錐
表通りの角で車を降りる前から、鉋の音は聞こえていた。長く引いて、止まり、また長く引く。途中で引っかからない。錠は歩きながら、その長さを数えるのをやめた。数えなくても、切れていないのが分かる。
作業場には、室の職員が一人、先に来ていた。小さな機器を持って作業台の端に立ち、老人が一本引き終えるのを待っては、手を取って指の付け根に当てる。老人は手を取られるあいだだけ鉋を止め、放されるとすぐ次を引いた。職員は何も言わず、老人も何も言わない。芹沢は入口でそれを見ていて、手帳は出していなかった。
作業台に載っているのは、中二階から下ろしたあの材だった。木口の白かった角材が、もう三本、四面とも削られて、壁ぎわに寝かせてある。何になるのかを、錠は訊かなかった。訊けば、老人は桟の割り方から話しはじめる。
職員が機器をしまって出ていくと、老人は戸口のほうへ顎をしゃくった。
「あれが、しょっちゅう来る。手を止めんでええ、言うから、止めとらん」
「記録に残る、というのは、ああいうことです」と芹沢は言った。
「向かいの婆さんがな、手は大事にしなさいよ、言うてきた。わしは何も言うとらん。何を聞かされたんだか」
芹沢は答えなかった。答えを持っていない顔だった。老人はそれ以上は訊かず、鉋を置いて、棚のいちばん低い段に手を伸ばした。治具の鉋の隣に、布にくるんだ細い物がある。老人はそれを布ごと、錠のほうへ突き出した。
「持ってけ」
布を左手で開くと、目打ちが一本出てきた。先は針のように細く研いであって、柄は樫だった。治具を作ったときの端材と、同じ色をしている。
「あんた、左で印をつけとったろう。鉛筆は線が太い。あれでは、合わせる所が合わん」
錠は柄を握った。
指が、収まった。
「うわ」声が先に出た。「合う。……え、合うんすけど、これ。左に」
人差し指の腹の当たる所が浅くえぐれていて、親指の付け根が掛かる所に、小さな段がある。握り直さなくても、先がまっすぐ前を向く。工具箱のドライバーは、どれを握っても右手の形に減っていた。これは最初から、左手の形に削ってある。
「……いつ、見てたんですか」
「鋸を引いとるとき。ねじを締めとるとき。人の手は、道具を持たせると全部出る」老人は鉋を取り上げて、刃の出を見た。「柄は、あんたの治具で引いた。小刀は使えんでな。握らんで削れるのは、あれだけだ」
礼を言おうとすると、老人はもう板に向いていて、腰が落ち、鉋が動いた。屑が一本、膝の横まで伸びる。錠は目打ちを布にくるみ直して、上着の左のポケットに入れた。ポケットの上から押さえると、柄のえぐれが、布ごしにも指に分かった。
表通りの角まで戻って、車に乗った。芹沢は鍵を回す前に、前を向いたまま言った。
「次も、来るか」
「行きます」錠は答えてから、左のポケットを押さえたままだったことに気づいた。「……隊長、それ、毎回訊きますよね」
「命令じゃないからだ」
「俺、班の人間じゃないですよね。紙の上では」
「紙の上では、調査に協力している保護下の人間だ」芹沢は車を出した。「現場に来いとは、どこにも書いていない。来ているのは、お前だ」
錠は窓の外を見た。来いと言われて来たことは、一度もなかった。行きます、と自分の口が言うのを、もう何度か聞いている。
寮の共用の場所には、芹沢が先に上がっていた。卓の上に紙を一枚置き、三つ目の戸を二回叩く。
「雨宮。室長からだ。写しを渡す」
戸が開いて、雨宮が出てきた。錠は卓の、流しに近い側の端に座っている。雨宮は紙を取りに卓までは来ず、芹沢が戸口まで持っていくのを待って、受け取った。立ったまま読んでいる。読み終えるのに、紙一枚にしては長くかかった。
「現場の記録、一件」雨宮は紙の上の字を、低い声でなぞった。「……次の手続きに進む。次の手続きって、何」
「俺の持っている紙にも、そこまでしか書いていない」
「訊いたら、教えてくれるの」
「訊いておく」
「これ、戸川さんの家のぶん」
「そうだ。お前が打った記録だ」
「あと何件で、次なの」
「それも、書いていない」
