あなたに聞いていません
朝比奈は昼前に来た。駐車場に白い車がもう一台入ってきて、運転してきた職員は降りてこない。朝比奈は鞄を一つ提げて三階まで自分の足で上がり、戸の前で息を整えてから、芹沢が叩くのを待った。
「朝比奈先生です」と芹沢は言った。「きのう言った、診る人です」
「朝比奈です」朝比奈は上がり口で靴を脱ぎながら、もう母親の手を見ていた。「手袋を取って、手を見せて。この子は、手の届かない所に」
母親は男の子を見た。男の子は母親の半歩手前で、きのうと同じに両手を背中へ回している。右手の指が三本、まだ赤い。
「蒼。お兄ちゃんと、あっちのお部屋にいて」
「なんで」
「お母さん、手を見てもらうから」
「ぼくも見る」
「見なくていいの」
男の子は動かなかった。朝比奈は鞄を食卓に置いて、男の子の前にしゃがみもせずに言った。
「先に、あなたの指を見せて。そのあとで、お母さんの番」
男の子は少し考えて、赤い指を出した。朝比奈は触らずに、明かりのほうへ向けさせて、表と裏を見た。
「水ぶくれにはなっていない。きのう、自分で冷やしたの」
「うん。ずっと」
「そう。今日は、こすらないで」朝比奈は立ち上がった。「はい、あなたの番は終わり。あっち」
順番を守られたので、男の子は文句を言えなくなった。画用紙とクレヨンの箱を抱えて、錠の袖ではなく上着の裾をつかみ、手前の部屋へ引っぱっていく。袖はつかまない、と決めている引っぱり方だった。雨宮は今日も上がり口から中へ入らず、外廊下の手すりのほうを向いている。両角は戸口の柱に肩をつけて、綴りを開いていた。
手前の部屋は畳で、低い卓が一つあった。襖は開けたままなので、台所の食卓が斜めに見える。男の子は卓に画用紙を広げ、青いクレヨンを錠に寄こした。
「おにいちゃん、かいて」
「何を」
「くるま。しろいの」
「白い車を青で描くのかよ」
「しろは、かいても見えないもん」
もっともだった。錠は右手でクレヨンを持ってみた。握れるが、線の終わりで手首が勝手に震えて、車輪がひしゃげる。左に持ち替えると、今度は丸が閉じない。
「へたっぴ」
「うるせえ。利き手が休みなんだよ」
「なおったんじゃないの。きのう、ぬの、なかった」
「布が取れただけ。中身はまだサボってる」
男の子は自分の赤い指を見て、それから錠の右手を見た。何か勘定をしているような顔だった。
台所では、母親が手袋を外していた。一枚、もう一枚。出てきた手は白く乾いていて、指の節のあたりが細かくひび割れている。朝比奈は鞄から出した機器を手の甲に当て、次に手首、前腕の内側と順に当てていき、そのたびに端末に何か打った。打った行の下に、少し間をおいて文字が返ってくるのが、ここからでも分かる。何と書いてあるのかは見えない。
「いま、怖い?」と朝比奈が訊いた。
「……いえ。蒼が、あっちにいるので」
「そう」
朝比奈は機器を当てたまま、手前の部屋のほうへ顔を向けた。
「久我さん。その子を、食卓の向こう側まで連れてきて。椅子に座らせて、動かないように」
「え。いいんすか」
「触らせるとは言っていない。近くに置く、と言ったの」
男の子は呼ばれたのが分かって、もう立っていた。錠は裾をつかまれたまま台所へ戻り、食卓の、母親と反対の側の椅子に男の子を座らせた。腕を伸ばしても届かない。それでも母親の肩が上がり、素手が膝の上で握られるのが見えた。
手の甲の色が変わった。乾いた白の上に、粉を吹いたような、もう一段白いものが浮いてくる。
「おかあさん、て、しろい」
「見ないの」
「見ていい」と朝比奈が言った。「この子は、もう知っているでしょう」
母親は何も言い返さなかった。朝比奈は機器の数字を読んで、端末に打ち、返ってきた文字を最後まで読んだ。それから端末を伏せた。
「さっきより上がっている。この子が近くに来ただけで。あなたが怖がっているときに強く出る、と私は見ているの。怖がっているのは、たぶん、この子を腫らすこと」
「……はい」
ひでえ仕組みだな、と錠は思った。触りたくて、触るのが怖くて、怖いほどひどく出る。口に出しかけて、やめた。きのう一度やっている。
「抑える方法は、あります」朝比奈は続けた。「うちの施設で、時間をかけて。準備に何日か要る。そこから先がどのくらいかかるかは、私にはまだ言えない」
「蒼は」
「そのあいだは、離れる」
短い言い方だった。
母親は男の子を見なかった。見ないで、膝の上の白い手を見ていた。
