手袋
固定具は外れていた。室の医師が肩と肘を順に曲げさせ、指を一本ずつ握らせて、もういい、と言って留め具を外した。吊り布もない。右腕は体の横にただ下がっていて、錠はまだ、それをどこに置いておけばいいのか分からなかった。握れば握れる。ただ、工具箱を右で持ち上げると、肘から先が自分のものでないように震えるので、重い物は左で持つ癖がそのまま残っている。
車は四人で乗ると狭かった。運転席に芹沢、助手席に錠、後ろに雨宮と両角。雨宮は運転席の後ろで窓に体を寄せ、両角は膝の上に紙の綴りを載せている。
「両角さんも来るんですか」
「較正の続き」両角は顔を上げずに言った。「室長がそうしろって。右は、車酔いするから反対だって言ってる」
芹沢は前を向いたまま、必要なことだけを言った。
「治療の相談の窓口に、連絡が入った。団地の子どもの腕が、いつも赤く腫れている、と。そういう連絡のうち、うちの扱いかもしれないものは、うちに回ってくる。母親と、六つの子の二人暮らしだ。母親のほうに、数年前の治療の記録がある」
「子どものほうじゃなくて」
「母親だ。触ると、相手の肌が腫れるらしい」
「触ると、って。……じゃあ、子ども、抱けないじゃないすか」
「だから腕が腫れてる」
後ろで、雨宮が窓のほうへもう少し体を寄せた。
団地は五階建てで、どの階にも外廊下が一本、端から端まで通っていた。階段は建物の両端にあって、エレベーターはない。駐車場の側の階段を三階まで上がるあいだに、錠は戸を数えた。表札のない戸のほうが多い。新聞受けに紙の詰まった戸、三輪車の置いてある戸、何も置いていない戸。廊下の奥から二つ目の戸の前に、小さな長靴が一足、きちんと外を向けて並べてあった。
芹沢が戸を叩くと、中で足音がして、少し間があってから開いた。
「はい。……あの、どちらさまでしょう」
女は明るい声を出していた。三十過ぎの、エプロンをかけた人で、両手に白い手袋をしている。手袋は二枚重ねで、手首のところで下の一枚の縁が見えた。女は戸を開けるとすぐ、その両手を腰の後ろへ回した。
「芹沢といいます。三好さんですね。あなたのような症状の出た人を、保護している所の者です」
女の声から、明るさが半分だけ引いた。
「……腕のこと、ですよね。あの子の」
「そうです。上がってもいいですか」
玄関を入るとすぐ台所で、流しと、二人掛けの食卓があった。冷蔵庫の扉に、子ども会の当番表が磁石で留めてある。細かい字で名前と日付が並び、いくつかは赤で直してあった。雨宮は上がり口から中へ入らず、両角は戸口に立って、台所の中を見回している。
食卓の向こうに、男の子がいた。椅子の上に膝で立って、画用紙に何か描いている。知らない大人が四人入ってきたのを見ると、クレヨンを置いて椅子から下り、母親のそばへ行った。そばへ行って、半歩手前で止まった。母親が手を後ろに回しているのを見て、自分も両手を背中に回す。二人は同じ格好で、半歩あいだをあけて並んだ。
「蒼。お客さん。ごあいさつは」
「こんにちは」
男の子は錠を見上げて言った。それから、背中に回した手がむずむずしたのか、片方の袖を肘まで引っぱり上げて、腕を掻いた。
袖の下の肌が、赤かった。
手首から肘にかけて、帯のような痕が斜めに二本、巻きついている。指の幅だった。腕を外からつかんだ手の形ではなくて、内側へ抱きこんだ腕の、指が当たっていた所の形をしている。古いのは茶色く乾いていて、その上に、まだ薄く腫れた新しいのが重なっていた。
錠は目を離すのが遅れた。母親はそれに気づいて、男の子のほうへ体を向け、触れない距離でしゃがんだ。目の高さが同じになる。
「蒼、袖。おろして」
「かゆい」
「掻くと、あとになるから」
男の子は袖を下ろした。母親は立ち上がって、もう一度明るい声を作った。
「前は、何ともなかったんです。お風呂も一緒に入っていたし。それが、私が触った所だけ、赤くなるようになって。最初は洗剤かと思って、替えて、それでも」女は手袋の上から、自分の手首を握った。「手袋をしていれば、ほとんど大丈夫なんです。二枚にしてからは、ほとんど出ていません。腕のあれは、その前の」