雨宮は紙を二つに折り、もう一度折って、上着のポケットに入れた。喜んでいるのかどうか、錠のいる所からは分からない。一件、ともう一度だけ口の中で言ったのが聞こえた。
いちばん手前の戸が開いて、両角が顔を出した。
「隊長。あれ、続けることにしました。室長には、さっき言ってあります」
「そうか」
「右は最初から賛成で、左は最後まで反対でした。だから私が決めました」両角は錠のほうを見た。「君、夕方。朝比奈先生の部屋。また測るから」
「あれって、較正の」
「そう。較正の」
「なんで続けるんですか」
両角は少し黙った。指が戸の縁を二回、叩く。
「理由を言わない決定は嫌いなんだけどね。今回は、言わない」両角は自分の右のほうへ目をやった。「……笑わない。分かってるから」
戸が閉まった。錠は、閉まった戸をしばらく見ていた。あの人が理由を言わないのを、初めて見た。
芹沢は報告を出しに、階段を下りていった。
錠は卓に端材を一つ置いて、目打ちの先を当ててみていた。戸川の作業場でもらってきた、樫の切れ端だった。左手で柄を握り、先を木目に立てて、軽く押す。小さな穴が、思った所にあく。もう一つ。鉛筆の線の上ではなく、線の真ん中に、点が打てる。
三つ目を打とうとしたとき、戸の開く音がした。
三つ目の戸だった。
錠の手が止まった。廊下には誰もいない。芹沢は下で、両角は戸の向こうで誰かと言い合っている。雨宮が、空の湯呑みを持って戸口に立っていた。流しは、錠の座っている端のすぐ後ろにある。
「通る」
低い声だった。言ったのは雨宮のほうで、錠は一拍、それが自分に向けられた言葉だと分からなかった。いつもは、こっちが言うほうだ。
「……どうぞ」
錠は息を止めた。
目打ちの先が、雨宮のほうを向いている。錠はそれを卓の上に寝かせ、先を自分の腹のほうへ回して、手を離した。右腕は吊り布の中で、固定具の先の指が五本、動かずにいる。
雨宮は卓の反対側を回り、錠の背中の後ろを通って、流しの前に立った。蛇口をひねる音がして、水が湯呑みに落ちる。錠は前を向いたまま、卓の上の端材の、二つの穴を見ていた。首の後ろで、何かが出てくる気配を待った。
何も出なかった。
水が止まった。雨宮は湯呑みを持って、来たときと同じ側を回って戻っていく。途中で一度だけ、卓の上の目打ちと、穴のあいた端材に目が行ったのが、錠にも見えた。それについては、雨宮は何も言わなかった。三つ目の戸が、いつもより静かに閉まった。
錠は止めていた息を、鼻から出した。それから目打ちを取り上げて、三つ目の穴を打った。少し、ずれた。
部屋に戻って、錠は工具箱の留め金を弾いた。上の段にはドライバーが大きい順に寝ていて、その横に、鉋屑の輪が少しつぶれて入っている。下の段の隅には、太い字で錠と書いた紙袋が、まだ口を折ったまま押しこんである。つぐみは何回も送ったと言っていた。端末は預けたままで、その何回かを、錠はまだ一つも読んでいない。
ドライバーの列の端に、目打ちを置いた。握りの減った樹脂の柄が並ぶ中で、一本だけ木の色をしている。右手の形に減った道具の列に、左手の形に削った道具が一本、混じった。錠はそれを少しのあいだ見てから、蓋を閉めた。
夕方、錠は階段を下りた。
下りきった所で、渡り廊下のほうへ曲がる。階段の裏の鉄の扉は閉まっていた。あの夜は鍵がかかっていなくて、押せば開いた。中の盤に貼ってある紙の、昼も夜もほとんど変わらない数字の桁も、覚えている。
立ち止まりはしなかった。渡り廊下の先に、朝比奈の部屋がある。訊けば答える人で、訊かなければ言わない人だ。封筒の写しも、求めればそのつど新しいのが出てくる。抜き方はまだどこにも書いていないが、書かれるとしたらあの綴じた紙のどこかで、店に戻れば、そのどちらからも遠くなる。
矢作は、戻る場所は空けておくと言った。工具箱は、店の作業台ではなく、寮の部屋の床に置いてある。どちらに置いておくのかを、錠はまだ誰にも言っていないし、自分でも決めた覚えがない。ただ、今日もらった一本は、もうあの箱の中にある。
錠は吊り布の結び目を左手で直して、朝比奈の部屋のほうへ歩いていった。