「離れないで、治す方法は」
「私は持っていない」
「ない、んですか」
「ない、とは言っていない。離さずに抑えた例を、私は知らないの。できないと確かめたわけでもない。私がここで約束できるのは、うちでやるなら離れる、という所まで」
「どうして、一緒じゃだめなんですか。同じ建物にいるだけでも」
朝比奈は芹沢を見た。芹沢は流しの横に立ったまま答えた。
「子どもは別に保護する。そう決まっています。決めたのは、俺でも先生でもない」
「誰が」
「上です」
錠は椅子の背をつかんでいた。離れるけど治る。治るんなら、それでいいじゃないか、と思っている自分がいる。室のやり方は気に食わないが、朝比奈は嘘をつかないし、芹沢は連れて行かないと言って本当に連れて行かなかった。どのくらいかは誰も言わないが、そのあとで触れるなら。
男の子が椅子の上で言った。
「おかあさん、どっかいくの」
母親は手袋を一枚目から付け直した。指を一本ずつ、奥まで入れる。二枚目も付けてから、やっと顔を上げた。
「すぐには、返事ができません」
「急がせません」と芹沢は言った。
「考えます。考えても、同じかもしれないですけど。……今日は、もう少し、いていただけますか。この人に、訊きたいことが、まだあるので」
この人、は朝比奈のことだった。朝比奈は鞄を閉じかけていた手を止めて、椅子に座り直した。
「訊いて。答えられることは答える」
検査は、それから夕方までかかった。母親は同じことを言い方を変えて三度訊き、朝比奈は三度とも同じ所で「そこから先は、まだ言えない」と止まった。途中で男の子が腹を空かせ、母親が手袋のまま握り飯を握った。握り飯は皿に置かれ、男の子は皿から取る。手から手へは渡さない決まりらしく、錠のぶんも同じ皿に載って出てきて、塩がきつくて、うまかった。
朝比奈の車が出ていったあと、外はもう暗くなりかけていた。両角は綴りを閉じ、右が腹が減ったって言ってる、と誰にともなく言って、雨宮と先に階段を下りていった。雨宮は最後まで一度も部屋に入らなかった。
芹沢と錠が上がり口で靴を履いているとき、戸の外に人が立った。
四十くらいの女だった。外廊下の灯りの下に、鞄も持たずに立っていて、戸が開くのを待っていたというより、叩いていいかどうかを考えていたように見える。芹沢と錠を見て、一歩横へよけた。道をあけた、という動きだった。
「三好さんの、お宅でしょうか」
母親が台所から出てきた。女は母親の顔を見て、それから手袋を見て、頭を下げた。
「夜分にすみません。真柴といいます。以前は医者をしていました。こちらの階の方から、三好さんのことを聞いて来ました」
廊下の、階段に近いほうで、戸が一つ細く開いた。顔は半分しか見えない。
「三好さん。その人は、離さないでくれる人だから」
それだけ言って、戸は閉まった。
芹沢が女に向き直った。
「芹沢といいます。この人を保護する側の者です」
「そう伺っています。お話の邪魔をしに来たのではありません」真柴は芹沢の目を見て言い、また母親に向き直った。「三好さん。五分だけ、聞いていただけますか。聞いて、要らなければ、それで帰ります」
母親は芹沢を見て、錠も芹沢を見た。止めるだろう、と思っていた。
「俺に、止める権限はありません」と芹沢は言った。「聞くかどうかは、三好さんが決めることです」
「……聞きます」
真柴は頷いて、まず言った。
「先に、都合の悪いことから言います。私は三好さんを診ていません。だから、これから言うことは全部、見込みです」
母親の後ろから男の子が顔を出した。真柴は膝を折って、こんばんは、と言い、男の子が母親の後ろへ引っこむのを待ってから立った。
「私にできるのは、一つだけです。体の中の機械に、体のことを全部任せる。そういう設定に、書き換えることができます。全許可、と呼んでいます」
許可、という音で、錠の首の後ろが勝手に固くなった。任せる、のほうは、もっと別の所に当たった。寮の卓。工具箱を提げてきた人の、穏やかな顔。
「書き換えると、怖さや緊張が薄くなります。三好さんの症状が、怖いときに強く出るものなら、収まる見込みは高い。お子さんと離れる必要は、ありません」
母親の手袋の指が、動いた。
「そのかわり、薄くなるのは怖さだけではありません。腹が立つことも、焦ることも、薄くなります。穏やかになります。それを良いと言う人も、そうでないと言う人もいます」
