一度で入った
格子戸は四枚あった。老人は一枚ずつ毛布でくるみ、角に当て紙を挟んで、搬入の戸の内側に立てかけていく。治具の付いた鉋は棚の、手の届くいちばん低い段に置いてあって、昨日の屑がまだ作業台の下に溜まっていた。
「あんたら、何しに来た」老人は毛布の端を足で押さえながら言った。「運び賃は出んぞ」
「納めたら考える、と言いましたね」芹沢は上着を脱いで、木箱の上に置いた。「その答えを聞きに来ました。運ぶのは、ついでです」
「考えとる」
「俺は運べないんで」錠は吊り布の腕を少し持ち上げてみせた。「掃きます。片手で」
「掃け。屑は捨てるな、焚きつけにする」
老人はそれだけ言って、一枚目の下に手のひらを差し入れた。握らずに、手のひらと腕で抱えるように持つ。反対の端を芹沢が持った。雨宮が搬入の大きな引き戸を、路地の側から両手で引いて開ける。朝の光が作業場の床に長く入ってきて、二人は格子戸を横にして路地へ出ていった。
錠は左手で箒を持って、作業台の下の屑を掃いた。片手で箒を使うと、柄の先が脇の下で暴れる。雨宮は路地に立ったまま、戸に手をかけて、通りのほうを見ていた。四往復して四枚が出ていき、それからしばらく、路地には誰も戻ってこなかった。
戻ってきたとき、老人は手ぶらで、毛布を肩に掛けていた。
「一度で入った」と老人は言った。誰に言うのでもなく、木箱に腰を下ろして、両手を膝の上で開いたり握ったりしている。「鴨居が二分下がっとったが、見込んであった。一度で入った」
「納まりましたか」
「納まった」
芹沢は頷いて、上着を着直した。
「戸川さん。それで」
「昼まで待て。いま訊かれても、手がまだ、あの戸を持っとる」
芹沢は待った。
老人は木箱から立つと、棚の低い段から治具の付いた鉋を取り、作業台に端材を一本載せた。布は巻かない。手のひらの付け根を握りに掛けて、引く。屑が一本、膝の横まで伸びて落ちた。納める物はもう何もないのに、老人はもう一度引き、三度目を引いた。削るための手つきではなくて、まだ引けるのを手に訊いているような引き方だった。
錠は箒を壁に立てかけて、それを見ていた。蝶ねじは、作った日より半回りほど深く締まっている。老人が自分で締め直したのだ。切り欠きの縁には、鉛筆の印がもう一本足してあった。
「ここ、当たりますか」
「当たりはせん。もう一分、逃がしてもええ、いうだけだ」老人は鉋を置かずに言った。「あんたがおらんでも、わしが鑿を当てれば済む。叩く手が要るがな」
「叩きます」
「今日はええ。今日は、納めた日だ」
車の音は、昼の少し前に来た。表通りを行く音ではなく、この道へ曲がってくる音で、家の前で止まり、エンジンが切れる。芹沢が先に顔を上げた。眉のあいだに、錠の知らない皺が寄っている。
玄関の引き戸の向こうに、白い車が道いっぱいに止まっていた。室の車と同じ形で、同じ色だった。降りてきたのは二人で、一人は運転席の戸のそばに残り、もう一人が書類の挟まった板を胸の前に出して、玄関まで歩いてくる。芹沢より十は若い。板を、名乗るより先に見せた。
「回収担当です。戸川 源吾さんの移送に伺いました」
「聞いていない」と芹沢は言った。
「手配は、班とは別に回りますので」男は書類を一枚めくって、指で行を示した。「仕事の完了後に移送予定。完了は、今日の朝と報告にあります」
芹沢の目が、その行で止まった。上着の胸の、手帳の入っているあたりに、手が一度だけ行って、下りた。明後日の朝、と書いた手帳だった。
「準備は要りません。お荷物は後日、こちらで運びます。ご本人だけ、車へ」
男は土間の奥に立っている老人を見て、丁寧に頭を下げた。嫌な顔はしていない。決まった日に、決まった仕事をしに来た顔だった。老人は毛布を肩に掛けたまま、男の手の板を見ている。誰も、老人に何も訊いていなかった。
「本人に、訊いたのかよ」
錠は自分の声を聞いてから、口を開いたことに気づいた。男が初めて錠を見る。
「予定は決まっていますので」
「誰が決めた」
「書類は、室長の名前で」
回収の前に、本人に聞く時間をよこせ。左手の震える字でそう書いて、現場には時間がない、と断られた。あの紙は今も、どこかの引き出しに入っている。
「勝手に決めんな」
目の前の男にではなく、男の持っている板の、その向こうへ言った。それから錠は、男の横を抜けて玄関を出た。
車の鼻先と、引き戸のあいだ。
人が一人、立てる幅しかない。
錠はそこに立った。
吊り布の右腕を体の前にして、左手は下げたまま、車を背にして玄関のほうを向く。頭の中の声は、何も言ってこなかった。言ってくる理由がないのだ、と錠にも分かった。この男は何も持っていないし、錠に触ろうともしていない。困った顔で、板を持ち直しただけだった。