「それ、直んないんすか」
口から出てから、錠は自分の言葉に気づいた。ラジオの話ではない。
「……すいません。治る、か」
「どっちでも」女は怒らなかった。「直るなら、直してほしいです。私も」
「三好さん」芹沢の声は低く、急がなかった。「うちの方針を先に言います。あなたには、うちの施設に移ってもらう。そこで、時間をかけて抑える治療をする。お子さんは、そのあいだ、別に保護する」
女の手首を握る手に、力が入った。
「別に、というのは」
「あなたとは別の所で、ということです」
「この子と離れるなら、行きません」
声は低くなっていた。女は半歩動いて、男の子を自分の背中の側へ入れた。触らずに、体の向きだけでそうした。男の子は母親の後ろから顔を半分出して、芹沢を見ている。
「いま言ったのは、うちの方針です」と芹沢は言った。「あなたの返事は、聞きました。今日は連れて行かない。あなたが断ったことは、そのまま上に報告します」
伝えに行く、と戸川のときは言った。今日は、その先を一つだけ足している。錠は芹沢の横顔を見て、あの回収の車を思い出した。書いて出したものがどう使われるかを、この人は一度見ている。それでも書くと言い、今日は連れて行かないと言った。言える所までを、言ったのだ。
「そのうえで、訊きます。三好さんは、どうしたいですか」
女はすぐには答えなかった。訊かれると思っていなかった顔だった。
「……この子と、ここで暮らしたいです。触っても、何ともならないようになりたい。それだけです」女は言ってから、手首を握った手を少しゆるめた。「抱っこして、って言われて、できないんです。それだけのことなのに」
「おにいちゃん」
下から声がした。男の子が母親の後ろから出てきて、錠の前に画用紙を一枚、床に置いた。手渡さずに、置いた。置いてから、また半歩下がる。
紙には、大きい人と小さい人が描いてあった。二人のあいだに、丸いものが一つある。大きい人の手は、紙の端まで伸びた長い線の先についていて、小さい人には届いていない。
「これ、何」と錠は訊いた。
「ボール」と男の子は言った。「おかあさんと、なげるの。なげるのは、さわらないから、いいの」
母親が小さく息を吸う音がした。
錠は画用紙を拾おうとして、右手を出しかけ、左に替えた。男の子はその右手を見ている。
「おにいちゃんも、て、いたいの」
「痛くはない。ちょっと、力が入らないだけ」
「ぼくも、いたくないよ」男の子は袖の上から、自分の腕を押さえた。「ちょっとだけなら、いたくない」
母親は流しのほうを向いた。蛇口をひねり、手袋のまま、何も洗う物のない流しに水を流して、すぐ止めた。
そのあとのことは、短かった。男の子が椅子に戻ろうとして、食卓の脚につまずいた。母親は手を出した。出してから、出したことに気づいた顔をした。
男の子の指が、母親の手首をつかんだ。
手袋の縁と、袖口のあいだ。
指の幅ほどの、素肌だった。
「蒼、離して」
男の子はすぐに離した。離して、自分の手を見ている。母親は一歩下がり、両手を後ろへ回して、壁に背中をつけた。
「流し。お水。自分でひねって。ずっと当ててて」
男の子は椅子を引きずって流しの前に置き、その上に乗って、蛇口を自分でひねった。慣れた手順だった。水の下の指は、まだ何の色も変わっていない。変わるまでに何分かかるのかを、錠は知らない。この二人は知っているのだ、と思った。母親は壁ぎわから、時計を見ていた。
芹沢は何も言わずに、それを最後まで見ていた。両角の鉛筆は動いていない。雨宮は上がり口で、顔を外廊下のほうへ向けていた。
「明日、医者を連れてきます」と芹沢は言った。「抑える方法があるかどうか、診てもらう。施設に行く、行かないは、その話を聞いてから決めてください」
女は頷かなかった。断りもしなかった。流しの水の下で、男の子の指の腹が三本、薄く赤くなりはじめている。
戸を出るとき、錠は一度だけ振り返った。男の子はまだ椅子の上で、指を水に当てている。母親は壁を離れて、その横の、手の届かない所にしゃがんでいた。同じ高さから、水の下の赤い指を見ている。両手は、膝の上で、手袋の上から握り合わされていた。