「やめたくなったら」
「やめたい、と言うことは、いつでもできます。言えば、機械はそこから先の新しいことを止めます。ただ」真柴は一度、息を継いだ。「書き換える前の設定へ、安全に戻す方法は、私もまだ知りません。……戻し方は、まだ知らないんです。止められることと、戻せることは別なので、分けて覚えておいてください」
手振りをしたとき、灯りが真柴の指先に当たった。十本とも、先のほうに細い傷あとが並んでいる。縫ったあとではなくて、何かが何度も出入りしたあとのような、そろった線だった。真柴は隠さなかったし、見せもしなかった。
「もう一つ。御影 静という人の所に、同じような体の人たちが集まって暮らしています。私もそこにいます。来てもいいし、来なくてもいい。御影さんの所へ来るかどうかは、いまの話とは別のことです」
御影。
錠の口が先に動いた。
「静の所かよ」
真柴は錠を見た。初めて見る相手を見る目だった。
「ご存じなんですね」
「行ったことある。あんたは、見なかったけど」
「そうですか」
それだけだった。訊き返してこない。うちの先生、と静が言っていたのを錠は思い出した。膝を砕かれた兵隊の横で。たぶん、この人のことだ。錠は上がり口から外廊下へ出て、母親と真柴のあいだに半分、体を入れた。
「帰ってくれ。この人は今日一日、手ぇ診てもらって、やっと方法があるって聞いたとこなんだよ。離れるけど、治るんだ。そこに来て、全部任せろって。この人は、そういうの要らないんで」
「あなたに聞いていません」
声は大きくなかった。
「この人に聞いています」
真柴は錠をよけなかった。錠の肩の横から、母親の顔だけを見ている。
錠は動けなかった。
要らない、と言ったのは自分だ。母親は一度もそう言っていない。
「……行ったことが、あるんですか」
母親の声は、錠に向いていた。
「どんな所でしたか」
錠は振り向いた。母親は手袋の両手を腹の前で握り合わせて、まっすぐこっちを見ている。ただ、訊いている顔だった。
嘘をつく手はあった。ひどい所だった、と言えば済む。
「……飯が、うまかったです」
言ってしまってから、錠は自分の声を聞いた。
「握り飯と、味噌汁で。茶碗が、俺のぶんまで出てて。誰も、何も訊かなかった。腕のことも、これからどうすんのかも。壊れた炊飯器があって、直したら、ありがとうって言われた。……楽でした」
「でも」
「住まなかった」
「どうして」
「分かんないっす。うまく言えない」錠は首の後ろをこすった。「一個だけ。そこの、御影って人が、膝やられて転がってる兵隊に訊いたんですよ。体の中に治療を入れてもらえる、うちに来ればいい、それでいいかって。痛がってる真っ最中に。そいつは、はいって言った。俺は、今そいつに聞くな、って言った。それは、今でもそう思ってます」
母親は黙って聞いていた。何を受け取ったのかは、顔からは分からなかった。
真柴は口を挟まなかった。錠が言い終わるのを待ってから、母親に言った。
「いまのは、この方が見たことです。私の話と、混ぜないで覚えておいてください。私からは、あと一つだけ。『はい』と言われるまでは、何もしません。今日は、指一本、触りません」
「……すぐには、言えません」
「急がなくていいです。返事は、あなたが決めたときで」真柴は廊下の先の、さっき開いた戸のほうを手で示した。「返事が決まったら、あの部屋の人に言ってください。はい、でも、いいえ、でも。私に届きます」
真柴は母親に頭を下げ、芹沢にも下げ、錠にも同じ角度で下げてから、階段のほうへ歩いていった。足音は急がなかった。
母親は戸口に立ったまま、しばらく動かなかった。それから芹沢に、今日はありがとうございました、と言い、錠には何も言わずに、小さく頭を下げた。戸が閉まり、内側で鍵が回った。
階段を下りるあいだ、芹沢は口を利かなかった。二階の踊り場で、錠のほうが我慢できなくなった。
「隊長。俺、余計なこと言いましたか」
「訊かれたことに答えた。それは余計じゃない」
「じゃあ」
「その前のは、余計だ」
言い返せなかった。芹沢は一段先を下りながら、振り向かずに続けた。
「要るか要らんかは、あの人が言う。お前が先に言うな」
「……飯がうまいって、言っちまった」
「うまかったんだろう」
「うまかったんすよ」
それがいちばん腹の立つ所だった。駐車場の白い車の中で、両角が窓を叩いて、遅い、と口を動かしている。




