つぐみは端末を立て、画面に自分の手元が入るように角度を直した。手の中には、錠に出した残りのベークの握りが一つある。いつもなら、これがどの機械のどこに付いていた物かを話す。
「今日は、部品の話じゃなくて」
つぐみは握りを指で回しながら、早口で言った。
「知り合いが事故に遭って、運ばれた病院で、体内AIを入れられました。本人の同意なしで。本人は、頼んでないって言ってます。私は、おかしいと思う。訊かれてないのに体に入れられるのって、治療って呼んでいいの」
名前も、店のことも言わなかった。錠には、話すと言っていない。
言い終えて、つぐみは録るのを止め、見直さずに送った。それから握りを引き出しに戻し、丸椅子を一つ、カウンターの下へ押しこんだ。
二つ目に手をかけた所で、端末が鳴った。部品の動画で、こんなに早く何かが返ってきたことはない。
私も、訊かれませんでした。
知らない名前だった。それだけ書いてあって、続きはない。つぐみは手をかけていた丸椅子に座り直し、端末を両手で持って、返事を打ちはじめた。