「どいてもらえますか」
「どかない」
「……困ります」
「困ってくれ」
膝が笑っていた。立っているだけで、ほかに何をするつもりも、何ができるわけでもない。できるのは、ここにいるあいだ、戸からあの車までの道が一本ふさがる、ということだけだった。
「待ってくれ」芹沢が男に言った。声が、いつもよりもう一段低い。「俺に、これを止める権限はない。室長に確かめる。それまで待ってくれ」
男は板を持ち直して、車の横に立っているもう一人のほうを一度見た。
「……確認が取れるまでは、待ちます」
芹沢が土間へ下がると、玄関には、板を持った男と、錠と、敷居の内側の老人が残った。老人は毛布を肩から下ろし、畳んで上がり框に置いてから、錠の背中ではなく顔が見える所まで、土間を二歩出てきた。
「あんた、そこで何しとる」
「時間を作ってます」
「何の」
「戸川さんが答える時間。納めたら考えるって、言ったでしょう」
老人は錠の吊り布を見て、自分の手を見た。布を巻いていない手は、余った指がそれぞれ勝手なほうを向いたまま、体の横に下がっている。
「……言うた」老人の声は、作業場で桟の話をするときの半分もなかった。「言うたが、考えとらんかった。納めることしか、考えとらんかった」
板を持った男は、聞こえているはずなのに、書類から目を上げなかった。この男の紙には、老人の答えを書く欄がないのだ、と錠は思った。
芹沢は土間で端末を耳に当てた。
「芹沢です。戸川の件です。回収が来ています。……聞いていません。……三つあります」
芹沢の声は、報告を読むときと同じ速さだった。
「一つ。治具で、握る負荷が下がった。本人は治具を付けてから、握らずに引いている。二つ。朝比奈先生が意見を変えた。自宅でも可、検査の間隔を詰めること。本人の体については、先生の見込みが根拠になります。三つ。本人は近所の仕事を請けている。今朝も、歩いて納めに行った。次の注文も入っている。その職人が今日の昼に車で消えれば、周りが訝しむ」
長い間があった。向かいの家の二階の窓が、少し開いて、また閉まった。車の横の男が、それを見上げている。雨宮は土間の柱のそばで、端末に何かを打ち続けていた。
「……はい。……はい。代わります」
芹沢は玄関まで出てきて、端末を男に渡した。男は板を脇に挟み、背筋を伸ばして受け取った。
「はい。……はい。承知しました」
男は端末を芹沢に返し、書類を板ごと鞄にしまった。
「本日は、引き上げます」
それから錠に向かって、少しだけ頭を下げた。錠が横へどくと、男は車に乗り、白い車は来た道を後ろ向きに、ゆっくり下がっていった。
道があくと、錠の膝は急に力が抜けて、引き戸の枠に左手をついた。芹沢は車が角を曲がるまで見送ってから、上着の胸から手帳を出し、開いて、すぐに閉じた。
「あの日付、隊長の報告ですよね」
「俺のだ」
「知ってたんですか。今日、来るって」
「知らなかった」芹沢の声は低いままだった。「納める日を書いた。書けば、上が待つ根拠になると思って書いた」
出す、と芹沢は寮の卓で言った。出したあとどうなるかを、錠は見ることにしていた。それを今日、見た。芹沢が自分の名前で書いた一行は、消されも伏せられもせずに、そのまま読まれて、車を一台ここへ寄こした。
「室長は、自宅に残すと言った」
芹沢は作業場の入口に立って、老人と錠の両方に聞こえるように言った。
「連れて行くほうが目立つ、と言った。体のことは、朝比奈先生の見込みを根拠にする、と。そのかわり、記録には残る。検査は、これまでより詰めて来る。近所に何と説明するかは、室が決める」
「目立つから、って」錠は言った。「本人が残りたいと言っているから、じゃなくて」
「室長が言ったのは、そこまでだ」
芹沢は足しも引きもしなかった。同じ結論でも、通ってきた道が違う。
「戸川さん」芹沢は老人のほうへ向き直った。「いま言ったのが、条件です。そのうえで訊きます。戸は納まった。どうしますか」
老人は答えなかった。
首を上げて、中二階を見ている。寝かせた板の手前に、まだ木口の白い材が四、五本、立てかけてあった。
老人は、その材を、端から一本ずつ見ていった。
「次の仕事も、ここでやる」
それから芹沢を見て、鼻で息を吐いた。
「好きに書け。記録でも、何でも」
「書きます」と芹沢は言った。手帳は出さなかった。
老人は木箱から立って、梯子の下まで行き、梯子の横木に手のひらを当てて、握れないのを確かめるように一度押した。
「役所。右から二本目を下ろせ。わしはもう、あれは上がれん」
芹沢が梯子を上がっていく。錠は左手で梯子の脚を押さえた。
「落ちないでくださいよ、隊長。こっち片手なんで」
「なら、黙って押さえてろ」




